2006年08月29日20時25分掲載  無料記事
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変化求めるキュ−バ国民 民主主義への平和的移行は不透明 フレッド・ハリディ

openDemocracy  【openDemocracy特約】フィデル・カストロが重大な内臓の病気にかかったと7月末に発表されたことと、8月13日に80歳の誕生日を迎えたことで、カリブ海の共産国におる権力の移行が切迫しているのかいないのかをめぐって、山のような評論を必然的に生じた。だが、もし「フィデルの後はどうなるか」が新聞のオピニオンや放送のインタビューの使い古された話題なら、その答えの焦点は、キューバ革命の経験全体としての性格の評価にある。そこには、制度的、政治的、個人的なものが組み合わさっている。 
 
 その質問にこのようにアプローチすることは、1968年、1981年、2000年の3回の訪問での、わたしのキューバの現実との出会いを思い起こすことでもある。3回目の機会は、フィデル亡き後のキューバがどこに行くのか最も大きな洞察を与えたが、2回目も、キューバの政治的エリートがどのように国際的な場での彼らの位置、それに彼らの指導者について理解しているか明快な判断を提供した。 
 
不信の時 
 
 私が最初にキューバを訪れたのは1968年であった。その時は、2、30人の英国の急進派がピナ・デル・リオ地方のコーヒープランテーションで1ヶ月間、それほどきつくはないが働きながら訪問するのをバードランド・ラッセル財団と一緒に組織した。そのプロジェクトには、島の旅行とフィデルのふたつの特徴的なマラソン演説を見学する経験も含まれていた。 
 
 2回目の訪問は1981年で、ハバナの外務省の招待であった。レバノンへの新しいイスラエルの脅威という情勢の中で、中東情勢について討議するためであった。キューバ人はそれを、親密な同盟国シリアとより自国に近いニカラグアのサンディニスタへの攻撃の可能性があることとして見ていた。 
 
 1980年代、わたしは欧州にいるキューバの外交官と彼らが関心のある問題について何回も議論を重ねた。80年代の初期は、米国のニカラグアへの侵攻の脅威(キューバ自身へも)が中心を占めていた。だが1980年代中ごろからは、焦点はソ連におけるミハイル・ゴルバチョフの計画とハバナとモスクワの間の広がりつつある溝に移った。 
 
 事実上、1980年初めはヤンキーについての懸念に支配されていた。1980年代末は、いく分かの皮肉と失望を込めてキューバ人がいつも言うlos hermanos(兄弟)についての懸念に支配されていた。ソ連が何か悪い方に変わっているということに、キューバ人は非常に早くから気がついていた。また、それについて早くから意見を述べていた。 
 
 ゴルバチョフのグラスノスチとペレストロイカの数年がベルリンの壁の崩壊、東欧・中欧での革命の波に道を開いたときに、キューバ人は、1980年12月のルーマニアのニコライ・チャウシェスク対する蜂起に特に興味を示した(それに警戒心を持ったようだ)。キューバ人はそれをKGBがそそのかした軍事クーデターと見なし、キューバに対する予行演習になりうるものと見なした。 
 
 この不信は明らかに相互のものであった。わたしが同じ年にモスクワであったソ連当局者は、国内と国際的な問題でのキューバの「冒険主義」」の傾向について、まだ心配しているようであった。この相互不信のはっきりした証拠が、ミラマー郊外の国際研究所の先のソ連大使館専用の建物の巨大なタワーにあった。 
 
 キューバ人は、ソ連はその建物を正当化するために米国を電子偵察するためのものだと説明するが、その本当の目的は彼らを監視するためだ、と冗談を言った。 
 
 キューバ外務省付属の研究機関の国際関係研究所は、2000年のわたしの3度目の訪問の中心であった。わたしはそこで、国際関係について外交官と政策専門家に講演し、上級スタッフとより親密に話をする機会があった。彼らは、40年間の革命的大変動と国際的な事件のグループとしての目撃者であった。 
 
 キューバ国家の指導者と内部の事情に通じ、よく読み、よく旅行し、キューバ革命の広範な目的に全力を傾け、西側でマルクス主義者として通用することや過激な著作の多くに懐疑的で、そのような政権の当局者をよく特徴づける修辞的な思わせぶりな態度のようなものはなかった。 
 
 会話は、「第三世界」の革命政権の運命、米国の国内政治のありうべき進展、(ソ連の経済支援の終えんの結果として)「特別時期」として知られる、1991年後の経済困難のキューバへの影響をめぐって行われた。その時までに、キューバの歴史における、ある段階の終えんが感じられた。外国での20年間の革命的前進が消え(アンゴラ、ニカラグア)、キューバ人は国内的にますます、生活のやりくりをするのに頭がいっぱいで、複数の仕事をするか、米国に住む親類からのドルの送金に頼っていた。 
 
 ときどきうなり声を上げながら通り過ぎるカメロ(「ラクダ」、改造した大型トラックを元にした急ごしらえの大量運送システム)はこの危機を明確に示していた。観光業は許された。しかし、それに伴うシステムに多くの汚職があった。キューバ人自身が特定の海岸やホテルに入るのを拒否されるなどの規制があった。それは、わたしの対談者たちが特に侮辱を感じるものであった。 
 
 多くが米国の経済封鎖が続くせいにされたが、すべてではなかった。こんなジョークがあった。フィデル・カストロが乗った飛行機が、米国の大統領が乗った飛行機に空中で衝突した。「誰が逃げ出す? 1100万人のキューバ人」 
 
キューバの対話 
 
 キューバ革命について、ある種の親しみとある程度の現実主義というこうした背景にかかわらず、わたしはその夕方、驚いた。議論は必然的にコマンダンテ(司令官)が死んだ後に何が起こるかという問題になった。わたしの仲間が、スペイン内戦の勝利者で、1975年11月に死ぬまで独裁的な支配者であったフランシスコ・フランコに対する非常な尊敬を表した時だった。 
 
 この称賛の理由は、ファシズム、右翼専制主義でも国民生活におけるカトリック教会の優位へのあこがれではなく、フランコ将軍は、彼の死後の民主的移行への基礎を準備していたという考えに基づいていた。フランコの有名な謎めいた言葉、todo es atado, bien atado「すべては結びついている。よく結びついている」について、わたしのキューバの同僚は、スペインの欧州の資本主義への開放、フランコ以後の時代を見守る指導的な人物としてファン・カルロスを指名することを通じて、フランコは1970年代にスペインが民主主義に移行することを予測し、準備していたとしるしと見なしていた。 
 
 大事なことは、フィデル・カストロ自身が前から好意を示していた強硬右派の政界の大物、すなわち、フランコの長年の閣僚の仲間、マヌエル・フラガとの興味をそそる対照ということだけではない。むしろ、それらの国際関係研究所の当局者が実際には、フランコについてではなく、カストロについて主張していたということである。 
 
 彼らはみなフィデルを知っていた。崇拝し、彼の急進派とキューバの民族主義的目標の擁護に同調していた。だが、彼らは、長い間にいかに、彼がますます孤立に引きこもり、共産主義青年組織からの若い信奉者をまわりに置くようになったかを深く憂慮していた。若い信奉者たちは、彼に彼が聞きたいことを語った。キューバは世界で一番称賛されている国である、反グローバリゼーション運動は世界中で勢いを得ている、帝国主義は危機であると。 
 
 革命の初期、有能な指導者と思想家の一部はその信奉から離れた(ゲリラ司令官のヒューバー・マトスと作家のカルロス・フランキなど)。フィデルに真実を言えるかつて親密なその他の者は死んでしまった(共産党指導者の中で最も有能であったカルロス・ラファエル・ロドリゲス; 長く大統領をしたオスワルド・ドルチコス、 フィデルの長年の仲間で、墓の脇には彼の激しい悲嘆が書かれているセリア・サンチェス・マンダレー)。 
 
 わたしの対談者たちは、ひとつの問題だけについて不安であった。わたしが「第三世界」革命についての最近の比較研究で書いたことに、彼らはわたしを非難した。これはキューバ革命の歴史の中で最も卑劣な出来事のひとつである、1989年の「オチョア事件」(訳注)に関することである。それは、アンゴラでのキューバの戦争に関与した軍幹部のグループが絡んでいた。 
 
 フィデルとその仲間は、彼の権威に挑戦したかもしれない人気のある急進人物をみせしめ裁判にかけたようだ。この種の共産主義者の裁判の最悪の伝統で、被告たちは温情を期待して、忠誠と自己のかかわり合いを表明する計略にはめられた。被告たちは、銃殺か30年の禁固に処せられた。 
 
 しかしながら、1990年代のキューバ革命の内向と長引くエントロピーは、初期のユートピア段階との突然の断絶ではない。それは、革命自身のすべての歴史における問題を示している。問題とは、明敏で、同調的でさえある観察者が1960年代の初期に気付いていたもので、キューバ国家の支持者(判断をすぐに中断するかあるいは、キューバの生活の現実をそのまま、そうであったように見た)が避けようとしたものである。最も明らかなことは、その指導者自身の人格である。 
 
 洞察力があり、勇気があり、正直で、カリスマ性がある男。だがまた、デマゴギー、一貫性のなさ、執念深さ、残酷さ、グロテスクな言葉による身勝手さ、不寛容、知識人と同性愛者に対する侮辱、明確な行政的な無能力を持った男でもある。 
 
 キューバ人は、キューバでは解決策も問題であること、またそれはトップにあることをよく知っている。のぼせた訪問者のジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールが1960年に見たもの―「フィデルと大衆の弁証法的団結」、気の狂ったような殺到、方向転換、恣意的な介入―はまもなく、非効率、恣意性それに思いつきの混じりあった物になった。 
 
 そのような個人的な欠陥は、キューバ経済の運営でカストロと彼の仲間がした選択と混じりあった。彼の欠陥とは、彼の1953年の裁判での彼の有名なせりふでの、歴史は「無罪を宣告」するどころか、かえって悪化させた。 
 
 多くの観察者が正しく指摘しているように、キューバは社会サービスの分野、健康、教育、貧困の減少で優れた実績を持っている。しかし、マクロ経済全体の実績は惨憺たるものである。これは米国の経済封鎖の結果(政権の友人と擁護者が安易に主張するように)だけでなく、一連の破滅的な政策の結果でもある。 
 
 これらには、「非通貨決算」(チェゲバラの空想)、「奉仕労働」(高度に非効率的な強制的動員の形態)というユートピア的実験から、国家統制の再導入、1980年代の十分準備されていない「調整」運動での、小規模史上と農家を潰したことまで含まれる。 
 
 最新の破滅的な転換は2003年にあった。政権は、経済での米ドルの流通を急激に減少させ、新しい統制で外国投資家を怒らせた。現在、特別期間から若干回復したものの、キューバの一人当たりの国民所得は3000ドルと推定されている。年金生活者は月7ドル受け取るが、これは月に2回、肉が食べられるだけである。 
 
恐怖の雰囲気 
 
 人格と政策のこれらの欠陥は、キューバへの訪問者が、表面的なのんきさと「熱帯」の雰囲気に心を奪われて、つい見逃す何かを伴ってきた。つまり、恐怖の雰囲気である。 
 
 キューバの記録は、現代革命の中で最も血なまぐさいもの中には入らない。しかし、1960年代初めの革命的見せしめ裁判を忘れないことは重要である。その裁判は、チェゲバラが裁判長を務め、彼の父親はそれに嫌悪して、後に国を去った。1970年代と1980年代に反体制の者、同性愛者、その他の者を「再教育」キャンプに大量に入れたこともある。とにかく、それらはキューバにおける自由な表現、ましてや自由な組織に対する厳しい制限の証拠の最も目に見えるものでしかない。 
 
 「人民の権力」と自慢するものの、政治体制はトップからきつく統制されている。何年にもわたり友好的な評論をしてきた作家やその他の知識人は、しばしば公的な迫害と中傷非難の対象になった。(アメリカ研究所と関係があったキューバ人のグループが民主主義について書き始めると、旅行と出版の許可が取り消された。 
 
 それはほんの一例である)。フランスの農学者、ルネ・デュモン、ポーランド系フランス人マルクス主義作家、KS・カロル、米国の歴史家、オスカー・ルイスなど外国の観察者にも冷笑が注がれた。 
 
 そのような迫害、それに伴う態度は、革命後の独裁の避けられない発展の結果でも外部の帝国主義者の圧力の結果でもない。それらはカストロ自身からくるものである。彼の偉大な英雄は、ジャコバンの指導者、ロベスピエールであるようだ。彼の伝記はキューバで数年前、出版された。ロベスピエールは禁欲的で、残酷で、時に移り気で、究極的には彼が率いた革命それ自身の犠牲者であった。 
 
 この性格の特徴は、カストロが、キューバの官僚が称賛を表明するモデル、つまり中国をまねることができないことにはっきり表れている。中国の指導部は1978年以来、国民が金儲けをし、いい生活をしたいと理解していた。カストロは最近、この方向に少し動いた。また、キューバ国民の多くを助ける上で、ウゴ・チャベスの資金的な援助を受けた。 
 
 しかし彼は、物質的豊かさと改善に対する道徳的敵対心の虜のままでいる。そして幾度となく、道徳的純潔を訴え、汚れた消費主義の価値をキューバから取り除くことを訴えるのである。カストロは19世紀の民族主義者、ホセ・マルティの伝統に沿っていると主張しているのにかかわらず、彼は小財産の所有者の国は豊かな国であるというマルティの見方を無視している。 
 
 それゆえに、1990年代中ごろのキューバでフィデル・カストロについて、次のようなアネクドート(小話)があった。 
 
 カストロとビル・クリントンそれにボリス・エリツィンが、餓えたライオンがいる檻に入れられた。クリントンとエリツィンは勇敢にライオンと戦うが、ひどい傷を負って、ひきさがった。フィデルは「俺に任せろ」と言って、ライオンに近づき、耳元に何かささやいた。ライオンは間をおいて顔をしかめた。そして倒れて、死んでしまった。ビルとボリスは傷をなめるのをやめて、どんな魔法の言葉を言ったのかと尋ねた。フィデルは答えた。「なに、いつも言っていることを言ったのさ。“Socialismo o Muerte”(社会主義か死か)」。 
 
 ジョージ・オーウェルには失礼ながら、どんなジョークも小さな革命であるとともに、小さな真実を語っている。ほとんどのキューバ人は、カストロを指導者として尊敬しているし、国の独立を誇りに思っている。しかし、経済的、社会的、政治的体制にうんざりしており、変化を望んでいる。遅かれ早かれ。 
 
 確かに、カストロの死後、暴力(国内部の派閥同士ないし、マイアミから戻ってくる亡命者とキューバ軍との間)の可能性についての不安も広くキューバにはある。マイアミとワシントンで政権の切迫した崩壊についての長年考えられてきたシナリオにもかかわらず、理想は、独立と革命の社会的獲得物を維持する民主主義への平和的移行である。1990年代の東ドイツと東欧・中欧でのように、これは幻想であるかもしれない。 
 
 もし事態がうまくいかず、手におえなくなった場合、責任の一部は悪意のある、マイアミとニュージャージーにいる無知な亡命政治家、それに彼らと一緒になった歴代の米国大統領の鈍感で無知な共謀にある。しかし、一部はフィデル・カストロとその仲間にもある。余りに長期に政治変革を妨げ、経済運営を間違え、多くの市民を亡命に追いやった。キューバがうまくいっていないことの多くは、帝国主義者の悪さの結果ではなく、革命後の教条主義、愚かさ、傲慢の結果である。 
 
 フランシス・フランコ亡き後のスペインのための彼の本当の意図は、解決しないことかもしれない。権威ある答えをくれそうな人物、ファン・カルロス国王は多分そうしないであろう。数ヶ月前、わたしはバルセロナ大学の歴史学部でキューバについて公開講義をした。 
 
 そこでは、ハバナでのフランコ・ファンクラブとの出会いについての話をした。終了後、20代の学生が近づいてきて、こう言った。彼の父親はフランコ政権の晩年時代のマドリッドのCIA局の局長で、フランコをよく知っていた。その青年は、彼の父親の威信を持って、フランコはスペインに民主主義が導入されることは望んでいなかった、とわたしに断言した。将軍のtodo es atado, bien atadoは彼がつくった専制的政権が続くことを示唆したに過ぎなかった。 
 
 わたしのキューバの対談者たちは、スペインの独裁者の見方について誤っていたようだ。しかし結局、民主主義はスペインにやってきた。であるからバルセロナの話は、もし本当なら、現在46年間政権にいる専制的指導者が舞台を去った後のキューバ人にとって、それでもなお、一粒の希望を含んでいるかもしれない。 
 
*フレッド・ハリディ 英国を代表する中東政治研究家。オックスフォード大学、ロンドン大学オリエント・アフリカ学大学院で学ぶ。現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの国際関係論教授。 
 
訳注 1989年、アルナルド・オチョア中将ら最高幹部14人が逮捕され、オチョアら4人が反逆罪で銃殺された。オチョアはキューバ軍内でもっとも有名で人望のあった将軍。アンゴラ進駐軍の司令官、エチオピア、ニカラグアにおける最高軍事顧問を歴任し、逮捕当時はキューバ最精鋭といわれる西部軍の司令官を務めていた。 
 
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 
 
原文 
http://www.opendemocracy.net/globalization/castro_3855.jsp# 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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