2005年10月30日04時23分掲載  無料記事
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津波で人命救助したアチェ人男性らが「アジアの英雄に」、米誌が特別版で選出

 20万人を超える死者・行方不明者を出した「スマトラ島沖大地震・津波」から、あと2カ月で1年が過ぎるが、米タイム誌は10月10日発売の特別版で「2005年アジアの英雄」を発表。インドネシアからは「津波の濁流に流された女児を命がけで助けたアチェ人男性2人」「津波で家族を失った悲しみを乗り越え、村の復興に取り組むアチェ人女性5人」、そして「毒殺された人権活動家の夫の遺志を継ぐジャワ人妻」の計8人が選ばれた。(ベリタ通信=都葉郁夫) 
 
 「パパ、パパと叫ぶ声が聞こえたが、濁流の中からその姿を探すのは難しかった」。こう振り返るのはアチェ州都バンダアチェで花屋を営んでいたエルウィンさん(37)。 
 
 その時、橋の上から「あそこに女児がいるとの声がし、目を凝らすと、3歳ぐらいの女児が濁流の中で板切れにつかまっているのが見えた」という。濁流に入り女児を救おうとする者がだれもいない、と思った瞬間、漂流物を押しのけながら、濁流に飛び込んでいた。 
 
 足に魚網が絡まり、女児にたどり着くのに15分もかかった。女児を支えながら濁流を乗り切ろうとしたが、一向に岸にたどり着けず、疲労が増すばかり。「もう、駄目か」と思った時だった。1人の青年が近づいてきた。女児の右足に巻きついた魚網を何とか外し、2人してようやく女児を岸に上げた。エルウィンさんら2人は互いに名乗りもせず、その場で別れた。 
 
 「青年の顔は一生涯、忘れないだろう」と話したエルウィンさんが、救助劇から約10カ月後、その青年ヘル・クルニアワンさん(27)と会うことができた。話が「あの日の出来事」になった時、エルウィンさんがポツリと言った。「5歳の末の息子を津波で失った。でも今は、あの女児を救えたことで心がやすまる」 
 
▽外国援助機関の支援も届く 
 
 アチェ人の女性はたくましい。地震・津波で住まいを破壊され、家族も失った主婦ら5人が今、避難民キャンプを自主的に離れ、壊滅的打撃を受けた自分たちの村に戻り、復興を目指している。 
 
 「キャンプにとどまっていたら、何も進まない」。5人が村に戻る決心を確かめ合ったのはキャンプ生活が8週間を過ぎたときだった。予期した通り、村には何もなかった。見かねた国軍部隊が5人に広めのテントを張ってくれた。水を得るには2キロも歩かねばならなかった。 
 
 でも、5人の奮闘ぶりを知った外国の援助機関などが小型発電機を提供するのなど、相次いで支援の手を差し伸べてくれた。5人の村には災害前、6000人が暮らしていたが、生き残ったのは5人を含めたった850人。そのうち約100人が5人の勇気に引き付けられ、村に戻っている。5人は依然、不自由な生活の中、片付け作業を続けながら、破壊された村の復興を目指している。 
 
 一方、2004年9月、インドネシアの人権擁護活動の先駆者が「毒殺」という卑劣な手段で命を失った。ムニール氏(当時38)は航空機内で出された飲み物に毒を入れられ、目的地オランダに到着する直前に絶命した。事件の背後に、国軍情報部の影がちらつくという。 
 
 チンタワティ夫人(37)は8月から始まったムニール氏殺害事件の公判に毎回欠かさず姿を見せる。夫人も以前から人権擁護活動にかかわり、事件後も「夫が殺されたからではなく、インドネシアの人権擁護のために闘う」と話す。政府に事件解明を求めるとともに、欧米諸国にも足を伸ばし、人権問題の改善に向け祖国へ圧力を強めるよう要請している。 
 
 知人によると、ムニール氏は生前、「女房の勇気に比べたら、僕のは問題にならない」とよく話し、夫人の心の強さに舌を巻いていたという。そしてこの知人は今、「夫人の活動ぶりを見て、ムニールの言葉が実感できる」と打ち明ける。「正義」を求めるチンタワティ夫人の闘いが、これからも続く。 


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