2006年01月01日16時42分掲載  無料記事
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【コラム・戦中派の目】「暴支膺懲」とイラク戦争   中谷孝(元日本軍特務機関員)

  「大量破壊兵器の廃棄」を大義名分としたイラク戦争への自衛隊の派遣につづく、「中国の脅威」を根拠とした対中強硬論の台頭。時の権力者による情報操作の怖さを身をもって体験している世代は、もっともらしい言葉に惑わされて国の進路を誤ってはならない、と警告する。日中戦争に日本陸軍特務機関員として参加した中谷孝氏(84)は、「暴支膺懲」(ぼうしようちょう)という60年以上前の時代のキーワードを思い出すという。(ベリタ通信) 
 
 
「暴支膺懲」(ぼうしようちょう)――イラク戦争で思い起こすこの言葉 
   中谷孝 
 
 暴支膺懲という言う字にあの時代を思い起こすのは、大正生まれ以前の人たちでしょう。昭和12年(1937年)頃からしきりに新聞・ラジオで使われた言葉です。戦前、日本人は中国を“支那”とよびました。新聞・ラジオも中華民国という正式国名を呼ぶことは少なく、大抵、“支那”と言いました。侮辱的な呼称であると言って中国の人は嫌いましたが、日本人は意に介しませんでした。(今でもマスコミの前で故意に“支那”と呼んで一人で溜飲を下げているおかしな知事さんもいます) 
 
 “暴支膺懲”とは、暴虐な“支那”を懲らしめるという意味であり、戦争を起す理由に使われました。しかし、戦争を仕掛けなければならないほど暴虐な事態があったわけではありません。通州事件という騒乱で日本人数百名が殺される事件が起きましたが、暴動を起したのは正規軍ではありませんでした。昭和12年7月7日、北京市外の盧溝橋で演習中の日本の駐屯軍と中国軍の衝突が起き、双方責任のなすり合いとなり、日本は居留民保護に必要であると称して、大部隊を北京周辺に送り込み、戦火を拡大させました。天皇は局地解決をのぞまれたのですが、宣戦なしの戦争は‘事変’という名称で拡大していきました。 
 
 8月9日、上海駐屯海軍陸戦隊の大山大尉が私服で外出中、殺害されたのを機に、海軍も上海で戦争を始め、8月15日には長崎県大村基地より海軍長距離爆撃隊が首都南京を爆撃しました。これは何れも、天皇・首相をツンボ桟敷に置いた軍の暴走でした。そして戦争目的は「暴支膺懲」ということになったのです。マスコミもアジアの平和のために膺懲の剣を振るうと書きたて、戦果を誇りました。 
 
 国民はこのキャッチフレーズに騙されて、正義の戦いに命をかける気運が漲ったのです。「……東洋平和の為ならば何で命が惜しかろう」 
当時歌われた軍歌の一節です。 
 
 イラク出兵には、私は反対でした。自分の過去を思い出します。支那事変も、最初は居留民保護でした。そのうち、「中国人は暴虐」とのでっち上げが日本に伝わり、宣戦布告以前に、「敵」を懲罰するため長崎の大村空港から海軍が出撃、南京を爆撃し、上海周辺に行った。南京大虐殺より前の話です。中国の北では、陸軍による盧溝橋事件が起きていた。一方的な理屈をこねるところや占領までの流れが、今のイラク戦争とよく似ているのです。 


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