2004年04月26日11時52分掲載  無料記事
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自由の到来告げたポルトガル無血革命から30年 植民地の独立につながった独裁体制打倒

  【リスボン25日=宮下洋一】1974年4月25日、ポルトガルの首都リスボンで起きた「カーネーション革命」(別名・リスボンの春)から、ちょうど30年が経過した。この日付はポルトガル市民にとって、忘れられない重要な意味を持っている。約半世紀にわたって続いてきたサラザール独裁体制が崩壊した日だ。若手将校たちが無血でこの革命を成功させ、自らの鉄砲の先にカーネーションを刺したことからそう呼ばれるようになった。自由の時代の到来だった。その後アンゴラ、モザンビーク、マカオ、そして東ティモールと、全植民地が独立していった。 
 
 カーネーション革命とは具体的に何だったのか。1920年代半ばから始まったオリベイラ・サラザール独裁国家(エシュタード・ノーボ)に終止符をうとうと、オテロ・サライバ・デ・カルバーリョ大尉がクーデター計画書を秘密作成。彼らが中心になって結成した国軍運動(MFA)が軍部を掌握した上で、4月25日にクーデターを実行した。当時のポルトガルは、植民地戦争を維持するために国家予算の半分を軍事費に割いていた。殖民地への出動を拒否する兵士や、政府に叛旗を翻す若手将校が多数にのぼり、その処罰を拒否したコスタ・ゴメス参謀総長とスピノラ参謀次長が解任されるという異常事態の中で4月を迎えていた。 
 
 24日午後10時55分、作戦通り、リスボンのラジオ局からユーロフェスティバルに向けたポルトガル代表曲「さようならの後に」(エ・デポイス・ド・アデウス)を流した。この曲は、革命を何気なく予告する内容だった。引き続き25日午前0時25分には、反体制派歌手ジョゼ・アフォンソによる革命に向けた歌「グランドラ・ビラ・モレナ」が流され、それを合図に国軍運動の将校たちは決起した。革命はもうそこにあった。 
 
 首都リスボンでは、独裁体制の象徴であったポルトガル軍団本部、国家防衛警察本部、国防省、オポルト空港などが24時間以内に無血のうちに占拠され、決起した将校たちによる政府機関の接収はポルトガル各都市で行なわれた。1968年からサラザールの後継者となり、独裁を維持してきたマルセロ・カエタノ首相は早朝5時、「革命はもう通りに出ている」との連絡を受けた。 
 
 カエタノ首相は、全体主義体制の構造そのものは変えなかったものの、不正選挙に抗議して国外追放になっていたポルトの司教の帰国を認めたり、マリオ・ソアレスの国外追放令の撤回、検閲の一部緩和など、独裁体制への批判をかわそうと努めていた。しかし、国家防衛警察の監視と植民地戦争に縛られて、何ら有効な政策はうてなかった。 
 
 若手将校らは主要都市を完全に包囲。彼らは銃撃命令が出ていたにもかかわらず、発砲することを拒んだ。そのまま、クーデターは成功に終わった。当時900万人のポルトガル人たちはみな、興奮状態のまま町中で独裁体制崩壊の瞬間を叫んだ。木の上をよじ登り、そして戦車や装甲車の上に数十人が駆け上り、兵士たちと共に両腕を宙に振り上げて自由の獲得を体いっぱいに表現した。民衆の喜びが爆発した瞬間だった。街行く兵士の頭上には花びらが舞い、群集が兵士の銃口にカーネーションを差し込んだことから、ポルトガル革命のもうひとつの呼び名の由来となった。 
 
 革命の25日には、これまで政府によって検閲されてきた新聞が緊急版を印刷し、報道・表現の自由を提示した。「レプブリカ」紙はその緊急版の1面下に「この新聞はどこからも検閲を受けていません」と赤い枠で目立つように囲い、掲載した。こうして半世紀にわたった独裁体制は、わずか1日で崩壊した。後に「リスボンの春」と呼ばれることになる自由の時代が到来したのであった。 
 
 しかしこのカーネーション革命から30年の間、ポルトガルはさまざまな困難に直面してきた。国内経済麻痺、市民戦争危機、植民地から本国送還で行き場を失った人々など、厳しい現実が待ち受けていた。革命最大の功労者であったオテロ将軍が、その思想を理由に禁固15年の判決を受けたように、ポルトガル革命は大きな変節を遂げてしまった。そして民主主義は到来したものの、1992年の欧州共同体統合で、小さな国を見せつけてしまう羽目にもなった。政治的には、重要な役割を果たしたが、経済と社会の面ではさまざまな問題が低迷していたのだった。 
 
 30周年を迎えたいま、国民の間では、ポルトガルには「本当のカーネーション革命はまだやってきていない」という声も聞かれる。彼らにとって、それは何を意味するのか。アンゴラ情勢の安定と東ティモール独立という最終課題を乗り越えたいまもなお、どこかに解消しきれない問題があるにちがいない。国民の英雄の1人に位置づけられるマリオ・ソアレス元大統領も革命が終わると右派の台頭を再び許し、共産党を追い詰めた経歴を持つ。大統領時代の緊縮財政政策は、国と社会党の分裂を招いた。 
 
 25日、リスボンのテージョ河の上をカーネーションのような形をしたぎざぎざの赤い花火が切りなく打ち上げられている。それを見る若者たちは「エ・デポイス・ド・アデウス」を誇らしげに歌いながら革命30年を祝った。 
 
(写真は2004年4月) 


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