2011年12月03日15時33分掲載  無料記事
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コラム

学費の問題〜大学は免罪符なのか?〜村上良太

  今、世界中で学費がなくて苦しむ若者がクローズアップされている。国が財政難から教育予算を削ればその分、学費の負担が増す。さらに学費を借金で賄って学校を出ても不況で就職できないと職業人生のスタートを切れないまま、多重債務者になるか、自己破産者になることを強いられる。そんな若者が本当に出てきている。日本でも法科大学院に進んだ学生が借金を数百万円抱えていることはすでに当たり前になっている。 
 
  ところで、進学を前にした子供を抱える父兄は子供にどう進学について話をしているのだろうか。昔から大学には金儲けをし、出世するために行くという考え方が多かった。学問をやらせたいから大学に行かせる、と純粋に思った親は少数派だろう。だから、大学に行かなかったら一生、貧乏することになるぞ、と脅すような話が多かったのではないかと思う。30年以上前になると、子どもを大学に通わせようとする親たちの多くは大学で学んだことがなかった。そのために、大学は金儲けをするための器だ、という風に外側の見た目からしか大学の価値を語れなかったのではないかと思う。一方、親が大学を出ている場合は大学で学んだ中身について語れたのではないかと思う。大学は単なる金儲けの器ではない、と考える親も少なくなかっただろう。 
 
  子供にとってはどちらの親の言葉で動かされるだろうか。僕だったら後者の親に動かされるだろう。大学に行くのが単に金儲けのために過ぎないなら、そういう人間になりたくないと思う若者も少なくないのではないだろうか。「今、大学に行かなかったらお前も一生99%になってしまうんだぞ!」と親に言われたら、どうだろうか。若者はそこに大学蔑視の匂いを嗅ぐだろう。‖膤悗砲和腓靴唇嫐がない(大切なことは実社会で学ぶ)大学に行かないと損をする。2つの相反するメッセージは子供を金縛りにする。 
 
  教育を勧める人間が金儲けのことばかり語るものだから、学校で何を学ぶのか、中身の話が零れ落ちているように常々感じられる。本当に学ぶ喜びを知っている親であれば大学を出ていようと出ていまいと、学ぶことを続けているのではないか、と思う。子どもは親の後ろ姿を見ているものである。図書館から本を借りてきて読むこともその1つである。また無料で教えている団体も数多くある。NHKの教育番組もある。その気になれば学ぶ手立てはたくさんある。 
 
  少し前の個人的な体験になるが、東京・四谷にある上智大学の一角でイエズス会が新約聖書をフランス語で購読する講座を一般向けに開放していた。学費は無料である。聴講するにあたってカトリックの信徒である必要はなかった。聴講に必要なものは500円のペイパーバックの仏語バイブルで、これは近くの交差点にあるカトリック関係の書店で売っていた。小生が通った10年ほど前の講師は80歳代のフランス人司祭だった。場違いな所に来たとは思ったが、講師や聴講者たちはみな学びに来る人に暖かかった。 
 
  本当に学びたいことがあれば金があろうとなかろうと、たとえ何年かかろうと、大学に行くことができようとできまいと学ぼうとするものである。1%を糾弾している人間が1%になりたいだけの人間なら人類の歴史は何も変わらない。 
 
■大学を出ていない文化人 
 
  大学に行かないことを勧めるものではないが、大学に行かなくても優れた業績を残している人は山のようにいる。むしろ金融工学にせよ、核兵器にせよ、遺伝子組み換え種子にせよ、大卒によるリスクも馬鹿にならない。大学が他人を出し抜いて金儲けする人間を養成するための機関なら反人間的な機関といえる。 
 
★劇作家トム・ストッパード(1937〜) 
  現代英国の最高の劇作家の一人である。 
 
  「トム・ストッパードは17歳で学業を終え、ジャーナリストとして働き始めた。1960年最初の戯曲 『水上の歩行』(A Walk on the Water)を完成した(この作品は後に『Enter a Free Man』の名で上演された)。1962年9月から1963年4月にかけて、ストッパードはロンドンで演劇批評家として働き、本名とウィリアム・ブーツというペンネームの両方で劇評やインタビューを著した。このペンネームはイーヴリン・ウォーの作品から取ったものであった。」(ウィキペディア) 
 
★劇作家アーノルド・ウェスカー(1932〜) 
   同じく英国最高の劇作家の一人である。 
 
  「1952年から56年にかけて、除隊後、手当たり次第にさまざまな職業につく。鉛管工の助手、農家の種子運搬、調理場の給仕など。やがて菓子調理人となり、ロンドンで2年、パリで9か月働く。その間にためた貯金を投じて、ロンドンの映画技術学校に入る」(晶文社「ウェスカー全作品 2 「調理場」「みんなチップスつき」の巻末より) 
 
★シェイクスピア(1564−1616)も経歴が謎めいているが、大卒ではないと考えられている。 
 
★ジョージ・オーウェル(1903−1950) 
 
  成績優秀だったオーウェルは名門大学に行くこともできたようだが、英国の植民地だったアジアに赴き、警察官になった。そこで作家活動の元になる体験を経ている。 
 
★アラン・シリトー(1928−2010) 
 
  ’He left school at the age of 14 and worked at the Raleigh factory for the next four years, spending his free time reading.’(ウィキペディア) 
 
  「長距離走者の孤独」などで知られる英国の作家、アラン・シリトーは労働者階級の子供に生まれ、14歳で工場に働きに出ている。仕事の傍ら、読書に励んだ。英国の作家に大学を出ていない巨匠が少なくないのは、英国が階級社会であったことと関係があるだろう。 
 
★アーネスト・ヘミングウェイ(1899−1961) 
 
  ハードボイルドと呼ばれる文体を構築したヘミングウェイは裕福なシカゴの医師の家庭に生まれたが高校を出るとカナダの新聞の記者になった。その後、特派員としてパリを訪れたことがきっかけで小説を書き始めた。パリの貸本屋「シェイクスピア書店」に通い本を借りてよみながら、文学修業を積んだ。幸運だったのはこのパリの書店にジェイムス・ジョイスなど実験精神旺盛な作家が出入りしていたことである。1954年にはノーベル文学賞を得た。 
 
★レイ・ブラッドベリ(1920−2012) 
 
  SF詩人というあだ名を持っていたように、下級文学と主流派文学サークルから相手にされなかったSFの中に、文学性を持ち込んだと評価されている。そうした評価は「火星年代記」(1950)などの短編小説集に顕著だが、その一方で、「華氏451度」のように、全体主義の怖さを巧みに描いた小説でも優れていた。「ブラッドベリは成功の秘密は大学に行かなかったことにあるとまで言い切る。大学教育の代わりに、彼は手に入るだけの小説を読み漁った。エドガー・アラン・ポー、ジュール・ベルヌ、H.G.ウェルズ、エドガー・ライス・バロウズ、トーマス・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイ。ブラッドベリは1971年に書いた作家たちへのオマージュの中で、「大学で勉強する代わりに、僕は図書館を卒業したんだよ」と書いている。」(ニューヨークタイムズ 訃報記事から) 
 
★ヘルマン・ヘッセ(1877−1962) 
 
  「難関とも言われるヴュルテンベルク州試験に合格し14歳のときにマウルブロン神学校に入学するが半年で脱走。その後両親の知り合いの牧師の悪魔払いを体験するが効果なく自殺未遂。その後シュテッテン神経科病院に入院する。カンシュタットのギムナージウムに入学するが続かず本屋の見習い店員となるが3日で脱走するなど様々な苦悩を体験する。このころの経験が『車輪の下』原体験となっていると言われる。その後様々な職をつきながら作品を発表する。」(ウィキペディア) 
  ノーベル文学賞を受賞。 
 
★エイモス・チュツオーラ(1920−1997) 
 
  「やし酒飲み」で知られるナイジェリアの世界的作家エイモス・チュツオーラは「7歳の時イボ人のF.O. Monuの使用人になり、給料の代わりとして10歳から救世軍の小学校へ行き、12歳でアベオクタのアングリカン中央学校へ入学。 1934年にMonuの転勤に伴ってラゴスへ移り、ラゴス高等学校に通うが、1936年にアベオクタの救世軍学校に戻る。1939年父親の死に伴い学校を辞める。このためチュツオーラの教育は僅か6年間の短いものだった。 学費の捻出が果たせなかったため鍛冶屋の技術を身に付け、1942年から1945年までナイジェリアのイギリス空軍で働く。ビルマでの後方勤務なども経て、第二次世界大戦終戦とともに職を失い、パン売り、ナイジェリア労働省のメッセンジャーなど、多くの職に就いた。」(ウィキペディア) 
 
 
★ジョゼ・サラマーゴ(1920−2010) 
 
  ノーベル文学賞に輝いたポルトガル人の作家サラマーゴは1922年にリスボンの北東およそ100キロに位置するリバテホ郡の土地を持たない貧農の家庭に生まれた。家庭が貧しかったため、大学教育を受けることはできず、技術系の学校に5年間学ぶことになった。その時、フランス語や文学についても学んだという。修了後に最初についた職は自動車修理工場の機械工だった。それを皮切りに製図工、社会福祉事務所の職員、翻訳家、編集者など様々な職を経験した。社会人になった当初からリスボンの公共図書館に夜間通う日々だったという。 
 
★ドレス・レッシング(1919−) 
 
  ノーベル文学賞を受賞した英国人作家。英国で生まれたが、少女時代に白人国家南ローデシア(現在のジンバブエ)で過ごした。「ドリスは、ソールズベリー(現ハラレ)カトリック系の女学校であるドミニカ女子高等学校に入学するが、13歳で学校を離れ、以後独学を続けた。15歳で家も離れると、メイドとして働き始めた。この時、雇い主からもらった政治や社会学の本を読み始め、作家活動を開始した。」(ウィキペディアより) 
 
★レイモンド・チャンドラー(1888-1959) 
 
 アメリカの作家レイモンド・チャンドラーはハードボイルド小説の登場人物として名高い探偵フィリップ・マーロウを生み出し、独自の文学を切り拓いた。探偵小説ばかりか、純文学を含め後世に多大な影響を与えた。 
  「P・G・ウッドハウスやセシル・スコット・フォレスターといった出身者のいるパブリックスクール、ダリッジ・カレッジで古典教育を受ける。夏休みにはウォーターフォードで母方の親族と共に過ごした。大学には進学せずにパリやミュンヘンで過ごし、語学力を磨いた。」(ウィキぺディアより) 
 
★ジャック・プレヴェール(1900−1977) 
 
  シャンソン「枯葉」、詩集「パロール」の詩人として知られるが、「天井桟敷の人々」や「霧の波止場」「ジェニイの家」などの傑作映画の脚本家としても知られる。戦後、フランスで最も愛された詩人である。 
 
  「15歳から、パリの商店や百貨店で働いた。1920年(20歳)、徴兵先のリュネヴィルで、のちの画家イヴ・タンギーを知り、さらに翌年、駐留先のコンスタンティノープルで、後の編集者マスセル・デュアメル(Marcel Duhamel)を知った。1922年、パリに戻り、映写技師の弟ピエールが勤める映画館に、3人で入り浸った。1924年から3人はモンパルナスで共同生活を始め、1925年からそこへ、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、レーモン・クノーら、シュルレアリストが出入りして、一ときプレヴェールも同調したが、1928年、疎隔して絶縁し、タンギーやデュアメルらと映画制作に打ち込み、かたわら、詩を雑誌に載せ始めた。」(ウィキペディア) 
 
★ハロルド・ロス(雑誌ニューヨーカーの創設者) 
 
  13歳で学業放棄、叔父のもとに家でし、デンバーポスト紙の仕事を始めた。その後、家に帰ったが、学校には戻らずソルトレイクテレグラムという小さな夕刊紙の仕事を始めた。(ウィキぺディアより) 
 
 
★ジャン=ジャック・ルソー(哲学者) 
 
  私淑する夫人の家の図書室の本を読んで独学した。 
 
 
★映画監督クエンティン・タランティーノ(1963−) 
 
  16歳で高校を中退し、ロサンゼルスのビデオ店で働きながら脚本を書いてデビュー。 
 
★赤塚不二夫や石ノ森章太郎,藤子不二雄、松本零士など、日本の草創期の漫画人の多くもそうである。 
 
★ロバート・ミッチャム(俳優1917-1997) 
 
「スコットランド=アイルランド系の父親とノルウェー系の母親の間に、コネチカット州にて生まれる。1歳のときに列車事故で鉄道員の父親を失い、一家は母親の実家のあるニューヨーク州に移り住む。子供の頃から家庭に恵まれずにすさんだ青春を送り、14歳のとき船員になろうと家を出て生計を立て、炭鉱夫、排水溝夫などの肉体労働で各地を回った。その末にカリフォルニア州に出稼ぎに出るが、浮浪者として逮捕されたこともあった。その後、プロボクサーとなって27試合に出場。あの眠たそうな目はこの時に顔を殴られた為に出来たもの。」(ウィキペディア) 
 
★スティーブ・マックイーン(俳優 1930-1980) 
 
  「インディアナ州インディアナポリス近郊のビーチグローブ出身。父親は曲芸飛行士、母は家出娘であった。生後6ヶ月の頃に両親が離婚。母親の再婚とともに各地を転々とするなど環境に恵まれず、14歳の頃カリフォルニア州立少年院に入れられる。1年半後に出所し、17歳で海兵隊へ入隊。後に映画『大脱走』や『パピヨン』で脱走を企てる役を演じているが、実際に海兵隊の兵役中も数多く脱走しており、全て失敗に終わっていた。除隊後はバーテンダーやタクシードライバー、用心棒などで生計を立てる。」(ウィキペディア) 
 
★サフィア・ミニー(1964−) 
 
  「ピープル・ツリー」の創設者はインド系英国人のサフィア・ミニーさん(1964−)。ミニーさんは高校卒業後、ロンドンで出版とマーケティングの仕事に携わる傍ら、人権や環境保護のNGO活動に参加した。1990年に夫と来日。当初、NGO団体を作って発展途上国への支援活動を行っていたが、95年にフェアトレード部門を法人化し、フェアトレードカンパニー株式会社を日本で設立した。これがファッションブランド「ピープル・ツリー」の母体となった。 
 
 
★作曲家、武満徹(1930−1996) 
  日本が誇る世界的作曲家である。 
 
  「京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験するが、自分に合わないと感じたためか、二日目の試験を欠席する[9]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[10]。 
・・・ 1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューする」(ウィキペディア) 
 
★安藤忠雄(1941−) 
  世界的建築家である。 
 
  「大阪府立城東工業高等学校(現在の大阪府立城東工科高等学校)卒業後に、前衛的な美術を志向する具体美術協会に興味を持ち、関わったこともあるが、大学での専門的な建築教育は受けておらず、彼の著書「建築家 安藤忠雄」によれば関西の建築家・都市計画家の水谷頴介などの建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で建築士試験に合格したという。木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。」(ウィキペディア) 
 
★フランソワ・トリュフォー(1932−1984) 
  フランス・ヌーベルバーグの巨匠である。 
 
  「パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。」(ウィキペディア) 
 
★フェデリコ・フェリーニ(1920−1993) 
  戦後イタリア映画界屈指の巨匠である。 
 
  「高校卒業後、新聞社に勤務し、古都フィレンツェや首都ローマで挿絵や雑文を書いていた。その後、ラジオドラマの原稿執筆などを経てロベルト・ロッセリーニ監督の映画『無防備都市』のシナリオに協力。同作品はイタリア・ネオリアリスモ映画を世界に知らしめた記念碑的作品である。」(ウィキペディア) 
 
★黒澤明、小津安二郎、溝口健二、伊藤大輔、木下恵介、市川昆、吉村公三郎、新藤兼人、伊丹十三といった日本映画の巨匠たちはいずれも大学を出ていない。日本映画から彼らを抜いたら何が残るだろうか?だからと言って、彼らが無学無教養だったわけではない。皆、世界文学全集、日本文学全集の類は読破している。映画撮影所で切磋琢磨したのである。 
 
  ただし、当時大学卒はかなりの少数派であり、大卒でなくても新聞社や映画会社などで働く機会を相対的に得やすいことはあっただろう。ここでは、大学教育を受けなかったからといって機会さえ与えられば活躍できる人間がいることを示しているだけである。そして、これを書きながら、大学出の人間が増えれば増えるほど文化が低調になっていく印象もぬぐえない。 


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