2006年06月14日01時08分掲載  無料記事
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デモクラシーの押し売りと米国の失敗 日本、韓国、そしてイラク チャルマーズ・ジョンソン

  米軍事専門家で社会評論家でもあるチャルマーズ・ジョンソン氏は、米国が先導する民主主義の「移植」について、米国の対外政策の方針と実績を、主として日本と韓国における事例を検証しつつ、イラクの現状ついて「日本、韓国以上に言語道断」の状況と批判する。米ネット論紙トム・デスパッチに掲載された「米国モデルの輸出」と題した本稿は、米国の「デモクラシーの押し売り」の背後には、「うぬぼれや人種優越感」があり、戦争正当化の手段に使われると断じている。(TUP速報) 
 
 
 
■米国モデルの輸出 
 市場とデモクラシー 
 チャルマーズ・ジョンソン 2006年5月2日 
 
 
 ある国が自国の統治方式や経済制度を他国に押しつけようとする試みには、どこか笑止千万、本質からして不誠実なところがある。 
 
 このような企ては、辞書にある帝国主義の定義に符合する。ことが“デモクラシー”である場合、(民主化されるべき相手に対して戦争をしかけるといった)手段を正当化するために目的を利用するという過ちを犯すことになり、こうしたことにかかわるうちに、伝道国家の指導者たちは、うぬぼれや人種優越感、傲慢の罪に逃れがたく染まることになる。 
 
 私たちアメリカ国民は、こうした罪で手を汚して久しい。わが国が第一次世界大戦に参入する直前のこと、ウッドロー・ウィルソン大統領の最初の国務長官、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、米国をして「世界の進歩に資する至高の道徳要因、世界の紛争に対する公認の調停者」と描写した。 
 
 時の移り変わりが有効にする歴史の総括というものがあるとすれば、アメリカ大統領がこのような大言壮語を信用しなかったなら、また米国が英国とドイツの両帝国間戦争に介入しようとしなかったなら、世界はいっそう安穏になるしかなかったということ。私たちは、ナチスの出現やボルシェヴィキ革命の勃発、さらには、欧米や日本の帝国主義諸勢力による、インド、インドネシア、インドシナ半島、アルジェリア、朝鮮、フィリピン、マラヤ、そしてアフリカの実質的に全土からの搾取の30年ないし40年間を避けること 
ができたということもじゅうぶん考えられる。 
 
 私たちアメリカ国民は、世界の国々がわが国を見習いたがっている(あるいは見習いたいと願って当然)と思いこむナルシスト的な先入見を脱却するほどまでに成長したとは言えない。イラクにおいては、喧伝されたイラク製核・生物・化学兵器の脅威やアルカイダ支持にまつわるブッシュの嘘が溶解してしまったとたん、デモクラシーの導入が、わが国の戦争屋たち――オサマ・ビンラディンが言いだしたことでさえなければ、“十字軍戦士たち”と呼ぶに完璧にふさわしい人たち――に好都合な偽りの口実になった。 
 
 ブッシュや彼を支えるネオコン一派が、「世界が中東の中心から自由の声を聞いている」状況について、とめどなくおしゃべりしてきたにしても、現実は、ノーム・チョムスキーが、「デモクラシーの阻止」と、この言葉を標題に付した1992年の著作で名指した状態にもっと近い。 
 
 イラク国民が“自由で公明な選挙”の機会を得ると、過半数を占めるシーア派が政権を握りかねず、イラクをイランと同盟させかねないので、そうした選挙の実現を阻止するために、わが国は全力をつくしてきた。 
 
 2003年11月、連合国暫定当局の法律顧問、ノア・フェルドマンが、「あなたがたが性急に動くと、間違った人たちが選ばれることになりかねません」といみじくも言ったとおりである。 
 
 2005年1月30日の選挙では、米軍は望む結果を得るための工作(「建国の父祖作戦」)を試みていたが、結局、シーア派の勝利に終わった。 
 
 一年近くのちの05年12月15日に実施された国民会議選挙で、シーア派がふたたび勝ったが、スンニ派やクルド人、アメリカによる圧力のために、政府の編成は当稿執筆時点にいたるまで妨げられている。ついに妥協の産物として首相候補が選定されたのを受けて、ブッシュ政権の性悪この上ない傭兵隊長のご両人、コンドリーザ・ライス国務長官と、ドナルド・ラムズフェルド国防長官とがバグダードに飛び、候補に向かって、首相たるものは“デモクラシー”のために何をなすべきか――新しい首相は米国の傀儡であるという鮮やかな印象を残しながら――説いて聞かせた。 
 
▼経済勧告を後生大事に 
 
 東アジアは、ラテンアメリカのあと、世界で最も久しくアメリカによる帝国主義的後見のもとに置かれてきた地域である。自国の経済・政治制度を輸出してきたアメリカの記録のなにがしかを知りないなら、この地域は格好の検証対象である。だが最初に、いくつかの定義から。 
 
 あるとき、政治哲学者のハナー・アレントは、デモクラシーはひどく手垢のついた概念なので、それが自分にとってなにを意味するのか、最初に明確にしないで厳粛な文脈で用いる者はすべて山師として退けるべきである、と論じた。 
 
 だから、デモクラシーをもって、筆者はなにを意味したいのか、ここに表明させていただきたい。 
 
 第一に、民意が大事という原則を社会の共通認識にすること。スターリン時代のロシア、あるいは現在のサウジアラビア、あるいはアメリカ軍支配下に置かれた日本の沖縄県に例を見るように、これ 
が実行されない場合、選挙といったアメリカ型デモクラシーの儀式をどんなに実行したとしても、ほとんどなんの意味もなさない。 
 
 第二に、指導者個人が独裁者にならないように、権力のなんらかの内部均衡[*]、または[三権の]分立が図られなければならない。 
 
 現在のわが国の大統領の例に見るように、権力がひとつの職権に集中し、在職者が法律の制約を超越すると主張するなら、デモクラシーは衰退し、あるいは名目になってしまう。筆者は、特に行政法規――あるいは、デモクラシー保証条項に背反する法律の無効を宣言する権限をもつ独立の憲法裁判所――の設置と施行を求めたい。 
[*訳注]権力の一部門の暴走を抑止するための相互抑制と均衡を図る内部メカニズム 
 
 第三に、不適格な指導者を免職するための、なんらかの合意された手続きがなければならない。期日を定めて実施される選挙、議会における不信任投票、任期制限、それに弾劾は、この線に沿って用意された周知の多様な手段だが、強調されるべきは、万民が認める制度でなければならない。 
 
▼「米国の知恵」を無視した末のアジアの繁栄 
 
 こうした点に留意しつつ、アジアに対する、アメリカの経済モデル、そしてさらには民主主義“モデル[模範]”の輸出について考察してみよう。 
 
 かつてのアメリカ植民地、フィリピンは例外として、日本からインドネシアにいたる国ぐには、今日の世界で最も繁栄した地域のひとつを構成している。これらの国ぐにのなかには、生産力で世界第2位、一人当たり国民所得が米国のそれを軽く超える国・日本が含まれているし、過去20年間にわたり年9.5パーセントを上回る率で拡大し、世界一の高度成長を続ける経済大国、中国も控えている。 
 
 これらの国々には、アメリカの大学経済学部や経営学大学院が説いたり、アメリカのさまざまな行政機関が提唱したりしてきた知恵の実質的にすべての項目を無視することにより、経済的福利を達成してきたのである。 
 
 日本は東アジアに適した地域モデルを築きあげた。 
 
 高度経済成長を遂げつつある他のアジア諸国は、どれひとつとして日本の軌跡を正確になぞってきたわけではないが、日本の経済システムのもつ、すべてを包みこむ特性――つまり、絶対的な権利、法律で守られ、相続対象になるものとして私有財産の制度と、経済目標・市場・成果におよぶ国家管理との結合――にこぞって惹きつけられていた。ここで筆者が言っているのは、日本人の言う「産業政策(sangyou seisaku)」のことである。(実践に裏付けられていないものではあっても)アメリカ経済理論においては、産業政策は禁句である。これは、レッセフェール[自由放任主義]の手に導かれ、自発性にゆだねられた市場という理念に反している。 
 
 とは言っても――アメリカの学説は、軍産複合体にしろ、兵器製造業に対する経済依存にしろ、わが国の経済生活の重要な要素であることを否認しているにしても――アメリカの軍産複合体や網の目のような“軍事ケインズ主義”体制はペンタゴン主導の産業政策を頼りにしているのだが。 
 
 わが国が東アジアの高度経済成長諸国を相変わらず見くびっているのは、私たちのイデオロギーという目隠しのせいなのだ。 
 
 経済政策に関して、ある特定の形態のアメリカからの影響が――端的に言えば、保護貿易主義と、高率関税やその他の形の国家的な外国製品差別政策による競争の抑制とが――東アジア諸国の経済行動をきわめて大きく左右してきた。 
 
 これが、アメリカの建国時から1940年にいたるまで、米国本来の経済政策だったのである。こういう政策がなかったなら、私たちが慣れきっているようなアメリカの経済的な豊かさは想像もできなかった。東アジア諸国はこの方面でアメリカを見習ってきた。これらの国々は、米国の説教ではなく、行動に関心を寄せている。 
 
 今日の中国は、もちろん、みずから認めることはないが、日本の発展基本戦略の中国版を追求している。 
 
▼デモクラシーの輸出戦略の失敗 
 
 わが国が海外でデモクラシーを奨励する方策において、説得と自己欺瞞との間に横たわる溝は、経済イデオロギーを売りこむさいのそれよりも、さらに大きく開いている。たいがいの御用学者は事実をはぐらかそうとしているが、わが国の記録は、絶え間ない(時には、思いがけない)失敗の連続である。 
 
 米国科学者連盟(FAS)は、第二次世界大戦の終結時から2001年9月11日にいたるまでの201件におよぶ、わが国が関与し、たいがいは先制攻撃をしかけた海外における軍事行動の一覧表をまとめた。(このリストは、ゴア・ヴィダルの著書“Perpetual War for Perpetual Peace: How We Got To 
Be So Hated”[仮題『恒久平和のための恒久戦争――われわれがこれほど憎まれるようになった道筋』]の22頁から41頁にわたって再録されている) 
 
 アフガニスタンとイラクにおける現在の戦争はこの表に含まれていない。これらの軍事行動の直接の成果として、民主政府が実現した例は皆無である。 
 
 米国は、イランのシャー[国王]、インドネシアのスハルト将軍、キューバのフルゲンシオ・バティスタ、ニカラグアのアナスタシア・ソモザ、チリのアウグスト・ピノチェト、コンゴ=ザイールのセセ・セコ・モブツといった独裁者を擁立し、後押ししたという困った記録を保持しているし、わが国がインドシナからの撤退を余儀なくされるまで、後見していたヴェトナムとカンボジアの歴代軍事政権のことは言うまでもない。 
 
 しかも、キューバ《*》とニカラグアに対しては、自国の独立をめざす闘争が、当方に不都合な結果を招いたという理由により、わが国は史上屈指の規模の国際テロ作戦を決行した。 
Noam Chomsky on terrorizing Cuba 03/10/24 
(ノーム・チョムスキー、キューバに対するテロ作戦を語る) 
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=1027 
 
 その半面、わが国による介入に反対した結果として――例えば、ギリシャで米中央情報局(CIA)が仕組んだ連隊長たちの政権が1974年に倒れたあと、ポルトガルでは74年に、スペインでは75年に、米国支援のファシスト独裁政権が相次いで終焉したあと、86年には、フィリピンでフェルディナンド・マルコスが打倒されたあと、87年には、韓国で全斗煥〈チョン・ドウハン〉が放 
逐されたあと、それに同じ年、38年間にわたる台湾の戒厳令が終結したあと――じっさいにデモクラシーが進展した重要な事例がいくつかある。 
 
▼日本モデルの「成功」とは 
 
 だが、日本の場合はどうなのだ? このように詰問なさりたい向きもおられるだろう。ブッシュ大統領は、この種の活動における米国の手腕を示す証しとして、いわゆる成功事例とされる、わが国による第二次世界大戦後の日本に対するデモクラシーの導入について繰り返し言及してきた。この経験が実証したのは、わが国がイラクにデモクラシーを移植するのはさほど難しくないということだ、と彼は言い張った。 
 
 だが真相を明かせば、1945年から51年にかけて敗戦国・日本に対する米軍占領を統率していたダグラス・マッカーサー将軍には、ご本人が基本的に独裁者ということもあり、日本の戦前体制から手摘みした操り人形や協力分子を庇護するために、下からの実 
のあるデモクラシーを阻止することに第一義的な関心があった。 
 
 一国が太平洋戦争時の日本ほどに容赦なく敗戦するとすれば、戦時指導層に対する民主革命が起こると期待してもいいはず。国務省は、マッカーサーに対し、日本が降伏時に受諾したポツダム宣言の条項に従い、民衆革命を妨げないように指示していたが、革命が具体的に動きはじめると、結局、彼は立ちふさがったのである。 
 
 彼は、戦時天皇、裕仁(1989年に逝去するまで在位)の皇位継続を決定し、戦時体制下の日本を支配していた産業政策と戦争政策の担当官たちが権力を回復するのを助けた。93年から94年にかけての数か月は除くが、49年からこのかたずっと、彼ら保守派とその後継者たちは日本を支配してきた。 
 
 日本と中国では、両国の政権党――自由民主党や中国共産党という、それぞれの中核――が同じ年に権力の座につき、今日、世界最長のものに数えられる一党支配体制が続いている。 
 
 日本の事例において同程度に重要なこととして、マッカーサー将軍の総司令部は、きわめて民主的な1947年憲法を起草し、それを受け入れるしか選択の余地がない状況のもとで日本国民に授与した。ハンナ・アレントは、彼女の63年の著作“On Revolution”[仮題『革命について』]において、「政府によって国民に押しつけられた憲法と、国民がみずからの政府を定めるための憲法との間に横たわる、力や権威の圧倒的な違い」を強調している。 
 
 第一次世界大戦後のヨーロッパで憲法が押しつけられた場合、実質的にすべての事例で、独裁制に向かったり、あるいは権限・権威・安定の欠落を招いたりしていたと彼女は指摘する。 
 
 日本では、世論は確かにものを言うが、民主主義制度が徹底的に試されたことはまったくなかった。日本の一般国民は、自国の憲法が征服者により与えられたものであり、民衆行動によって下から生みだされたものではないことを知っている。日本の安定は、いたるところに駐留している米軍に大きく依存していて、これが国防を――したがって、語られることはないが、かなり平等に分配される富も――賦与しているので、国民の側でも、体制に利害を繋いでいることになる。 
 
 だが、日本国民は、他の東アジア諸国民と同様、日本が世界にふたたび独り立ちすることを恐れている。標準よりも穏やかな形ではあるが、ひとつの大事な点で、日本の統治は米国の対外政策の記録の典型である。アメリカの歴代政権は、広範な国民の発意――つまりアメリカ支配からの民族主義的独立に向かう動き――の前に立ちはだかる寡頭政治をつねに好んできた。第二次世界大戦後のアジアでは、わが国は、韓国、フィリピン、タイ、インドシナ半島(カンボジア、ラオス、ヴェトナム)、日本で、このような反民主的な政治を追求してきた。 
 
 日本では、1950年代に社会党が選挙によって政権につく可能性が取りざたされ、これを阻止するために、米国は自由民主党に巣食う旧体制の大物たちに資金を秘かに供与した。 
 
 米国は、戦時内閣の軍需大臣、岸信介を総理大臣として権力の座 
に送りこむために一役買い、社会党の政敵、民主社会党を盛りたて、同党に資金を供給することによって、社会党の分裂を図り、60年には、日米安全保障条約の改定に反対する大規模な大衆的デモに臨んで、保守陣営の後ろ盾になった。日本は、独立した民主国家として発展したのではなく、米国に従順な冷戦期衛星国家――そして、それに伴い、きわめて硬直した政治システムをもつ国――になった。 
 
▼さらに荒っぽい韓国モデル 
 
 韓国では、米国ははるかに荒っぽい手段に訴えた。北朝鮮では、日本支配に抵抗した元ゲリラ戦士を礎として体制を築いていたが、米国は、当初から、対日協力者を好んでいた。1950年代には、わが国は、高齢の亡命者、李承晩を傀儡独裁者として応援していた。(じっさいの話、20世紀はじめのプリンストン大学において、李承晩はウッドロー・ウィルソンの教え子だった) 
 
 60年になって、学生運動が李承晩の腐敗政権を倒し、デモク 
ラシーの実現を企てたとき、わが国は手を貸すどころか、朴正熙〈パク・チョンヒ〉将軍の権力掌握を支持したのである。 
 
 植民地時代、朴は満州国の軍官学校で教育を受け[後に日本陸軍士官学校に留学]、1945年まで日本の占領軍の士官[満州国軍中尉]を務めていた。朴の韓国支配は61年にはじまり、79年10月16日、晩餐の席で韓国中央情報局(KCIA)の部長によって射殺されるまでつづいた。 
 
 朴は米国による反対に抗して核兵器開発計画を企てていたので、アメリカ当局者に“近い”と知られていたKCIA部長が米国の命を受け、彼を暗殺したのだと韓国民は信じていた。(この種の話はお馴染みではないだろうか?) 
 
 朴の死後、全斗煥〈チョン・ドハン〉少将が権力を掌握し、さらに87年までつづく新たな軍事独裁政権を樹立した。 
 
 朴正熙暗殺から1年後の1980年、全斗煥は、南西部の都市・光州〈クワンジュ〉で盛りあがり、首都・ソウルにおいても学生たちの間に湧きあがった、デモクラシーを求める運動を粉砕した。米国大使は、全の政策を応援し、「暴動に対処するために毅然とした方策が必要である」と論じた。当時、米軍は、国土を北朝鮮による攻撃から守るために国連軍の指揮系統に組みこまれていた韓国軍の指揮権を全に移譲し、彼はこの軍隊を光州の運動を潰すために使った。何千人もの民主化要求デモ参加者たちが殺害された。 
 
 1981年には、全斗煥は、米大統領に選ばれたばかりのロナルド・レーガンにホワイトハウスで歓迎される最初の外国からの訪問客になる。 
 
 戦後30年以上の歳月を経て、ついにデモクラシーは、下からの民衆革命により1987年に韓国に到来することになった。全斗煥は、88年オリンピック大会をソウルで開催する権利を獲得したことで、戦略的な失敗を犯した。オリンピック大会の準備期間中、ソウルにある数多くの大学の学生たちは、そのころには、ますます裕福になりつつあった中産階級の公然たる応援を受け、アメリカが支える軍事政権に対する抗議運動を開始した。 
 
 支障がなければ、全は、7年前に光州でやったように、デモ参加者たちを逮捕、投獄、あるいはおそらく射撃するために彼の軍隊を使ったことだろう。だが、そうなれば、国際オリンピック委員会は大会開催地をどこか他の国に移すだろうと知るだけの見識が彼の手を止めた。全は、そのような国辱ものの事態を避けるために、79―80年における彼の共同謀議者、盧泰愚〈ノ・テウ〉将軍に政権を委譲した。盧は、オリンピック大会を滞りなく開催するために、民主改革政策に着手し、これが93年の国政選挙の実施、そして文民である金泳三〈キム・ヨンサン〉の大統領選勝利に繋がった。 
 
 韓国デモクラシーの成熟を表すきわめて明確な実例のひとつとして、1995年12月になって、政府は、全斗煥、盧泰愚が収賄――伝えられるところでは、全斗煥は12億ドル、盧泰愚は6億3000万ドルをそれぞれ受領――により韓国の巨大事業を歪めたとして、両将軍を逮捕、訴追した。さらに金大統領は、79年の軍事クーデターによる権力の奪取、ならびに光州における虐殺の容疑により両名の起訴を決定し、国民の大喝采を浴びた。 
 
 96年8月、韓国の裁判所は、全、盧両被告を騒乱につき有罪と認定した。全は死刑、盧は禁固22年6か月の刑をそれぞれ言い渡された。97年4月の韓国最高裁判所による判決では、少しばかり刑が減じられたが、このようなことは、形式的な手続きで終わる日本の最高裁判所の場合では考えられないことだった。平和活動家である金大中〈キム・デジュン〉は、大統領に選出された後の97年12月、全が彼の殺害を繰り返し謀っていたという事実があるにもかかわらず、両名に恩赦を与えた。 
 
▼米国が介入せずに生まれた韓国のデモクラシー 
 
 米国はこれらのできごとに常に深くかかわっていた。1989年、韓国の国民議会が光州事件の真相を独自に調査しようと企図したとき、米国政府は協力を拒み、在ソウル米国大使館の元大使や在韓米軍の元総司令官に証言することを禁じた。アメリカのメディアは、(89年6月の北京における民主化要求デモ参加者たちに対する弾圧については、集中的に伝えていたのに)韓国情勢の報道を差し控えていたので、この件に関して、たいがいのアメリカ国民の知識は無に等しいままである。韓国における軍事支配とデモクラシー 
抑圧の代償を隠蔽したのはよいとしても、その影響は米国に跳ね返り、目下、韓国で高まりつつある米国への敵意に一因になっている。 
 
 アメリカが他のどこかの国に導入したり、支持したりした“デモクラシー”とは違って、韓国は正真正銘のデモクラシーを奉じる国に発展した。かの国では、世論が社会の活力になっている。三権分立は制度化され、尊ばれている。あらゆる官職について選挙戦が熾烈におこなわれ、有権者たちが高度なレベルで参画している。これらのことは、下から、韓国の人びとみずからが達成したものであり、彼らは自分たちの国をアメリカ後援の軍事独裁政権から解放したのである。 
 
 たぶん最も重要なことだが、韓国の国民議会――国会――は民主的な討論をおこなうためのほんもののフォーラム[公論の場]に 
なっている。筆者はたびたび同議会を訪問し、日本の国会や中国の全国人民代表大会の原稿棒読み式の空虚な会議進行との違いが実に著しいと了解した。デモクラシーの活力という観点から見て、この議会の東アジアにおける唯一の好敵手は、おそらく台湾の立法院である。 
 
 時と場合によっては、韓国の国民議会は粗暴になり、乱闘騒ぎも稀でない。それでも、これはデモクラシーの真の学校であり、米国からの妨害にもかかわらず、実現したものなのだ。 
 
▼デモクラシーを押売りする「資格なき」人たち 
 
 このような歴史を目にしていては、元駐イラク連合国暫定当局長官、ポール・ブレマー3世、元駐イラク大使、ジョン・ネグロポンテ、それに現在の大使、ザルメイ・ハリルザド、さらに言えば、アメリカン・エンタープライズ国策研究所のパワーポイント[*]講義で一夜漬け勉強しては、ひっきりなしに交代する米軍少将の一団といった人物たちが、バグダードで混乱を醸成し、おそらくは内戦状況をもたらすとしても、どうして驚かなければならないのか? 
 
 彼らのだれひとりとして、高度に民族主義的なイスラム教国に 
「デモクラシーを紹介」したり、アメリカ型資本主義を導入したりする資格などはまったく持ちあわせていないし、仮にこれを実現したとしても、節度のない軍事力を行使して、一国を恐怖に突き落とした責任は免れえない。 
*[訳注]マイクロソフト社のプレゼンテーション用ソフトの名称であるが、「権力の要」といったような意味を暗喩しているようでもある。 
 
 ブレマーは、ヘンリー・キッシンジャー[ニクソン政権の国務長官]やアレクサンダー・ヘイグ将軍[レーガン政権の国務長官]の補佐官だったり使用人だったりした人物である。 
 
 ネグロポンテは、1981年から85年にかけて、ホンジュラス駐在の米国大使を務めていたが、当時、同国には世界最大規模のCIA支局があり、彼は、ニカラグアの民主政府を抑圧するための汚 
い戦争に積極的に関与していた。 
 
 ハリルザドは、アフガン系としては最も頭角をあらわしたブッシュ政権官僚であり、イラクに対する侵略戦争のためのロビー活動を担当したネオコン圧力団体「アメリカ新世紀プロジェクト」(Project for a New American Century)」の構成員である。かの地におけるわが国の戦争で果たしている米軍の役割は、アブグレイブ監獄のような場所に規律のない野蛮な部隊を配属するなど、あらゆる戦線における紛れもない惨事を引き起こすことであった。 
 
 米国がなしとげた全成果と言えば、これからの幾歳月、イラク国民が私たちを憎むようになると保証することだった。今日のイラクの状況は、かつての日本や韓国の状況より以上に言語道断であり、ヴェトナムにおけるわが国の駐留期間に比肩しうるものである。 
 
 私たちが一所懸命になって世界に輸出しようとしているものが正確にはなんであるか、再考するのは、たぶんやってみる値打ちのあることだ。 
 
[筆者] チャルマーズ・ジョンソンは、最新刊“The Sorrows of Empire:Militarism, Secrecy, and the End of the Republic” 《1》の著者。他にも、“MITI and the Japanese Miracle ”(1982)《2》 、“Japan: WhoGoverns?” (1995)《3》など著書多数。 
1.『アメリカ帝国の悲劇』村上和久訳、文藝春秋、2004年刊 
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0104835088 
2.『通産省と日本の奇跡』矢野俊比古監訳、TBSブリタニカ、1982年刊 
http://sugihara.koshoten.net/catalog/default.php/cPath/51_4521?osCsid=a8bfea3ce3d71ff7421589fac0a7cb0d [学術古書を扱う杉原書店のサイト] 
3.仮題『日本――統治者は誰だ?』 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0393037398 [洋書販売サイト] 
 
[解題] 本稿のオリジナル原稿は、カリフォルニア大学サンディエゴ校社会学部の後援のもとに、2006年4月21日に開催された「制度移植」に関する研究会の東アジア部会の「講評」として提示された。この研究会の座長はリチャード・マドセン教授。 
 
[原文] 
Tomgram: Chalmers Johnson on Peddling Democracy 
posted at TomDispatch on May 2, 2006 
http://www.nationinstitute.org/tomdispatch/index.mhtml?emx=x&pid=81088 
Copyright 2006 Chalmers Johnson 
 
[翻訳]井上利男 


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