2005年08月06日11時47分掲載
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「沖縄」を多角的に語り継ぐ努力を 6・23「慰霊の日」報道を検証
悲惨な沖縄戦が事実上終結したのは1945年6月23日。この日は「慰霊の日」とされ、広島・長崎原爆の日、8月15日の敗戦の日と同様、日本国民の心に永久に刻み込まれなければならない歴史的悲劇の日である。新聞各紙は60年目の「6・23」をどう報じたか。ジャーナリストの池田龍夫氏は、沖縄紙の意欲的な紙面づくりにくらべて本土紙の扱いが冷たいと分析、これ以上の歴史の“風化”を防ぐために、現在もつづく沖縄の悲劇をふくめグローバルな視点から6・23が問いかける意味を掘り下げる努力を惜しむべきでないと訴えている。(ベリタ通信)
かつて本土防衛の�犲里得亅瓩世辰寝�縄は今、日米軍事同盟の�猴廰瓠覆�なめ)と位置づけられ、戦後半世紀以上経っても戦争の悪夢がつきまとっている。牛島満・第三二軍司令官の自決によって、沖縄戦敗北が決まった6月23日からちょうど60年、糸満市摩文仁(まぶに)で催された「沖縄慰霊の日」式典に特別の感慨を覚えた。�犂霖呂療膈瓩鉢猝�しの島�瓩�果たして共存できるのか…。今なお犠牲を強いられている沖縄の現実は厳しく重い。
新聞各紙が「6・23の悲劇」をどう検証し直し、問題提起したか、全国紙と地方紙の一部を読んで感じた問題点を指摘したい。
▼ 本土紙と沖縄県紙の落差…
「沖縄戦」は1945年(昭和20年)3月26日の慶良間諸島への米軍上陸から始まって、4月1日沖縄本島中部上陸で住民を巻きこんだ死闘が90日間続いた。死者は日本側18万8000人以上、米側1万2520人。日本側の半数約9万4000人が住民と推計されているが、未だに正確な数字はつかめておらず、住民犠牲は12万人を超すとの説もある。いずれにせよ日本初の地上戦の惨禍は凄まじく、日本国民の心に永久に刻み込まれねばならない歴史的悲劇だった。
6月23日の「慰霊の日」は、広島・長崎原爆の日、8月15日・敗戦の日と同様、国民挙げての「鎮魂の日」と位置づけて欲しかったが、本土紙の扱いは概して冷たく、沖縄県紙だけが大報道するという図式がいぜん変わらないばかりか、風化が進んでいる現状を痛切に感じた。
「慰霊の日」開催の23日夕刊、全国紙で的確な紙面構成(一面トップ、関連記事社会面)と思われるのは、朝日、毎日、東京の三紙。読売と日経が�倏�中行事�疆�扱いで済ませたのは解せない。夕刊のない産経(東京管内)が翌日朝刊掲載になったのは止むを得ないが、第三社会面での冷やかな扱い方に、同社の姿勢が垣間見える。
「社説」はどうだったか。「沖縄戦六十年 この地獄を忘れまい」との社説(6・23朝刊)を掲げたのは朝日。日経も同日「沖縄戦の教訓をどう生かすか」を掲載した。現在の厳しい軍事環境も織り込んで「沖縄の悲痛」を訴えて欲しかったと感じたものの、社説に取り上げた点を評価したい。
毎日・読売・東京三紙の�犲卆皀淵鍬瓩録�じがたいが、「慰霊の中心はやはり靖国」と題する産経(6・24朝刊)の主張(社説)には驚愕させられた。「沖縄県民の戦いを忘れてはならない」と述べているものの、論調の主題が「靖国」に摺りかえられている。「靖国神社には、沖縄や硫黄島、サイパン島などの戦死者を含む246万6000余柱の霊がまつられている。首相の靖国参拝が定着すれば、天皇ご親拝の環境も整うと思われる。天皇と首相が国民を代表し、恒例行事として靖国神社に参拝していた日本の原風景を一日も早く取り戻したい」との主張に、産経流プロパガンダが読み取れる。無惨な死を遂げた沖縄住民の大多数が靖国に祀られていない事実すら無視しようとするのだろうか、恐るべき時代錯誤である。
摩文仁の平和記念公園の「平和の礎(いしじ)」には、内外の犠牲者720人が追加刻印され、総数23万9801一人になった。「沖縄から平和を発信する」気概を感じられない小泉純一郎首相の式典挨拶とは対照的に、小学六年・上原凛君の「平和な今」と題する詩の朗読が参列者の魂を揺さぶったに違いない。
◆ぼくは戦争を知らない/戦争は人の命をうばい/すべてのも のをうばうという/そんな戦争が今でもどこかで続いている/ どうして?
ぼくは戦争はいやだ/友達といっしょに笑い/家族と共に食事 をする/そんなふつうなことが/いつまでも続いてほしい
ぼくは戦争はいやだ/げっとうの花が咲き/青い海で元気に泳 ぐ/そんなことがずっと続いてほしい
ぼくは戦争を知らない/でも ぼくは戦争はいやだ/今ぼくに できること/毎日を大切に生きること/人の痛みを感じること /平和な今に感謝すること◆
この慰霊式が行われていた時も、イラクでは殺戮が繰り返され、沖縄から移駐した米海兵隊やヘリコプターが加担している現実を踏まえ、「6・23が問い掛ける意味」を、的確に伝えるのが新聞の責務である。琉球新報・沖縄タイムスが本土紙より熱っぽく報じるのは当然と言えようが、本土紙との落差が著しいことに暗然とさせられた。沖縄県紙並みに大展開せよと言うのではなく、グローバルな視点で「6・23」を捉える努力が本土紙に欠如していたことが情けなかった。
その本土全国紙間でも、東京本社発行と西部本社発行の紙面に落差があるのだ。朝日・毎日両紙にはさほど違和感がなかったものの、読売西部版は一面トップに「慰霊の日」を報じていた。沖縄の読者向けにしても、読売東京版の価値判断より正しいと思う。前段で紹介した小学生の詩を、毎日西部版が社会面トップにした判断を評価したい。朝日西部版の扱いにも、東京版では見られない視点を感じた。一方、沖縄県の二紙が当日朝夕刊とも論説・寄稿を含めて大展開した努力を多とするものの、小学生の詩を何故きちんと掲載しなかったか、腑に落ちない。両紙とも2日間にわたり�猊�化�瓩鮨看曚垢觴卆發魴任押◆崟鐐萓ぢ紊旅睥隹修噺譴蠏僂暗慘蓮廚鬚靴�りに訴えていただけに、社会面格好の材料だったと惜しまれる。
詩を朗読した上原少年の祖母は、米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の同行船に乗っていて九死に一生を得た方で、母親からその話を聞いたことが契機となって沖縄戦の証言集を読み、イラク戦争などに関心を持つようになったという。これこそ�狎鐐茲鮹里蕕覆だぢ絖瓩妨譴蠏僂�、沖縄戦を風化させない「お手本」と感じた人は多かったろう。
▼琉球新報が画期的な「沖縄戦新聞」発刊
戦後60年の今年、各紙それぞれに企画を掲載しているが、その出来栄えに感動した新聞は、地方紙で琉球新報、全国紙では毎日新聞だ。特に琉球新報の「沖縄戦新聞」発刊は、素晴らしい。戦前・戦中の新聞の反省に立って、「記者が六十年前にさかのぼり、当時の報道を検証しながら貴重な証言、新たな事実を加味して再構成し、言論統制で当時伝えられなかった沖縄戦の全体像を現代の視点で報道する」ことを狙いとし、昨年7月7日「サイパン陥落」を第一号で制作、以後「対馬丸沈没」(04・8・22)、「米軍慶良間上陸」(05・3・26)など、節目の日と同じ日付で特集面を作ってきた。
6月23日の「米軍、占領を宣言/牛島司令官ら自決」が第11号で、「一九四五年六月二十三日(土)」の日付で制作された8ページ紙面(広告は一切なく、本紙中面に一連印刷)には圧倒された。海外も含め補強取材で当時を再現した記述とともに、米国公文書館提供の臨場感あふれる写真が、この特集の迫力を一層際立たせている。琉球新報全社を挙げての壮大な企画と意表を衝く紙面づくりを高く評価し、第12号以降の「沖縄戦新聞」への期待が膨らむ。
次に光った沖縄戦企画は、毎日新聞4月1日夕刊からスタートした「戦後六十年の原点『沖縄』1945年」である。沖縄本島への米軍上陸から、6月23日の敗北まで、日めくりで当時の状況を再現し、別のエピソードも交えた筆致は巧みである。それも50行前後のコンパクトな記事で、親しみやすい�犢テ匹瀛��瓩箸覆辰拭�重厚な琉球新報企画とは対照的な社会面企画といえる内容で、これまた特筆すべき「戦後六十年企画」だった。両新聞社が「沖縄への思い」を燃やして、証言収集や資料発掘に当たった努力に敬意を表したい。
最後に、牛島司令官が自決した1945年6月22日(沖縄戦事実上の終結は二十三日)は、天皇陛下が最高戦争指導会議のメンバーを宮中に呼び「戦争終結のため外交交渉を開始せよ」との要望を伝えた日だったことを想起しておかなければならない。90日間の沖縄の死闘が、結局は本土決戦の引き延ばし策だったからだ。敗北覚悟で沖縄戦を指導した政治責任だけでなく、敗北後も「国体護持」の�狆�田原評定�疚鵤殴�月の右往左往が、原爆の悲劇を招いた罪は万死に価する。
毎年4月から8月までを「近現代史を見詰め直す月間」と決め、多面的な新聞報道を目指してもらいたいと切に思う。これ以上の�猊�化�瓩鯔匹阿燭瓩法帖帖�
(池田龍夫=ジャーナリスト)
▼訂正 7月号「靖国合祀者」の記事中、「台湾出身者を2万8千余柱、朝鮮出身者を2万1千余柱」に訂正します。
(この記事は、『新聞通信調査会報』8月号に掲載された「プレスウォッチング」の再録です)
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