2006年08月07日18時13分掲載  無料記事
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中欧における民主主義の危機 拡大する大衆とエリートのギャップ イワン・クラステフ

openDemocracy  【openDemocracy特約】「新しい欧州」は米国のミニチュア版ではもはやない。それどころか「小さなフランス」になってしまった。まず第一に、これは東欧・中欧が急にロマンチックな気質を変えたり、外交政策を方向転換したという意味ではない。それはむしろ、新しい欧州がすますフランスに似ているということである。混乱し、不幸で、予測不能で、反リベラルで、その政治は左翼ポピュリストと極右民族主義者によって支配されている。新しい欧州とは、イラク戦争を前にロナルド・ラムスフェルドによって旧共産諸国を意味するものとして描かれ、支持された。旧共産諸国は、市場経済を強固な外交姿勢で結合しつつあった。(訳注1) 
 
 確かに、違いもある。フランスでは年金生活者は現状の恩恵者で、決して抗議はしない。中欧では年金生活者は敗者であり、いつも抗議している。さらに、パリでは、ほとんどの人が逸話として名高いポーランド人の配管工(訳注2)の侵入を恐れているが、ソフィアやワルシャワでは、フランスの銀行の侵入に無関心でいるか、少なくとも敵対的ではない。 
 
スロバキアの成功と失敗 
 
 ポーランドで2005年9月−10月の選挙の後、ポピュリストの大連合が成立したことは、中欧の政治において何か不思議で予期しないことが起きているという初期の警戒の信号であった。レフ・カチンスキ大統領の双子の兄弟であるヤロスワフ・カチンスキが7月14日、カジミエジュ・マルチンキエウィチュに代わって首相に指名され、ロマン・ギェルティフ教育相ら他のポピュリストが入閣すると、それはさらに大きく響いた。 
 
 6月17日のスロバキアの選挙と新しい政府の成立は、ポーランドで起きたことはポーランドの奇癖の事故ではなく、はっきりした潮流であるということを示している。選挙後の駆け引きの結果成立した内閣(8月4日に議会が承認した)は、中欧で進行中の新しい「フランス」革命の明快な例である。それは、ローベルト・フィツォの穏健なポピュリスト、ヤン・スロタの過激民族主義者、それにウラジミール・メチアル前大統領のメチアル派による信じがたく、とんでもない連立である。 
 
 過去8年間、スロバキアは欧州連合のお気に入りの成功談であった。それはアイルランドの「ケルトのタイガー」の話と同じくらい元気づけるものであった。だが 劇的なねじれと驚くべきハッピー・エンドにあふれていて、議論の余地があった。 
 
 第一に、欧州の吸引力はスロバキア社会を動員し、メチアルの独裁的支配から解放した。 
 
 第二に、6月の選挙で政権を追われたミクラーシュ・スリンダの社会民主主義政権は、欧州連合が望みうる最高の政府であった。同政府は、均等税を導入し、旧共産近隣諸国のどれよりも多くの一人当たりの外国直接投資を引きつけた。政府は欧州を支持し、市場を支持し、(EU)憲法を支持した。欧州連合の旗のものに、スロバキアの外交は独立モンテネグロの誕生も交渉した。これすべては、1993年に独立したばかりの国としては悪い記録ではない。 
 
 それらの奇跡の後、スロバキアの有権者は1990年代半ば、スロバキアをビールで酔っ払ってしまったベラルーシにしてしまった(訳注:独裁的な政治手法を取ったこと)民族主義者とメチアル派のふたつの党に政権を戻してしまった。結局、ハッピー・エンドではまったくなかった。 
 
 親欧州のリベラルの改革派が選挙で負けた理由を見つけるのは難しくはない。高い失業率と社会的不公平の増大である。ポピュリストとセミ・ファシストだけが選択肢であったことの説明するのは難しい。スロバキアと中欧がおかしいのか。それとも民主主義がおかしいのか。 
 
 フィツォが組閣したその日、スロバキアの憲法裁判所はスロバキアの一市民が総選挙を無効にするよう請求した、と発表した。請求人は、スロバキアは「正常な」選挙制度をつくるのに失敗し、賢明に統治されるという市民の憲法上の権利を犯されたと主張した。請求人の目から見れば、スロバキアの新政府のような寄せ集めの連立を生むような選挙制度は「正常」でありえない。 
 
 孤独なそのスロバキアの請求人の訴えはもっともだ。賢明に統治される権利は、投票する権利と矛盾しうる。これはリベラルをいつも民主主義にいて神経質にさせるものである。事実、19世紀の有力なリベラル、フランソワ・ギゾー(1787−1874)の著作に詳しく迷信深い人は、彼が憲法裁判所から答えを要求したスロバキアの市民の人物に生まれ変わったと疑うかもしれない。 
 
 民主主義とよい統治は、制限された選挙権の政治形態のもとでのみ共存しうると主張して弁舌を使ったのが、ギゾーと「空論家」のその同僚であった。彼らの意見では、真の主権は国民ではなく、理性である。であるから、投票は権利ではなく、能力で検討されるべきである。19世紀においては、能力は財産ないし教育を意味し、正当な教育と十分な財産を持った人だけが投票する権限を任せられた。 
 
エリート対国民 
 
 ギゾーの現代の後継者たちは、能力を明確にすることが複雑になっていることが分かる。ほとんど誰もが、少なくとも部分的に教育を受け、同時に多くの人たちが全財産を公開するのを渋っている。こうした状況で、理性は主権であると保証する唯一の方法は、母国語だけでなく、英語(あるいは少なくともフランス語)を話せる人だけに投票権を持つ選挙制度を導入することである。そのような選挙制度では、フィツォはスロバキアの首相にはならなかったであろうし、賢明に統治される市民の権利は侵害されなかったであろう。 
 
 そのような制限に誰が真剣に抗議するであろうか。英語とフランス語は欧州連合の公式言語である。(さらに、英語を話せず、同時に理性的であるという人を知っているか) 
 
 現在の欧州政治のパラドックスは、ニューヨーク大学の法律教授スチーブン・ホームズの観察に最も捉えられる。彼によれば、重大な問題は「グローバルでかつローカルに正当なエリートを持つことはどのように可能なのか」である。欧州の政治は答えが見つけられない。ポーランドとスロバキアで起きたことの後では特に、今日、ユーロ・オプティミスト(訳注:欧州連合に楽観的な人)になることには、勇気と想像力を必要とするというのは驚くに値しない。 
 
 ひねくれているが真実である。この民主主義の時代において、欧州のエリートは、無責任な有権者から投票権を奪い、知恵の権利を侵害する制度を密かに夢見ている。同時に、ほとんどの市民は投票する権利はあるが、政策決定に影響を及ぼす権利はないと確信している。 
 
 この意味において、今日の中欧は「小さなフランス」というより、1848年の全国的な国民革命(訳注3)の大きな波が起きる前の「1847年の小さなフランス」である。2006年においては、欧州政治の主役たちは、政治的に正しい形の制限された投票権を夢見ているエリートと、そのような制限された投票権の政治形態のもとですでに暮らしていると確信した人々である。 
 
 新しいポピュリストの多数派は、選挙を政策選択の間で選ぶ機会ではなく、特権を持った少数派に対する反抗と見なしている。中欧の場合、それはエリートと集団的な「他者」、ロマである(訳注4)。ポピュリストの政党のレトリックでは、エリートとロマは双子である。どれもわれわれに似ていない。まじめな大多数から盗み、奪う。払うべき税金を支払わない。どちらも外国人、特に欧州連合に支持されている。 
 
 どの構想も概念的に説明され、汚職かポピュリズムとしてレッテルを貼られる、この形の政治生活では、政府が正当性を得るための唯一の方法は、戦争を宣言することである。この場合、欧州連合に対する戦争である。 
 
 その結果は、ポピュリストが公然と反リベラルになり、エリートは密かに反民主主義になる政治である。中欧に欠けているのは真の改革主義である。ポピュリストの原始主義の犠牲になることなく、人々の要求に応答するものである。何よりも、加盟国の国内政治における、このぽっかり開いたブラックホールが、今日の欧州のプロジェクトを脅かしている。 
 
*イワン・クラステフ ブルガリア・ソフィアにあるCentre for Liberal Strategies代表。バルカン国際委員会(座長・アマート元イタリア首相)の事務局長をつとめた。 
http://www.cls-sofia.org/cgi-bin/public/index.cgi 
 
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 
 
原文 
http://www.opendemocracy.net/globalization-institutions_government/europe_blackhole_3796.jsp 
 
訳注1:ラムスフェルド米国防長官が2003年1月22日、イラクとの戦争に反対したフランスとドイツを「古い欧州」と形容したことから、米国の保守派の政治評論家はイラク戦争を支持した東欧の旧共産諸国を「新しい欧州」と呼ぶようになった。 
 
訳注2:フランスのEU憲法反対派は、東欧・中欧からの低賃金労働者が国内に流入し、フランス人 の雇用を奪うと主張、ポーランド人配管工をその象徴にした。 
 
訳注3:1830年の7月革命で、富裕層のみに選挙権が与えられるようになった。1848年にパリで、労働者が中心になった2月革命で第二共和制が成立、世界初の男子普通選挙が実施された。しかし、選挙では民主派ではなく、農村の支持を得た王党派が勝利した。 
 
訳注4:スロバキアのロマ 
http://blhrri.org/kenkyu/bukai/jinken/kokusai_jinken/kokusai_jinken_0036.html 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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