2005年02月12日23時11分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200502122311036

「今、問い直したいメディア」 北海道新聞・黒田記者の講演

 NHKの「戦時性暴力」番組が自民党幹部らの圧力で改変されたことを内部告発した、番組担当ディレクターが会見の席で見せた涙は何だったのだろうか? 国民の批判を浴びながらもマスメディアのなかで報道の使命を果たすには、視聴者の激励が不可欠なのだという訴えではないかと思われる。以下に講演内容を紹介する北海道新聞の黒田理記者も、そのような思いを胸に日々記事を書き続けているジャーナリストのひとりである。同記者が昨年11月17日に「さっぽろ自由学校」で行った「今、問い直したいメディア」に耳を傾けてみたい。 
 
■今もよみがえるフラッシュの嵐 
 
 今年3月中旬からイラクのサマワで活動している自衛隊の取材に3週間ほど行きました。取材を終えて隣のクウェートまで戻ってきて帰国準備をしていた時に、高遠さんら3人の人質事件が発生しました。そのまま戻らずにヨルダンのアンマンとアラブ首長国連邦のドバイで事件の取材をしました。私は事件の前から高遠さんと今井君を知っていました。以前、カイロ支局に勤務していたことがあり、イラクに関心を持っている2人とは取材を通じて知り合いました。解放された2人と一緒に日本に戻ってきてから、彼らの活動はいずれ多くの人たちに理解されるだろう、武装勢力は自衛隊の撤退を要求していたし、小泉首相がイラク戦争を支持して自衛隊をサマワに派遣したことが問題の根源であるという主旨の記事を書きました。また、高遠さんのインタビューを聞き書きしてまとめたりしてきました。きょうはそうした取材を通じて見えてきたメディアの問題点、人権と報道の関係とか自分自身の反省点も含めて話したいと思います。 
 
 人質事件の発生前から日本を離れていたので、実際にこれほどバッシング、誹謗中傷、自己責任批判みたいなものが盛り上がっているとは肌で感じていませんでした。ちょうど彼らが解放されてドバイに移送されるため、病院の前で待っていた時、友人のNGO関係者が日本の週刊誌を見せてくれたのがバッシングの酷さを知る始まりでした。その内容は「○○は共産党とのつながりがある」など、根拠のないものだったと記憶しています。私はアンマンの現地対策本部を中心に取材をしている時、今回の3人の行動に対して「無謀だ」という批判がある程度出るかもしれないが、それほど大きな話にならないとたかをくくっていました。以前は皆、メディア関係者も高遠さんたちと同じルートで陸路イラクに入っていたからです。知り合いの記者にも拘束こそされなかったものの、銃で脅され、金を取られた人がいました。自分たちのことを棚にあげて3人を批判できないのではないか、と考えたのです。しかし、そうではなかった。激しい取材攻勢、そして3人へのバッシングが繰り広げられました。 
 
 ドバイの病院前では70人くらいの記者、カメラマンが待ち構え、取材が過熱気味になっていると感じました。運ばれてきた高遠さんの憔悴しきった様子ははっきりわかりました。泣きじゃくり、うつむいて病院の関係者に支えられ、激しいフラッシュをたかれている光景が今でもよみがえります。 
 
■記事化することの意味 
 
 2人が何のためにイラクに向かおうとしていたのかはわかっていました。高遠さんとは私がイラクに入る直前に日本で会っていて、「バグダッドでお会いしましょう」というメールももらっていました。今井君がイラクに行くとは聞いていませんでしたが、彼は劣化ウラン弾の被害に強い関心を持っていました。若く、行動力があり、正義感も強い。その彼がイラクに入ったと聞いても不思議はなかった。 
 
 私は2人を知っていただけに「何とか助かってほしい」と祈りながら取材しました。できれば何か端緒をつかめないかとアンマン在住のイラク人にも取材しました。だから、ドバイで彼らの元気な姿を見たときは「良かった」というだけで、正直に言うと記事なんかどうでもいいという気持ちでした。 
 
 自分勝手な話ですが、私は報道陣の一員ながら、その輪の中にはいたくないという思いがありました。できれば過熱した報道合戦には参加したくないという気持ちです。本当に「この仕事は嫌だ」「マスコミはとんでもない」と吐き気を感じる場面も一度ならずありました。 
 
 3人が日本に戻る飛行機に、私も含めて日本のメディア関係者が30人くらいいました。ドバイの空港の搭乗口はテレビカメラを担いだ人がたくさんいて異様な雰囲気でした。その時、あるテレビの記者がこう提案しました。「混乱を避けるために、1社15分ずつ時間をもらって取材をしよう」と。さらに「3人とその交渉をできる親しい記者はいないか」と呼びかけました。本当に混乱が避けられるならその役を買ってもいいかなと思ったんですが、関わりたくない気持ちが強くありました。結局、ある新聞社の中から「その提案は受けられない」という意見が出て、立ち消えになりました。(その新聞社の記者は3人への配慮をしたというよりは、15分では十分な取材ができない、と考えたためと思われます)到着した関西空港でもすごい数の報道陣がいて、飛行機の出口のところにはカメラマンがずらりと並び、激しいフラッシュがたかれました。 
 
 その後2人は北海道に戻ってきました。それまで新聞、放送の各社が自宅の前で、何か動きがあれば家族から話を聞くということで詰めていたのですが、2人が帰ってきてからはそうした取材方法はやめました。北海道庁の記者クラブと両家の間で定期的な連絡は代表の社にするということにしたためです。そうしたこともあり、その後は特に大きな混乱はなかったと思います。 
 
 報道被害に苦しむことが予見される場合は、被害にあった人が何か伝えたいことがあればそれを受ける形にしておき、記事にする・しないは各社の判断でいいわけですから、無用な取材攻勢はやめるというのがあるべき姿だろうと思います。 
 
 この事件の報道姿勢に全国的なメディアと北海道のメディアの間で多少違いがあったのかなと思います。北海道の記者の中には2人を取材したことがある人もいたし、事件発生後はそっとしておきたいという気持ちの人が少なくなかったと思います。あるいは新聞、テレビというのは競争している一方で、横並び意識が強いので、他社が書かないんならうちもいいやという意識が働いたのか、比較的、報道のコントロールというのがうまく行ったのではないかと思っています。 
 
■メディアの原動力 
 
 自宅に戻ってきた2人の憔悴ぶり、バッシングで受けた傷跡はとても深いものがありました。高遠さんはじんましんがひどくて、安定剤を飲まなければ寝られなかったり、外へ出るのが怖いという状態が続いて、元気な今井君も体に発疹が出てなかなか消えないといった後遺症に悩まされました。 
 
 実際に2人へのバッシングは激しかったし、私が現地で事件の取材をしている間に会社のFAXとかメールに、誹謗中傷の意見がひっきりなしに入ってきたようで、それらを受けていた記者は本当にうんざりしたと後から聞きました。私は関西空港に戻ってきた日に「2人がやってきた活動はいつかは理解されるはずだ。日本政府がイラク戦争を支持し、自衛隊を派遣したことが事件の本質ではなかったか」という趣旨の記事を書きました。東京の国際部にも自己責任論に怒りを感じているデスクがいて合作するような形で執筆しました。この記事に対しては、読者から「感情的だ」とか「私信のような記事を載せるのはけしからん」という批判がありました。しかし、それをはるかに上回る多数の激励もいただきました。北海道新聞は事件発生の時から2人へのバッシングを批判する記事を載せてきていましたが、多くの激励をもらうとその方向でスタンスが決まるところがあるように思えました。われわれの仕事はどんな状況でも書き続けるのが大切なことは言うまでもありません。さらに読者の支持、激励がその原動力になっている、それに勝るものはないと感じました。 
 
■煽り、炊きつける記者 
 
 日本に帰ってきて、どうして自己責任論が出るようになったのか調べようと思いました。東京などにも出張して取材しました。最初は小泉首相をはじめ政府関係者が自分の責任を考えてもらわなければいけないとか、渡航自粛が出ているのにイラクに行くのは皆を困らせるだけだといった発言をたくさんしていたんですが、よく言われるように政府の言うことに一部のマスコミが乗って焚きつけている面もあったようです。例えば、東京の政治の取材だと大臣や政府の幹部には番記者がつくんですが、そうしたやり取りの中にはある社の記者のほうから「家族の中に共産党がいるけどどうなんだ」と事実に基づかない質問をして、逆に幹部が「家族の信条には関係のないことだ」と、諌める発言をしていました。その記者が本当にそう思って言っているのか、幹部に取り入ろうとしているのかわからないが、そうした情けないやり取りが交わされている。一部の全国紙でも「自己責任論は悪者なのか」という記事を載せたり、明らかに自己責任を問うメディアも当時はありました。 
 
 私たちの主張と大きな差が出たのは、人質になった人を知っているか知らないかも大きな違いではないか、と感じました。知らないからどんな記事を書いてもいいというか、別に自分に責任は返ってこないという気持ちが働いているのではないか、と。2人を良く知っていれば記者というより一人の人間として、何をどう書くべきなのか、自分に問いかけるものがあると思うんですけど、それがないから無責任な記事を書いてしまうのではないか。自己責任論をあおってきた週刊誌の記者の中には2人から直接取材ができないので私を訪ねてきたり、電話してきたりする人もいます。何か言えば好きなように書かれてしまうという気持ちがあるので、私は「記事に書いたこと以外は話せません」と取材を断ることにしています。 
 
■悔やまれる香田さん事件 
 
 2人は深い傷を受けているのでそっとしてやりたいという気持ちがある一方で、なるべく早く2人が落ち着いた時点で、「イラクで拘束されている時に何が起こっていたのか」「その時、何を考えていたのか」は伝えたいと思っていました。不安定な状況で語ってもらうのではなく、しっかりと語ってもらいたかった。高遠さんは拘束されるまで、戦後のイラクでのべ6カ月くらい活動し、イラク、なかでもファルージャの草の根の市民とずっと深い付き合いを続けてきました。おそらく民衆レベルで戦後イラクをこれほど深く理解している日本人はほかにいなかったと思います。自己責任論にばかり目がいくと、彼女が話すことにも耳を傾けられなくなるのではないかと危惧(きぐ)しました。だから早い段階で多くの人に、彼女が語るイラクの実情を知ってほしいと考えました。高遠さんに何回か長い時間インタビューをし、聞き書きの形で連載記事を書きましたが、それは彼女にしか話せない内容でした。 
 
 こうした形で私は自己責任論に多少なりとも抵抗してきたつもりです。しかし、実際にはきれい事ばかりじゃなくて、自分でも力のなさを感じることが多いのです。一つは企業マスコミ、新聞社で働いているということもあるんですが、先日の香田さんの殺害事件のときには自分の弱さを本当に感じました。あの時、高遠さんらの事件に似ているということで、「2人の家族のコメントがほしい」という話になりました。私は一度報道で傷ついた人たちに聞いてもたいした答えは返ってこないし、再び傷つけることになりかねないと考えました。しかし、結局は若い記者に両家に行ってもらい、コメントをもらうことになりました。その時の記事は「イラクで日本人男性が人質になったとの情報を受け、今年4月の人質事件で現地の武装勢力に拘束された高遠さんと今井君の家族や支援者らは“他人事ではない、無事救出されてほしい”と、香田さんの即時解放を訴えている…」という内容でした。私が記事をまとめたのですが、読み返すと、やはり「こんな記事が本当に必要なのか」と思うんです。 
 
 一方で香田さんが殺害されたとわかった日、両家はマスメディアに促されるような形で「無念です」というコメントを出したんですが、このときには北海道新聞は掲載しませんでした。当日のデスクが意味がない、強盗事件があった時に、かつて被害にあった人にどう思うかと聞くのと同じだと言ってくれました。その通りだと思うんです。そのデスクの言葉を聞いて、香田さん事件の発生時に私がもっと抵抗しておけばよかったと非常に悔やまれました。私自身の弱さをかみしめました。 
 
■微力だが責任ある記事を 
 
 では、新聞記者は何をやるべきなのか、何を取材して伝えるべきなのか、例えば香田さんの事件を受けてやるべきことは何なのか。香田さんの行動は軽率だとか言われていますが、やはり自己責任論に収れんさせるのではなく、自衛隊派遣の是非をあらためて考えることが求められていたのだと思うのです。 
 
 これも反省をこめて言うのですが、高遠さんたちの人質事件のときに私たちは自衛隊派遣、自己責任論の問題点についてもっとしっかり議論しておくべきだったのではないか。もっと議論を起こすような記事がたくさん出て、あのときにちゃんと整理できていれば、今回のような状況にはならなかったかもしれない。それが足りなかったことが、香田さんへの批判、あるいは無関心につながったのではないかと残念に思います。 
 
 私にできることは微力ですが、そういった反省を胸に刻み、仕事をしていこうと考えています。 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。