2006年05月25日14時09分掲載  無料記事
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「自動車爆弾の歴史」(下) 「中世の城壁」に押し込まれたイラクの米兵 ゲリラ戦の「核兵器」として威力増す マイク・デイヴィス

 いにしえの覚者は解脱の法を「憎しみは、愛によってのみ解消する」と説いたが、自動車爆弾の歴史を見渡せば、復讐が復讐を招き、コピーが容易な戦術は活躍の場をどんどん各地に広げ、憎悪の輪廻をとどまることなく回転させている。大量破壊兵器の除去を偽りの大義名分のひとつにした対イラク戦争が、自動車爆弾という大量殺人兵器を普及させているのも、時代の不条理きわまりない現実だ。米ネットメディア「トム・デスパッチ」に掲載されたマイク・デイヴィスの論考の後半部を紹介する。(TUP速報) 
 
 
■自動車爆弾の歴史(下) マイク・デイヴィス 
 
▼CIA公立自動車爆弾大学(1980年代) 
 
 「ユーセフが組んだCIA要員たちは、お客さんの議員たちと話すとき、破壊工作とか暗殺といった言葉を出してはならないと、口を酸っぱくして、ルールを彼に吹きこんだ」――スティーヴ・コール著“Ghost Wars”[『ゴースト・ウォーズ=幽霊戦争』] 
 
 砲艦外交がレバノンの自動車爆弾に敗北し、レーガン政権、なかでもウィリアム・ケイシーCIA長官は、ヒズボラに対する復讐心で胸を焦がしていた。ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードは、著書“Veil: The SecretWars Of The Cia, 1981-1987”《*》に次のように書いた――「ついに1985年、彼[ケイシー]は、海兵隊営舎爆破だけでなく、ベイルートのアメリカ国籍者人質事件の黒幕のひとりであると目した(ヒズボラ指導者)シャイフ[族長]・ファドララーの殺害を期して、自動車爆弾作戦計画をサウジアラビア当局筋と組んでまとめあげた……これはケイシーの裁量によるものであり、当人が『私がでっかい問題を解決するにあたり、基本的にテロリストと同程度に手厳しくなって、あるいはもっと非情になって、やつらの兵器――自動車爆弾――を使うつもりだ』と語っていた」[*仮題『ベール――CIAの隠密戦争、1981年〜87年』] 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/2QIX1RU6H2UH8 
 
 しかし、CIA直属の工作員に爆破作戦を遂行させるわけにはいかないと判明したので、ケイシーは、これを、元英軍SAS[特殊空挺部隊]将校が統率し、サウジアラビア大使を務めるバンダル王子が資金面で支えるレバノンの工作員たちに下請けさせることにした。1984年3月、ベイルート南部のシーア派人口密集地、ビル・エルアベドにあるシャイフ・ファドララーの居宅から50ヤード[約45メートル]離れた地点で、大型自動車爆弾が炸裂した。族長は無傷だったが、罪のない80人の近隣住民や通行人たちが殺され、負傷者は200人に達した。 
 事件の直後、修羅場の惨状を呈する街路いっぱいに、ファララーは「メード・イン・USA」と大書した横断幕を掲げたが、その一方、9月になると、自爆トラックが、ベイルート東部(キリスト教徒居住区)の新たな米国大使館の周辺に張り巡らされ、難攻不落であるはずの警備網を突破して、大使館職員や来客の23名を殺害するにおよんで、ヒズボラは目には目の報いを果たした。 
 
 ケイシーは、ファドララーにまつわる大失態にもかかわらず、とりわけアフガニスタンのソ連軍とその同盟軍に対するアメリカの目標を追及するために、都市テロ手段の熱心な信奉者でありつづけた。ビル・エルアベドの惨劇の1年後、ケイシーは、レーガン大統領の承認にもとづき、NSDD[国家安全保障決定指令]166号を発動したが、これは、スティーヴ・コール著『ゴースト・ウォーズ』によれば、「米国の最先端軍事テクノロジー、イスラム主義ゲリラを対象とする爆発物と破壊工作の強化訓練、ソ連軍将校を標的とする攻撃を、直接、アフガニスタンに導入する新しい時代」を開く秘密指令だった。 
 
▼テロ史上最大の技術移転 
 
 これ以降、米軍特殊部隊のエキスパートたちが、モハメド・ユーサフ准将指揮下のパキスタン軍統合情報本部(ISI)要員たちに対し、爆発物、およびANFO(硝酸アンモニウム燃料油)自動車爆弾の製造法を含む最先端の破壊工作テクニックを供与することになった。技術を習得したISI部員たちは、サウジアラビア政府が資金面で支える多数の訓練キャンプで何千ものアフガン人や、将来のアルカイダ幹部を含む外国人ムジャヒディン[イスラム義勇戦士]にそれを教えこんだ。「ムジャヒディンは、ISIによる監督のもとで訓練を施され、主としてソ連占領下の市街におけるソ連軍将兵の殺害を狙った自動車爆弾、さらにはラクダ爆弾さえも駆使する攻撃に用いる、扱いやすい爆薬を支給された」とコールは書く。「CIAキャリア組の一部が懸念を示したにもかかわらず、ケイシーはこれを承認していた」 
 
 アフガニスタンにおける一連の熾烈な攻撃で、ムジャヒディンの自動車爆弾班は、狙撃班や暗殺班と連携して、ソ連軍将兵を脅かしただけでなく、首都カブールの左派知識人たちをも殺害した。「ユーサフや彼が訓練したアフガン人自動車爆弾班」は、映画館や文化行事だけでなく、「カブール大学の教授たちを格好の標的とみなしていた」とコールは書く。[米]国家安全保障会議筋の一部は、爆破や暗殺を「明白なテロ」と呼んで糾弾していたと伝えられているが、ケイシーはこうした成果に大喜びだった。ところが、「共産主義支配から逃れたアフガン難民たちが、はじめて結成した、世俗派や左派、王党派の諸政党の事実上すべてを、1980年代末期にはISIが排除していた」 
 その結果、サウジアラビアやワシントンがアフガニスタンに注ぎこんだ数十億ドルの資金の大部分は、ISIが後ろ盾になっている過激なイスラム原理主義諸集団の手のうちに残ることになった。これらのグループは、CIAが供給した大量のプラスチック爆薬だけでなく、何千もの電池式遅延信管の受け皿にもなった。 
 
 これはテロ戦術に関連する史上最大の技術移転だった。怒れるイスラム原理主義者たちは、パキスタンの国境地帯にあるCIA後援の都市破壊活動・大学院課程に進学した時点で、ヒズボラによる自動車爆弾・公開講座に出席する必要がなくなった。 
 「ユーサフと彼の仲間たちがNSDD166号指令にもとづく膨大な予算を活用して築いた巨大規模の教育基盤――特殊訓練場、破壊訓練教則、電子式起爆信管、その他――は、10年後のアメリカでは、あたりまえのように“テロ基盤”と言い慣わされるようになった」とコールは見る。 
 おまけに、1993年の1回目の世界貿易センター攻撃を企画したラムジ・ユーセフや、2回目を計画したと言われる彼の叔父、ハリド・シャイフ・モハメドをはじめとするISI訓練キャンプ卒業生たちは、ほどなくすべての大陸で自分たちの専門技能を活用することになった。 
 
▼包囲された諸都市(1990年代) 
 
 「一触即発の状況、無制約テロの時が到来した」 
――ペルーのジャーナリスト、グスタボ・ゴリッチ、1992年 
 
 21世紀になってからの後知恵に照らせば、1983年から84年にかけての米国の対レバノン干渉政策の失敗と、それにつづく、アフガニスタンにおけるCIAの汚い戦争は、75年のサイゴン陥落のときよりも、もっと広範で、もっと重大な結果を招いてしまったことが明らかになる。ヴェトナム戦争は、もちろん、アメリカの国内政治に痕跡をいまだに深く残す叙事詩的な紛争だったが、あくまでも超大国二極対立の時代の産物だった。それにひきかえ、ベイルートやレバノン南部におけるヒズボラの戦争は、新千年紀を特 
徴づける“非対称の”紛争を先触れする(あるいは刺激さえする)ものだった。 
 
 おまけに、自動車爆弾攻撃や自爆テロは、NLF[ヴェトナム民族解放戦線]と北ヴェトナム国民とが世代を超えて維持していた規模の人民戦争とは違って、簡単に伝播・拡散するし、おぞましいことに、多種多様な筋書きのもとで応用もできる。辺境ゲリラは、カシミール、カイバル峠、アンデスのような荒涼とした天然の要塞に生き残っているが、世界的に見た反乱の重心は、辺境から都会やその周辺のスラムに回帰している。このポスト冷戦時代の都市化の流れのなかで、ヒズボラによる海兵隊営舎爆破はテロの金字塔的な標準になった。9・11攻撃といえども、自爆トラックから旅客機への不可避的なエスカレーション[拡大]にすぎないとも言える。 
 
 それにしても、ワシントンは、強力な車両爆弾が敵側に提供した新しい軍事目標追求能力をなかなか評価しようとしなかったし、その驚くべき殺傷能力を認識することさえも嫌がっていた。1983年のベイルート爆破攻撃のあと、ニューメキシコ州のサンディア国立研究所がトラック爆弾の物理的特性に関する集中研究を開始した。研究員たちは、自分たちが得た知見に衝撃を受けた。トラック爆弾は、致命的な衝撃波に加えて、意外なことに膨大なエネルギーの地盤震動を発生させていた。 
 
 「トラック爆弾を中心に地盤中に伝わる横揺れ加速は、地震の最大マグニチュード期のそれよりもはるかに大きい」 
  じっさい、原子力発電所に近い構外での爆発でさえも、「きわめて深刻な放射能漏れや、ことによるとメルトダウンすら引き起こす損傷をもたらしかねない」と、サンディアの科学者たちは結論した。それにもかかわらず、1986年、原子力規制委員会は、原子力発電施設を防護するための車両止めの設置を認可せず、何人かのテロリストの徒歩による侵入の阻止を想定した時代遅れの保安計画を改める動きをみせなかった。 
 
 じっさい、ワシントンは、みずからのベイルートにおける敗北にしろ、アフガニスタンにおける隠密裏の成果にしろ、明白に突きつけられている教訓から、なにも学ぼうとしていなかったようだ。レーガン、ブッシュ両政権は、ヒズボラの爆弾攻撃をまぐれあたりと考え、帝国的行動の失策や対ソ連戦の脱線行為に対する“ブローバック[しっぺ返し]”として反復される強力な新種の脅威とはみなしていなかったらしい。すぐにでも他の反乱集団がヒズボラを見習おうとするのは避けられなかったのに、アメリカの政策立案者たちは――責任は部分的であったにしても――1990年代の自動車爆弾攻撃の驚くべき“グローバル化”や、それに伴う、都市状況の不安定化を狙う巧みで新しい戦略をおおむね予見しそこねていた。だが、90年代中ごろには、第二次世界大戦終結以降のどの時点よりも多くの都市が爆弾攻撃に包囲された状況にあり、都市ゲリラは、世界最有力の金融施設のいくつかを直撃するために自動車爆弾やトラック爆弾を使っていた。 
 
 しかも、ひとつひとつの成果が、もろもろの集団を鼓舞して、さらに多くの攻撃を計画させ、もっと多くの集団に、それぞれ独自の“貧者の空軍”を発足させる動機を与えて 
いた。 
 
  例えば、1992年4月初め、秘教的な毛沢東主義集団、センデロ・ルミノソ[輝く道]がペルーの高原地帯から降りてきて、リマ[首都]やカヤオ[リマの外港]の市街地の全域で、ますます威力を増すコチェ・ボンバ[自動車爆弾]を用いてテロを拡散した。「鉱業国では大量の爆薬がなんなく入手できる」とカレタス誌は書いているが、センデリスタたちは気前よくダイナマイトのプレゼントを配ってまわり、テレビ局や諸国大使館、それに十指にあまる警察署や軍隊駐屯地を爆破した。彼らの作戦は、小規模な爆発にはじまって、アメリカ大使館に対する、もっと強力な攻撃、さらには同時に車両16台を用いた“血の金曜日”タイプの無差別攻撃へと発展するにおよんで、不気味なまでに自動車爆弾の系統発生を再現していた。クライマックス(そして、この分野でのセンデロの最大の功績)は、“階級の敵”居住区の全域を爆破する企てであり、7月16日の夕刻、特権階級地区であるミラフロレスにおける巨大なANFO爆発が、死者22名、負傷者120名、全壊または半壊家屋183棟、事業所損壊400棟、駐車中の車の損傷63台の被害を出した。ミラフロレスは「まるで空襲に遭って壊滅した」かのようだ、と地元紙が描写した。 
 
▼独創的な「改良型」 
 
 空軍力の取り柄のひとつが、地球を半周して敵の寝首をかく能力にあるとすれば、1993年、中東の集団が西半球の標的をはじめて攻撃したとき、自動車爆弾はほんとうに翼を生やしたことになる。2月26日の世界貿易センター攻撃は、アルカイダの爆弾作りの名手、ラムジ・ユーセフが、ニダル・アヤドという名のクウェート人技術者、それに、(噂によれば、CIAの手筈により米入国ビザを取得した)シーア派イスラム教徒、オマル・アブダル・ラーマンが率いるエジプトの集団、ガマア・アル・イスラミヤの移民メンバーと組んで、準備したものだった。彼らの並外れた野心は、強烈な横方向爆発をもって、WTC(世界貿易センター)の双子タワーの一方の基礎部を破壊し、他方に向かって横転させることにより、万単位のニューヨーク市民を殺害することにあった。ユーセフの兵器は、古典的なIRA・ヒズボラ流ANFO爆薬の独創的な改良型を詰めこんだライダー・バンだった。 
 
 「爆弾本体は、結合材として古紙を詰め、硝酸尿素と燃料油のスラリー[懸濁液]を満たした4個の段ボール箱で構成されていた」と、ピーター・ランゲは彼の自動車爆弾史に書く。 
 「箱は圧縮水素ガスの4フィート・ボンベの列に周囲を取り巻かれていた。これらには、緩慢燃焼性の無煙火薬を布で包んだ、20フィート長の導火線4本が接続されていた。ユーセフは、膝の上で、4本の薬ビンのニトログリセリン量を調整した」 
 
  共同謀議者たちが北塔の耐荷重壁の際〈きわ〉にバンを停めることは簡単にできたが、大量の爆薬といえども、少なすぎた――地下4階分の爆発孔を掘削し、死者6名、負傷者1000人を出しただけで、塔を倒すことはできなかった。「今回、われわれの計算は、非常に正確なわけではなかった」と、ユーセフは手紙に書いた。「だが、次回には、非常に正確になるだろうはずであろうと(ママ)、標的のひとつは貿易センターになるだろうと、われわれは君たちに約束する」 
 
 WTC攻撃の2週間後、ボンベイ証券取引所の地下駐車場で、同程度の威力の爆弾が炸裂し、28階建て高層ビルを大きく損傷し、50人の事務職員たちを殺害した。まもなく、他の12か所で自動車やオートバイの爆弾が炸裂し、さらに207人の死者と1400人の負傷者を出した。これらの爆弾攻撃は、数か月前の事件、インドのヒンドゥー教徒が数百人のインド人イスラム教徒を殺害した異教徒排斥暴動に対する報復だった。 
 
 この攻撃は、国外追放中のボンベイ暗黒街の帝王、ダウッド・イブラヒムが、パキスタン情報部の依頼を受け、ドバイを策動地として仕組んだものであると伝えられている。一説によれば、ダウッドは3隻の船をドバイから派遣し、カラチで軍用火薬を船積みさせた。ボンベイで“黒いスープ”が秘かに陸揚げされている間、インド税関の官吏たちは買収され、横を向いていた。 
 
 1993年3月17日、アルゼンチン、ブエノスアイレスのイスラエル大使館が神風自動車爆弾攻撃にみまわれ、死者30人、負傷者242人の被害が出たときも、腐敗官吏たちが手を貸していたと噂された。後に南レバノン出身で29歳のヒズボラ過激分子と認定された二番手の“殉教者”が、7階建てのアルゼンチン・イスラエル交流協会ビルを壊滅させ、死者85人、負傷者300人以上の被害を出した。 
 
 両事件とも、爆弾テロリストはベイルート方式を忠実になぞっていたし、1995年1月、アルジェの中央警察本部に車で突入し、死者42人、負傷者280人以上を出したイスラム過激派も、やはり同じだった。 
 
▼タミールの虎たち 
 
 だが、ヒズボラの至高のアコライト[カトリック用語acolyte=持祭]たちは、自動車爆弾攻撃を大規模に展開した唯一の非モスレム集団、スリランカのタミールの虎だった。 じっさい、彼らの指導者、プラバーカランは、「駐ベイルート米軍とフランス軍の営舎に対する1993年の自爆攻撃の殺傷効果を見て、自爆攻撃戦術の採用という戦略決定を下した」。タミールの虎は、83年に最初の同種作戦を実行してから2000年までの期間に、ヒズボラとハマスによるものをすべて含めた件数の2倍に達する自爆攻撃をおこなっている。 
 
 タミールの虎は(例えば、スリランカ軍駐屯地に対する戦端を開くとき、トラックに乗った神風特攻隊を用いるなど)通常の軍事作戦に自動車爆弾を組み込んだが、タミールの独立をめざす闘争において、彼らのこだわりと「最も重視された作戦区域」とは、スリランカの首都、コロンボにあって、最初の自動車爆弾を87年の中央バス・ターミナルに対する容赦のない攻撃で使い、複数の混みあったバスのなかで乗客多数を焼き殺している。 
 
 1996年1月、特攻志願の精鋭――いわゆるブラック・タイガー――が、軍用高性能爆薬440ポンド[200キログラム]を積載したトラックで、中央銀行ビルのフロントに突入し、その結果、1400人近くの死傷者が出た。20か月後の1997年10月、タイガーたちは、もっと込み入った作戦を決行し、コロンボ世界貿易センターの双子タワーを攻撃した。彼らはバリケードの間をすりぬけ、センターの前で自動車爆弾を起爆させたのにつづけて、警官隊を相手に、自動小銃や手榴弾で戦った。 
 
 翌3月、鉄片を詰めた爆弾を車体に固定した自爆マイクロバスが、鉄道中央駅の外で、大渋滞のさなかに爆発した。死者38人のうち、12人はスクールバスの子どもたち 
だった。 
 
 タミールの虎は、“解放自治領”、本格的な陸軍、さらには小規模な海軍さえも備えた大衆民族主義運動であり、おまけに、インド首相、インディラ・ガンジーとインド版CIA――調査分析部(RAW)――の厚意により、1983年から87年の間に、2万人のタイガー幹部要員がインドのタミルナドゥ州で民兵訓練を受けていた。だが、1993年、インディラの子息にして後継首相、ラジヴが女性自爆タイガーに殺害されるにおよんで、そのような後援は、インドの国民会議派指導部の面前で文字どおりに吹き飛んでしまった。じっさい、スポンサーがCIAであろうが、RAWであろうが、あるいはKGB〈クーゲーベー〉であろうが、代理テロのあまりにもお馴染みの常態は――最も世に知れた事例として、CIAの元“子飼い”、盲目のシャイフ・ラーマンやオサマ・ビンラビンのように――“送り主にお返しする”行為なのである。 
 
▼オクラホマシティ爆弾事件 
 
 1995年に勃発したオクラホマ・シティ爆弾事件は、イラク人や他のイスラム集団などではなく、米国の怒れる湾岸戦争帰還兵2名によって仕組まれたブローバック[しっぺ返し]の衝撃的な別種だった。陰謀説に与する人たちは、テリー・ニコラスとラムジ・ユーセフとが1994年11月にフィリピンのセブ市で接近していたとする奇妙な符号を重視しているが、攻撃の全体像は、悪魔の手引書、“The Turner Diaries”[『ターナーの日記』]に触発されたティモシー・マクベイの妄想の産物である。 
 血の金曜日のあとだが、ベイルート多発爆破事件が起きる前の78年に書かれた、ネオナチ信奉者、ウィリアム・ピアースによる小説は、白人至上主義者たちがワシントンDCのFBI本部をANFOトラック爆弾で破壊し、次いで、強奪核兵器を搭載した航空機をペンタゴンに突っこませるという筋書きを、ポルノ風味添えで追っている。 
 
 マクベイは、通常の暖房用燃料油に替えて、レーシング用ニトロ油とディーゼル油を使っていたにしても、ユーセフによるWTC仕様の手の込んだ調剤法ではなく、小説どおりの処方(駐車中のトラックに仕込んだ硝酸アンモニウム数トン)を注意深くなぞっていた。それでも、1995年4月19日、アルフレッド・ミュラー連邦ビルにいた168人の人びとを惨殺した爆発は、アルコール・煙草・銃器局、その他の連邦政府機関がニューメキシコの実験場で研究していた、どの自動車爆弾炸裂よりも3倍は強烈な威力をもっていた。専門家たちは破壊の広がりの大きさに驚嘆した。「4100ポンド(約1860キログラム)]のダイナマイトに匹敵し、爆風は、ビル312棟に損傷を与え、2マイル遠方におよぶガラスを粉砕し、ビル外の半径半マイルにおよぶ範囲内にいた人びとの80パーセントを負傷させた」 
 
 遠方の地震計は、この爆発をマグニチュード6.0相当の地震として記録した。 
 
 だが、ハートランド[保守・伝統的価値観の支配地帯]のDIY[自作主義]的な才覚が極悪非道な形になった、マクベイの古きよき時代の爆弾といえども、破壊力の真打ちとはとても言えなくて、じっさいのところ、都市殺戮技術の優劣を競う闇世界オリンピックの覇者が中東の本場チームになったのは、たぶん不可避のことだった。 
 
▼ダーラン事件 
 
1996年6月、ヒズボラ民兵と疑われる者たちが、ダーラン[ペルシャ湾岸の町]のコバル・タワーズ――駐サウジアラビア米空軍の人員が使っていた高層住宅――の外側に放置した巨大なトラック爆弾は、死傷者数(死者20人、負傷者372人)こそオクラホマ・シティの記録におよばなかったが、その爆発力は、おそらく2万ポンド[約9トン]爆弾に相当し、威力において、すべての記録を塗り替えている。また、爆発の直前に避難をはじめた空軍衛兵たちの機転がなければ、死者数は93年のレバノンにおける海兵隊営舎のときのものに匹敵することもありえた。 
 
 さらにまた、(軍事級プラスチック爆薬の)炸裂は、幅85フィート[26メートル]、深さ35フィート[約10メートル]の爆発孔〈クレーター〉を残した。 
 
 2年後の1998年8月7日、アルカイダは、米国海兵隊とフランス軍の両ベイルート駐屯地に対する93年の同時攻撃を再現して、ナイロビの駐ケニア、ダル・エルサラムの駐タンザニア米国両大使館のそれぞれに自爆トラックを突入させ、大量殺人レースにおける優勝を誇示した。ナイロビの米国大使館は、プルーデンス・ブッシュネル大使が国務省にむなしく訴えていたとおり、市内で最も繁華な2本の街路の近くに立地しながら、適当な障害物や防護用土塁もなく、攻撃に対して桁落ちに無防備だった。 
 
 この事件では、巨大な爆発のために、主として一般のケニア国民が――自分の車のなかで生きながら焼かれたり、飛んでくるガラスに引き裂かれたり、燻〈くすぶ〉る瓦礫に埋められたりして――犠牲になり、死者は数百人に達し、負傷者は5000人を超えた。ダル・エルサラムの別件では、12人が死亡し、100人近くが負傷した。 
 
 無辜のイスラム教徒たちの犠牲を含め、自分たちの仕掛けが引き起こす巻き添え被害に対する徹底した冷淡さは、アルカイダ系列が仕組む作戦の品質証明でありつづけている。オサマ・ビンラディンは、ヘルマン・ゲーリング[ナチス空軍総司令官]やカーティス・ルメイ[東京大空襲を指揮した米空軍司令官]といった彼の先駆者たちと同様、爆撃被害の冷たい統計数字――より大きい爆発力、より多い殺害数を競うレース――を見て小躍りしているかのようである。 
 
  バリ島のナイトクラブに対する2002年10月の攻撃(死者202人)や、05年7月、エジプト、シャーム・エルシャイフにおけるホテル爆破(死者88人)では、昔懐かしい“十字軍兵士たち”と同程度に多くの地元従業員たちが殺害されたことがほぼ確かであるにもかかわらず、オサマの最近のフランチャイズ展開における儲け頭のひとつは、(空の旅、高層ビル、公共交通機関に対するものと並んで)主としてモスレム諸国に滞在中の欧米人観光客に対する自動車爆弾攻撃になっている。 
 
▼形が恐怖に従う(1990年代) 
 
「自動車爆弾はゲリラ戦の核兵器である」 
――ワシントン・ポスト紙コラムニスト、チャールス・クラウトハマー 
 
 「10億ポンド相当の爆発」とは、なんだろう? 
 ひとつの意味は、もちろん、ヒロシマ級原爆3発ないし4発分のTNT換算威力の爆発である(言ってみれば、これは水爆1発分の威力の指先にもおよばない)。正解は別にあって、10億(英)ポンド(14億5000万米ドル)は、1993年4月、世界第二の基幹金融センターの中心部、ナットウエスト・タワーの向かい側のビショップスゲート道路上で、1トンのANFO爆薬を搭載した青いダンプカーが爆発したときに、IRAがロンドン市に与えた損害額である。 
 
 この途方もない爆発によって、ひとりの第三者が殺され、30人以上の人たちが負傷したにしても、同時に、中世建築の教会が全壊し、リヴァプール・ストリート駅が破壊されたのであり、この攻撃の真の目標だった経済的損失に比べれば、人的被害は付随的だった。90年代の――リマ、ボンベイ、コロンボ、その他における――他のトラック爆弾作戦は、ほぼ字句どおりにヒズボラの脚本をなぞっていたが、「[北アイルランド]紛争勃発以来、最高に成功した軍事作戦」とモロニーが描写する、このビショップスゲート爆弾攻撃は、90年代の大半を費やして継続した困難な和平交渉において、英国側の譲歩を引き出すための新戦略の一環として、IRAが発動した金融センターに対する戦争行為だった。 
 
 ビショップスゲート事件は、伝説的な“スラブ[厚板]”・マーフィーの指導下にある精鋭の(そして多かれ少なかれ自律した)南アーマー[北アイルランドの州]IRAが決行し、大当たりを取った3件の爆破の二番手であり、最大の損害を出したものだった。ほぼ正確に1年前、同部隊がセントメアリー・アックスのバルティック商業海運取引所に仕掛けたトラック爆弾は、100万ポンドのガラス片や破砕物を周辺の街路にまきちらし、3人の死者、100人近くの負傷者を出した。被害額はビショップスゲート事件のものにおよばなかったが、それでも驚異的であり、北アイルランドにおける爆破事件の損害の22年間分の累積額、約6億ポンドを凌駕する約8億ポンドだった。 
 
 次いで1996年、和平会談が停滞し、そのころに成立していた停戦に、IRA軍事評議会が不満を募らせている状況にあって、南アーマー旅団は、三番手の巨大なトラック爆弾をイングランドに潜りこませ、高級化したロンドン波止場地域に並ぶポストモダン様式のオフィスビルの地下駐車場で爆発させ、死者2名を出すとともに、1億5000万ドルに迫る損害を与えた。3件の爆発の被害総額は、少なめに見積もっても30億ドルにな 
る。 
 
 ジョン・コーフィーが、爆弾攻撃の衝撃に関する彼女の本で指摘していることだが、IRAが、タミールの虎やアルカイダのように、単に恐怖の種をまき、ロンドンの日常生活を停止に追いこむことを願っていただけなら、平日のラッシュアワーに合わせて爆発を仕掛けていたはずだ――が、そうではなく、爆弾は「シティ[金融街]が実質的に無人化する時間帯に炸裂した」――し、2005年7月、イスラム自爆戦士たちがロンドンのバスや地下鉄を爆破したように、交通基盤の心臓部を攻撃していたはずである。だが、スラブ・マーフィーと仲間たちは、英国やヨーロッパの足腰が弱った保険業界は金融ネットワークの弱点になっていると気づき、そこを集中的に突いていたのである。 
 
 敵側にとって恐ろしいことに、これはたいした見ものになる成功を収めた。ビショップスゲート事件の直後、「保険各社による巨額支払いは、世界の主導的な(再)保険市場、ロンドンのロイド協会を倒産間際に追い込むなど、業界の危機を進展させた」とBBCは論評している。ドイツや日本の投資家たちは、物的保安手段が改善され、政府が保険経費の助成に同意しないかぎり、シティをボイコットすると警告した。 
 
 アイルランド人によるロンドン爆弾攻撃の長い歴史は、フェニアン団とヴィクトリア女王の時代にまで遡ることができるにもかかわらず、ダウニング街[首相官邸]も、ロンドン市警も、正確に狙いを定められた物的・経済的被害のこのような規模を予見していなかった。(じっさい、スラブ・マーフィー本人がビックリしたかもしれず、第一世代のANFO爆弾と同様、これらのスーパー爆弾は、IRAにとって思わぬ掘り出し物だった) 
 
 シティの対応策は、1972年の血の金曜日のあと、ベルファストの市街地中心部 
の周囲に設置された“鋼鉄環状防衛線”(コンクリート製防壁、背高の鉄製フェンス、頑丈な通用門)の洗練版だった。ビショップゲート事件を受けて、経済新聞は、「テロ攻撃を未然に防ぐために、シティーは中世流の城砦区域に改造されなければならない」と、同様な防護策を声高に求めていた。 
 
 シティで現実に実施された対策は、交通規制・遮断線や「警察データベースに接続されたナンバー・プレート常時自動記録(ANPR)カメラ」を含む有線TVカメラに、公衆・個人に対する警察活動の強化策を結合する、技術的にもっと洗練されたネットワークの構築だった。「10年を費やして、ロンドンのシティは、1500台の監視カメラが作動し、その多くがANPRシステムに接続された、英国随一、おそらく世界一番の監視下区域に造り替えられた」とコーフィーは書く。 
 
 2001年9月11日以降、このテロ対策監視システムは、市民を交通渋滞から解放するという触れ込みによる、ケン・リヴィングストン市長の名高い“混雑度評価”構想という善意の装いのもとで、ロンドン中心部全域に拡大された。英国の代表的な日曜新聞によれば――「オブザーヴァーの取材により、9・11攻撃をきっかけに、MI5[軍事 
情報活動第5部]と公安部、それにロンドン警視庁がシステムの開発を秘かに進めていることが分かった。 
 つまり、物議をかもしてきた構想は、明日で稼動1週間目を迎えるとともに、世界的な大都市を守る、最も威圧的なものに数えられる防衛システムを創出することになる。また、システムは顔面認識ソフトをも活用して、8平方マイル圏内に入域する犯罪容疑者や既知の犯罪人を識別することになると理解される。該当者の詳細な動きが、入域時点からカメラで追跡されることになる……しかし、昨日になって、市民的自由権運動団体は、当初はロンドン中心部における交通渋滞の緩和手段として推進されてきた構想がもつ二重機能のために、数百万の市民が誤解していると主張した」 
 
 既設のものだけでも大掛かりだったロンドンのヴィデオ監視システムに、2003年になって、この新型の円形刑務所方式の交通走査システムが追加されるにおよんで、平均的な市民は「一日に300回は有線TVカメラに捉えられる」ことが確実になった。 
 
 これによって、警察が非自爆型のテロリストを逮捕することは容易になるかもしれないが、計画がよく練られ、上手に仮装された車両爆弾攻撃から市域を守るためには、それほど役に立つわけではない。ブレアの“第三の道”は、ジョージ・オーウェル流の監視社会の導入と市民的自由権の侵害のための高速車線であってきたが、遠方にいる当局者が、ラッシュアワーの車の流れのなかから爆薬の分子をひとつかふたつ“嗅ぎわける”ことができるような、なんらかの魔法の技術が出現するまでは(そして、そのような技術はまだ視界に見えていないので)、自動車爆弾魔たちは出勤しつづけるだろう。 
 
▼イラクの“王様”(2000年代) 
 
 「バグダードだけで、3時間内に8件の爆破事件が発生したのを含め、反乱勢力は日曜日にイラク全域で計13台の自動車爆弾を爆発させた」 
――AP通信、2006年1月1日付け配信記事 
 
 古今東西を見渡しても未曾有なまでに、イラクは――ブルッキングズ研究所の調査員たちによれば、2004年から05年にかけての期間に、1293件ばかり発生した――自動車爆弾事件のためにズタズタになってしまった。 
 最低の評判をとっている自動車爆弾は、宗派に殉じるジハード戦士が運転したり、あるいは仕掛けたりして、住宅やモスク、警察署やマーケットの前でシーア派イラク国民を標的にしてきたものであり、それらによる死者の数は、ムサイーブで98人(7月16日)、バグダードで114人(9月14日)、ブラドで102人(9月29日)、アブサイダで50人(11月19日)といった具合であり、この記録はまだまだ続く。 
 
 ムサイーブを破壊した盗難タンクローリー転用爆弾のように、仕掛けのいくつかは巨大ではあるが、ことさらに異常きわまる点は――2005年7月のある48時間内に、バクダード市内またはその周辺で、少なくとも15件の自爆自動車攻撃による爆発が起こるなど――その発生頻度そのものである。 
 
 最悪の大量殺人事件の背後にいるとされている悪党は、アブ・ムサブ・アル=ザルカウィという名のヨルダン人の第一級テロリストであり、言い伝えによれば、オサマ・ビンラディンを名指しして、“異端者のシーア派”などの国内の敵を攻撃する熱意に欠けると批判するような人物である。アル=ザルカウィは、政治目標ではなく、基本的に終末論的な目標を追求していると言われ、唯一の正統カリフ[*]権力による地球統治が実現するまでの、果てしのない敵勢力浄化戦争を望んでいるそうだ。 
[*イスラム世界における宗教・政治両面の権限をもつ最高権威者] 
 
 この目的を達するために、彼――または、その名を引き合いに出す輩〈やから〉――は、爆弾に用いる車両をほぼ無制限に調達したり(どうやら、その一部はカリフォルニアやテキサスで盗まれ、中東向けに船積みされているらしい)、シーア派の学童たちやマーケットの商人、あるいは外国人の“十字軍兵士”を道連れにするために、喜んでわが身を炎熱と溶けた金属に捧げるサウジアラビア人などの志願者を募ったりできるだけの人脈をもっているようである。たしかに、マドラッサ[イスラム神学校]自爆課程卒の義勇兵たちは、(ヒズボラやタミールの虎が完成した形の)自爆攻撃の論理がじっさいに求めるものをはるかに踏み越えているようであり、イラクにおける爆発の多くは、遠隔操作によっても同じほど容易に起爆できるものだ。 
 
 しかし、自動車爆弾は――少なくともアル・ザルカウィの情け容赦のないヴィジョンにおいて――選りぬきの民族虐殺兵器であるのと同時に、天国に通じる階段なのだ。 
 
 だが、アル・ザルカウィが、チグリス、ユーフラテス川の堤防で自動車爆弾テロを創案したわけではない。この黒い栄誉はCIAとその秘蔵っ子、イヤド・アラウィの手に帰する。2004年6月付けのニューヨーク・タイムズは次のように暴露した―― 
 
 「イヤド・アラウィは、今ではイラクの首相に任命されているが、サダム・フセインを退陣に追いこむことを目的とした亡命者機関を率いていたことがあり、1990年代初め、同機関は、CIAの指示を受け、爆弾によって政府施設を破壊する目的で、バグダードに工作員を送りこんでいたと複数の元情報筋幹部が語った。ドクター・アラウィの団体『イラク国民合意』は、イラク北部からバグダードにひそかに持ちこんだ自動車爆弾などの爆破装置を使っていた……同地に拠点を置いていた元中央情報局幹部、ロバート・ベーアは、爆弾が『スクールバスを吹きとばし、学童たちが殺された』と当時の事情を語った」 
 
 タイムズの情報源のひとりは、このような爆破作戦は、学童たちの殺害もひっくるめて、「実地試験に他ならず、手腕を誇示するためだった」と語った。 
 
 この作戦によって、CIAは、当時は亡命者だったアラウィや、彼の取り巻きであり、叩けば埃のでる元バース党員たちのグループを、サダム・フセインに対する心からの反攻勢力であり、(ワシントンのネオコンたちが非常に高く買う)アーメド・チャラビを中心とするグループに替わるものと位置づけることができた。 
 
 たった今も、もちろん、自動車爆弾がイラクに君臨している。 
 ジェームス・ダニガンは、「自動車爆弾がイラクの王様であるのは、なぜか?」と題した2005年6月つけの記事に、自動車爆弾は、スンニ派反乱集団やアル・ザルカウィにとって「最も効果的な兵器」として、(「発見されたり、電子機器によって起爆を阻まれたりすることが多い」)路肩爆弾の地位を奪おうとしており、だからこそ「テロリストたちは可能なかぎり多く造ろうとする」と書く。イラクにおける最近の自動車保有数の「爆発的急増」によって、「自動車爆弾は交通の流れのなかで簡単に見失われるようになった」と彼は付け加える。 
 
▼中世都市化したグリーンゾーン 
 
 この自動車爆弾の王国にあって、占領者たちは、自分たちだけの禁断の都市“グリーン・ゾーン”や、高度に要塞化され、警護された軍事基地にほぼ全面的に引きこもってしまった。これらは、監視機器が狙撃手に替わるロンドンのハイテク・シティではなく、コンクリート製の防壁で囲いこまれ、M1エイブラムズ戦車や武装ヘリ、さらには(グルカ[ネパール人傭兵]、元ローデシア特殊部隊員、元英国SAS[特殊空挺部隊]要員、特赦を受けたコロンビアの民兵を含む)傭兵派遣企業の外国人軍団に警護され、完全に中世風城砦と化した居留地である。 
 
 かつてのバース党支配階級のザナドゥ[桃源郷]、10平方キロメートルを占める今のグリーン・ゾーンは、ジャーナリストのスコット・ジョンソンによれば、次のようにアメリカ流生活を移したシュールレアル[超現実的]なテーマパークになっている―― 
 
 「大通りでショートパンツにTシャツの女性たちがジョッギングし、ピザ・インは高度に要塞化した米大使館の駐車場のおかげで繁盛している。グリーン・ゾーン商店街の近くで、イラクの児童たちが兵士たち相手にポルノDVDを商っている。米国の指名による地元モスクのイマーム[礼拝指導者]、フアド・ラシド師は、修道女を思わせる姿に装っていて、髪の染色はプラチナ・ブロンドであり、自分の幻視にイエスの聖母マリアが現れた(だから、こんな服装をしている)と主張する。晩にはいつでも、住民たちはカラオケ 
を聴いたり、バドミントンに興じたり、盛り上がっている数軒のバーに繰り出したりできるし、CIA経営、招待客オンリーの闇酒場もある」 
 
 グリーン・ゾーンの外側は、もちろん“レッド・ゾーン”であり、一般イラク国民は、行き当たりばったり、予期もできずに、自動車爆弾に吹きとばされたり、米軍ヘリに掃射されたりしている。驚くこともないが、裕福なイラク人や新政府の要人たちはグリーン・ゾーン警備領域への入場権を声高に求めているが、昨年、米当局はニューズウィーク誌に「アメリカ人を外に移す計画は“幻想”である」と語った。 
 
 グリーン・ゾーンや、その他、公的には当分のあいだの“耐乏キャンプ”として知られる、12か所のアメリカ租界のために、数十億の大枚が投資されていて、イラクの著名人でさえ、排他的なバブル[*]を守るアメリカの防爆壁の外で、自前の安全保障を探しまわるがまま、ほったらかしにされている。サダムの秘密警察や国連による制裁、はてはアメリカの巡航ミサイルに耐えてきた人びとは、たった今、貧しいシーア派居住地域で、陰惨な殉教の地を探して徘徊する自動車爆弾魔に殺されないように、身を固くしている。 
 
 最も利己的な理由により、バグダードなんかが、私たち共通の未来を暗示しているのではないと祈ろうではないか。 
[*バブル=特別警護区域を地上に貼りついた巨大な泡に見立てる] 
 
[原文] 
Tomgram: Mike Davis, "Return to Sender" (Car Bombs, Part 2) 
posted at TomDispatch on April 14, 2006 
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=76824 
Copyright 2006 Mike Davis 
 
[翻訳] 井上利男 /TUP 
 
 
(本稿―優に一冊の本になる研究の予備的な素描―は、来年に刊行のマイケル・ソールキン編、Routledge社2007年刊“Indefensible Space:The Architecture of the National Insecurity State” [仮題『防衛不能な空間――国家安全保障不全状況の構造』]に収録の予定) 
 
[筆者]マイク・デイヴィス(Mike Davis) 
 1946年カリフォルニア州フォンタナに生まれ、サンディエゴの近くで育った。精肉工場の工員や長距離トラックの運転手などを経て、労働運動の活動家に。その後、リード大学とカリフォルニア大学で歴史学を学ぶ。辛口の社会批評家として知られ、現在はカリフォルニア建築大学で都市論を教えている。 
 最新著作に――“The Monster at Our Door: The Global Threat of Avian Flu” (The New 
Press)『感染爆発――鳥インフルエンザの脅威』柴田裕之/斉藤隆央訳、紀伊国屋 
書店 
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980525479 
“Planet of Slums” (Verso)[仮題『スラムの惑星』] 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1844670228 


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