2006年12月18日19時05分掲載  無料記事
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教育基本法の「改正」と「君が代」処分(1) 根津公子教諭(東京都)が講演

  愛国心の涵養と法にもとづいた教育行政をめざす、改正教育基本法が国会で成立した。戦後教育を否定する悪法によって、日本の教育現場はどのように変わっていくのか。卒業式での「君が代」拒否で東京都教育委員会から停職処分を受けた根津公子教諭(鶴川二中)は、すでに法改正前から東京では強行されている戦前の「小国民」教育が全国に拡大していくことを危惧しながらも、「法律が法律として一人歩きはするけれども、それを実際的に止めるか止めないかは、私たちの日々の闘いにかかっている」と語る。そしてそのためには、「日の丸と君が代の強要は思想・良心の自由を侵害する」とした9月21日の東京地裁の違憲判決にいかに応えるかがすべての教員に問われている、と訴える。「教育基本法の『改正』問題と『君が代』処分」と題して、10月7日に神戸市で行われた同教諭の講演(兵庫高教組神戸県立支部主催)の内容を紹介する。(ベリタ通信) 
 
 
 こんにちは、根津です。大勢の方が来られていてビックリしています、ただちょっと平均年齢が高いようですね(笑)。このような方たちを前にして、さて何を話したらいいだろうと思いますが、司会の方がおっしゃったように私も肩の力を抜いて、いつものように話をしていきたいと思います。 
 
 今は本当に大変な状況です。本やなにかで勉強して来た「戦前」が、まさに現実化してきた、それを一年半くらい前学校の中でふと思ったことがあります。それ以来、今まさに「戦前」「戦中」であると思っています。これだけ処分を受けてくると、あとどの位教員としての生命があるかどうか分かりませんが、これは私個人の事だけではなくて、今の子ども達を見ていますと、東京では子ども達はすでに戦前の「少国民」になっているのではないかという気もしています。 
 
 今日の話題は教育基本法の「改悪」という事ですが、私は実は「廃止」だと思っています。廃止して全く違うものを作るわけです、君が代処分との関係で言いますと、入学式・卒業式の年一回、行事も入れて年数回という事ではなく、君が代に従ってしまう事が国家のための国家の教育の実現になる、それが日の丸・君が代の処分に象徴されていると思うんです。そういうことでこれからの話を聞いていただきたいと思います。 
 
▽私の「処分歴」 
 
 資料がたくさん用意されています。まず自己紹介をしたいと思いますが、自己紹介がいつの間にか「処分歴紹介」になってしまって(笑)。何ということかと思いますが…。今、東京の教員では、一人は辞めてしまったんですが、私と河原井さんと二人が停職処分を受けています。河原井さんは1ケ月、私が3ケ月で、二人同時に免職じゃなくて私が一年先だろうと思うんですが、二人覚悟して闘っています。私は1950年生まれで今年が56歳ですが、短大をでて20歳で教員になりました。それから36年目で、40年まで勤めるだろうと思っていましたが、そうはいかない状況にいます。 
 
 1994年に最初の処分がありました。1990年から2000年の3月まで、八王子の石川中学校にいました。そこは子ども達の自治がしっかり出来ていて、校長がいなくても充分成り立つ学校でした。それは長い間教員達がそこにいて根づくことによってできてきたのだと思います。そこへ94年、校長が職員会議の決定を無視して日の丸を揚げてしまう事件がありました。当時君が代はまだなかったんですが、日の丸を揚げようとした。その時私達職員は校長に「やめよう」と説得をしていた。子ども達もその中に入っていきました。子ども達の登校時間になって校長が揚げてしまったのを、子ども達が降ろしたい、降ろそうということになって、それで私が代表して降ろした。それが最初の処分でした。 
 
▽校長「生徒の卒業式ではない」「日本国の卒業式だ」 
 
 しかしこの頃は、私が処分を受けることによって子ども達は教育委員会のひどいやり方が良く分かりました。子ども達は校長に「なんで日の丸を揚げたんだ」と聞くんですね、「私達の卒業式ではないのか」と。そうすると校長は「生徒の卒業式ではない」「日本国の卒業式だ」と言うんです。子ども達全員が反対しても私は上司の命令に従う、その校長だけではなくって、その次の校長もそう言いました。ですから、私が処分されてもそれが反面教師になって子ども達の学習材料となったという事実があり、それが10年続きました。 
 
 第2次処分というのは、職員会議の決定を踏みにじって揚げた日の丸について、保護者から「直接先生からも聞きたい」というので話をしたんですが、卒業式については直接お知らせする方法を考えますと、学級便りで書いた。その内容が校長を「誹謗・中傷した」という事での訓告処分でした。 
 
 第3次処分は、最後の3年生の授業をどうしようかと考えた中で、当時、オウムの地下鉄サリンの事件があった後でした。地裁での証言の「上からの命令は絶対だった」という記事があり、それを使って授業をしました。これと同じ事が私たちの身の回りにもあるんじゃないだろうか、考えてみようという授業で、私は自作プリントにいくつかの例を挙げたんです。その例の一つに、教育委員会から命令された全国の校長の姿と構造的には同じではないかというふうに書いた、それが処分の対象になって、これも訓告処分でした。 
 
▽石原都政誕生と授業への攻撃 
 
 1999年の終わりに石原都知事が誕生しました。それからの東京はご承知のとおりすごいものになってきます。私の以後の処分も石原体制の中での処分です。また私への処分は、他の人たちへの処分の先駆けであったと思われます。 
 
 多摩市の多摩中学校に3年間いたんですが、行ってすぐに私に対するいろいろな噂がなされました。教育委員会に逆らう困った教員という内容で、私のことを報じた新聞、好意的に正確に報道したのではなくて、非難をする新聞記事を使ったようです。私をどうやって処分しようかと待ち構えていたわけです。 
 
 申し遅れましたが私は家庭科の教員です。家庭科の教員ですから、男女平等については当然扱います。今、家庭科は男の子も女の子も必修ですし、男女共生社会と言っているわけですから、男女差別の問題や共生の問題はやらなくてはいけないと考えています。 
 
授業の中でいろんな題材を取り上げることが可能です。それで私は従軍慰安婦の問題を取り上げました。もしかしたらこの中には、そう言ったって従軍慰安婦の問題は家庭科ではないと思われる方がいるかもしれません。しかし私はこう考えます。 
 
 戦後60年経っても、まだ日本の中でしっかり清算の出来ていないもの。それは、何が問題で清算が出来ていないかといえば、一つは国と国との差別の問題になるけれども、もう一つは、女性差別だと思うんです。その問題が日本の中で解決してないから、従軍慰安婦の問題を自分の問題として考えることが出来ないだろうと思います。 
 
 それでこの問題で授業をしました。子どもたちにはとてもよく伝わり、議論にもなったんですが、しかしあれは家庭科ではない、家庭科は料理、裁縫をするものだ、家庭科の時間に家庭科ではないことをやっていると校長が吹聴し、教育委員会も地域も一体となって私の攻撃に出てきました。しかも、私には内緒のところで行われていたので、はじめはよくわからないまま、数ヶ月が過ぎました。 
 
 この攻撃は1年間かかって行われました。その前の準備段階から含めれば相当長い期間だと思います。その時の教育長の言葉が、私にも伝わってきました。「あの教員は、自分ではやらずに生徒を使ってやるから困るんだ」と。私が授業でいろいろ話をしたり、子どもたちと考えあったりするのを、子どもを使うためにやって、自分では実際に手は出さないで子どもを使うという表現をしたそうです。相当私のことが気に食わなかったんでしょう。 
 
 従軍慰安婦の問題から家庭科ではないことをやった。保護者から苦情があった。たくさん苦情があったために、「授業観察」が必要だというので、都教委も市教委も授業を観にきました。2001年の1月、2月です。2002年6月には糾弾のための保護者会が開かれ、7月、9月には私の授業観察をして指導力不足教員にしようとしました。私一人だったらとてもそれから脱出することができなかったんですが、大勢の人たちにSOSを出しました。「こんなことをされているので、ぜひ力を貸してほしい」とお願いしましたら、保護者も何人か入って、大勢の人たちが市教委、都教委に連日のように押しかけ、私は指導力不足教員にされずにすみました。 
 
▽保護者・子どもたちを使って攻撃 
 
 どこの国でもどの時代でも同じだと思うんですが、教員を攻撃するのに一番いいのは、校長や教育委員会ではなくて保護者を使う。さらには子どもたちを使ってきます。私は保護者を使われるんだったら、あまり意に介さないで耐えられます。しかし、子どもを使われるのは非常に辛いです。 
 
 2000年に多摩中学に行ったときに、子どもたちの冷たい視線を感じました。それは私一人にではなくて、大人全部に対しての不信感があったように感じました。八王子の石川中学校では、子供たちと教員とが平等な関係だった。私たちも子供たちに、学校は先生が指示するところではなくて、あなたたちが主人公なんだから、私たちはそのお手伝いをすると、入ってきた1年生に言ってきました。最初は戸惑いますが、子どもたちは自然に分かって、確実に自分たちでやっていく。先生たちが信用してくれているからというので、本当にいいことをやっていきます。しかし多摩中学校の子どもたちはそうではありませんでした。多摩中が例外ではなく、日本の学校はそういう子どもたちを生み出してしまっていますが。 
 
 家庭科の時間はとても少なく、週に1時間あるいは半年間で週2時間ずつという形になりますから、授業としてはとても少ないです。でも、すぐに子どもとは仲良くなり、信頼してくれるようになりました。しかし、校長が「根津は家庭科の授業をやってるんではない、お前たちを利用してるんだ」ということを子どもに言い、保護者にも言い続けました。 
 
 するとそれが広がって、子どもたちが、今までいい先生だと思ったけどそうではないという目に変わっていきます。昨日まで「おはよう」と言ってた子どもたちがそうではなくなります。本当に辛い日々でした。 
 
 でもそれがずっと続くわけではなくて、どこかで子どもから、そうではないサインも出てくるんです。子どもたちからやられながらも、逆に子どもたちから救われることもたくさんありました。きつかったけれど、ここで私はしっかり鍛えられました。 
 
▽東京から全国へ 
 
 都教委から言わせれば、突出したゆゆしき授業をする奴は次々に潰すということが、このあたりから全都的に行われるようになりました。行き過ぎた性教育というので、一般的には七尾養護学校が2003年に問題化されましたが、それ以外に東京だけで新聞記事になったり、記事にはならないけれども相当なバッシングがあったというのは、いくつもあるんです。 
 
 特に性教育関係ではいくつもありました。その時にいつも最初に言われるのは私だったんですが、そういうふうにやられ、2003年の君が代の強制、そして処分ということになっていきます。 
 
 先ほど誰かがおっしゃったように、東京の状況というのは、兵庫でももうすぐの問題だと思います。東京は大変ではなくて、東京は簡単にこうなったんだから、他も簡単になるんだというふうに思っていただきたい。だからこそ止める方法があるんだと思います。 
 
 東京の子どもたちが先ほど、「少国民」になっていると言いましたけれども、本当に日々そう感じています。教育は希望を語ることだと言います。学校は子どもたちと教員とが希望を語るところであると。それがまったくなくなって、子どもたちが小学校の小さい段階からあきらめを知る場所になっているからだと思います。 
 
 兵庫でも小学校2年生ぐらいから、例えば算数の習熟度別クラスが行われてますか?東京では1年生はしませんが、2年生から算数の時間だけ教室が変わります。2年生を1学年をいくつかのクラスに分けて、出来る子、中ぐらいの子、出来ない子、クラスは亀とかつけるそうですけれど、そうやって分けていきます。 
 
 出来ないクラスと言われなくても最初は分からないかもしれないけれど、2年、3年にいくにしたがって分かります。テストをして出来るようになると、クラスが変わるわけですから。僕はどういう順位にいるということを、自分で自覚するように仕向けられていきます。そうやっていったら、学校が本当にあきらめを学ぶところになる。やがて大人になって理不尽なことに遇わされても「自己責任」ということで諦めるよう仕向けられていくのではないでしょうか。 
 
▽自主規制という名の「あきらめ」 
 
 君が代問題でいえば、時の政権の指示、国家の価値観を受け入れさせるところが学校だろうと思います。まず、教員はおかしいと思っても、さからわずに従う。これは日の丸・君が代だけじゃなくて、毎日の仕事の中でもそうです。たくさんの書類を提出させられるようになりました。例えば私は多摩中学校にいた2001年から年間指導計画を出せと命令されています。私だけじゃなくて、全員が命令されてるんですが、他の人のは教委は全く見ません。例えばAさんは、Bさんの年間指導計画をそのままコピーして出しました。教科は同じだけれども、全然自分が教えるところじゃないんです。ところがそれで通ってしまうんです。私が出した年間指導計画は何度も何度も書き直させたあげく、それを都教委に持っていって家庭科の指導主事が見て、1ヶ月かかってOKだという返事がきました。 
 
 それから授業は35時間で計算して計画を立てるんですが、東京は時間数を削減しない方針で、必要以上に授業をやらされています。始業式から6時間授業をします。終業式の日もそうです。5時間、6時間目までやって終業式です。夏休みに授業のある学校もずいぶんあります。だから時間数が35時間で計算すると余るわけです。余った時間で「発展」として、こういうことをやりたいと申し出ると、それも許可になるかならないかが、すごい闘いになるわけです。日常的にそういう状態です。 
 
 私がそういうふうになると、他の人たちはどうなるかというと、必然的に自己規制します。本当に社会問題に触れるようなことは、東京の学校の中では今、ほとんどなされていません。したらすぐに市教委に上がったり、市議会で問題になったりという事態がおきます。 
 
 だから教員たちも自主規制をする。言葉としては自主規制と言いますが、一番子どもたちにとって必要なことがなされない。実際のところは、自分たちで闘うことから引いてしまっているんだと思います。 
 
 教員自身が自分の問題で校長や教育委員会と闘うことをしなくなったらどうなるか。おかしいことに対しては立ち上がっていいんだ、どうやって抵抗するかということが、日常の会話の中でもできなくなります。自分がしてなければ、そういう言葉や発想は出てきません。ですから、そういった言葉がけを子どもにすることは全くないです。これは多分兵庫でもそうではないんでしょうか。東京ほどではないかもしれないけれども、似たり寄ったりのところはあるんじゃないかと思います。 
 
 20〜30年前、もっと以前の戦後すぐは、教員たちが闘っていた。教員たちがみんなを大事にしよう、一人を大事に出来ないでみんなを大事に出来るわけがないということを、日常的な会話の中で言っていた。そういう中で子供たちはいろんなことを学んできたんだと思います。闘うこと、抵抗することを学んでいったと思うんですが、そういったことを一切学校の中で出来ていないわけですから、国家の価値観に従うことを学んでいく場に学校がなってしまっていると思います。 
 
▽すでに教育基本法が「改正」されている教育現場 
 
 そのための教員支配であって、その象徴が君が代処分であり、服従しない教員は徹底的にあぶり出して処分し、見せしめとして制裁を加えるということがたくさん行われています。 
業績評価もそうです。東京では自己申告制度と言っていますが、2000年に導入しました。教職員組合は当初どこも反対していました。しかしこれが導入されてしまったら、ほとんどの人たちはみんな出すようになりました。反対の言葉だけは残しましたが、実際に行動することはありませんでした。 
 
 私は出していませんが、出していない人は大変少ないです。出さないと異動もどこになるか分からないとか、そういった問題もでてくるので、出さざるを得ない人も当然います。 
 
 私はすでに家庭の責任もないですから自由にやれますけれども、子どもが小さいとか、仕方なく自己申告書を出すという人たちもずいぶんいます。 
 
 先ほど年間指導計画のことを話しましたが、それ以外にも「週案」があります。これは1週間の授業計画を1時間毎にノート大で1週間分書くようになってるんですが、その中に細かくぎっしり書くわけです。それを毎週出せと言われて、出さないと脅しがたくさんきます。ほとんどの人たちは出している。 
 
 私は校長に、これは職務命令ではないですねと確認すると、職務命令だとは言えないので、違いますと言います。みんなに職務命令ではないので出す必要はないと言うんですが、みんな出します。それだけじゃなくて、次々に全く必要のない書類を出させられる。名目は教員の力量を高めることと、子どもたちの学力を高めることです。しかし誰もそんなことで学力が上がるなんて思っていないです。教員の資質向上になるなんて、教員も校長ですら思っていない。私は校長に、私はもし子どもの学力向上につながる、私の教員としての資質、力量が上がるんだったら、出しますのでぜひ説得してくださいと言います。 
 
 説得されてそうだと私が思ったら、何時間、何日かけてでも私は出します。でも残念ながらそれが見つからないんです。今まで私にそれを説得してくれた校長は一人もいませんから、もし出来たらあなたが最初ですと、職員会議で言うんです。ところが、説明できるわけがないです。したがって私は拒否ではなくて、出したいけれど出せないと言ってるんですが、みんなおかしいと思いながら出してるんです。これは非常に問題だと思います。 
 
 誰もがそれをいいことだと思ってないのに、どうしてそれに引きずられるように従っていくのかと、職員会議でもどこでも言うんですが、少なくとも子どもに責任をもって仕事にあたりたいと思っているわけだから、そのことが決して子どものプラスにならないと思ったらやめればいい。それよりも一緒にすごす時間を作ったほうがずっと子どものためです。何度も何度も言うんだけれども、一向にそうなりません。 
 
 私はそういう状態が一番恐ろしいと思います。それがおかしいと言うことを、声をあげずにただただみんなが従ってしまう。その無責任状態。そうやって動いてしまっていることは、まさに教育基本法が「改正」された状態だろうと思います。 
 
 教育行政の言うがままにやるわけですから、それがいいか悪いかを考える必要がないわけです。ここには日教組の組合員や元組合員の方がたくさんいらっしゃると思いますが、私はこうした状況こそ、子どもたちを戦場に送っている状態、自分たちが戦場に送る後押しをしている状態ではないかと思います。そういう中で子どもたちが「少国民」になっていると思わなくてはいけないだろうと。子どもたちが変わってきたと言うのは、全体的な状況もありますが、私たちが何もしないことによって結果的に加担していくというふうに私は考えています。そういう捉え方をしないと、君が代の問題にもきちんと対峙していけないだろうと思うんです。 
 
▽10・23通達以後の東京の処分と闘い 
 
 それで肝心の君が代問題に入ろうと思うんですが、これは先ほどいいましたように、教育基本法改悪の象徴としてあると思います。皆さんご存知だと思いますので、その辺は省こうと思いますが、「10・23通達」で私たちは処分をされるようになりました。 
 
 今までに延べ数345人の教員たちが処分され、私が停職3ヶ月、河原井さんが停職1ヶ月、このあとどうなるかと言うと、私の場合には今度の卒業式で停職6ヶ月だろうと思います。来年の4月から停職になると、入学式には出られませんのでこの時は処分はありません。 
 
 今年5月の定例の都教育委員会で、処分の見直し、強化をするための定例会が開かれました。その時にわざわざ傍聴した私の方に向かって、服務事故での停職は6ヶ月までと言うんです。停職が6ヶ月までと言うことは、次は何かと言ったら免職です。懲戒免職なのか、分限免職なのか、どちらか分かりませんけども、とにかく免職です。そうすると、予想としてはあと1年半で免職、河原井さんの場合には2年半で免職。2人とも60歳になってませんので、定年前に免職にされます。 
 
 「10・23通達」の前、東京の学校は日の丸・君が代についてどうだったかと言いますと、89年に学習指導要領にもとづくものとするというふうに明記されてから、小・中学校はほとんどやられてました。 
 
 私は八王子という東京の中で一番西のはずれに住んでおります。一番はずれですから、都内から転勤して来る教員はあまりいないんです。だから八王子の奥に住んでいる教員は、八王子の中でぐるぐる動いているので、そういったこともあって八王子の日の丸掲揚率、君が代の斉唱率は全都の中では非常に低かった。低かったと言っても、中学校の場合にはほとんどの学校で日の丸は揚がっていました。君が代は半分位でした。小学校の方はもう少し良かった。反対に23区内はほとんどが全部やられていました。同じ東京でも地域によって全く違ったんです。高校の方は君が代はゼロに近い。日の丸もまだ10何%で非常に少なかった。89年から90年、91年、92年と年を追っていくことによってどんどん増えて、高校でも90年くらいには80%くらいの日の丸掲揚率になりました。しかし君が代についてはまだほとんどやられていませんでした。 
 
 石原知事になってから、日の丸さえ揚げてないところもある、君が代はやってないところがたくさんあるというので、高校へのてこ入れと、実施率の低かった国立とか八王子とか、そういった地域への攻撃がどんどん強くなったんです。 
 
 それで2003年を迎えるんですが、私は89年の時に、しっかり問題にしなければいけなかったんだろうと思っています。「10・23通達」だけを問題にするのではなくて、89年に私たちがその事を問題に出来なかった、そのことから出発しないと間違ってしまうと思うんです。89年に日の丸も君が代もやれということになった時に、教育行為としておかしいということを問題にしなければいけなかったのに、それをしなかった。 
 
 私は当時八王子にいて、組合の女性部もやっていました。女性部では私も呼びかけ、他の人たちも呼びかけて、日の丸・君が代について生徒たちとしっかり授業をしようと、小学校の低学年から中学生までの副読本や、みんなで勉強しながらプリントをたくさん作りました。 
 
 それをもとに授業をしてそれをまた持ち帰ってということをしながら、大勢の人たちで手軽に日の丸・君が代の授業ができるようにしてきたんです。今度、小学校、中学校で処分された人たちというのは、ほとんどがその人たちなんですが、それが全体的に出来なかったということをしっかり問題にしなければいけない。 
 
 89年から東京では日の丸・君が代はどう問題になっていたかというと、市民運動としてしっかり闘われてきました。教員たちもその力に後押しされてやってきたという状態だったんです。 
 
 国立はその一番いい例です。教員たちがしっかりしていたというのではなくて、勿論そういう人はいましたけれども、全体的には市民運動に支えられてそれで出来たという状態でした。その時にやらなかったことと、今の「10・23通達」問題を絡めて考えていったら、自ずと今やらなければいけないことが出てくるだろうと思います。 
 
▽なぜ君が代強制に反対するのか 
 
 私が今、一番問題に思うのは、「10・23通達」では外形的な行為だけを見て内面は問わないということで、だからやれというふうに言ってます。子どもに対しても同じです。日の丸・君が代問題を教育活動として、学習指導要領に書いてあるからやれということでしたら、しっかり教育基本法に則ってやらなければいけない。 
 
 そうならば、しっかり真理を探求することをしなければいけないわけです。しかし、今東京で行われている君が代は、卒業式の前日あたりの練習の時に、「国歌斉唱、ご起立ください。」と何の説明もないです。教室で説明することもしません。これは反対だけを言えということではなくて、教育委員会がやれと言っているからやることになったと言う、その事実さえも伝えません。 
 
 教員たちは、自分の口から君が代という言葉を教室のなかで一つも発しません。予行練習の時に司会者が「国歌斉唱」といったら立ちなさいと言うだけなんです。それで当日皆が立つわけです。 
 
 中学校に入ってくる子どもたちは、小学校のある時期、4〜5年生ぐらいの時に、君が代を音楽の時間にしっかり歌えるようになってきます。音楽の時間に歌わせるのを教育委員会が、市によっては授業を参観するそうです。君が代の歌をしっかり覚えるということをして中学校に来る。だけどどういう意味か子どもは深く知らずにいます。勿論日の丸の意味なんかは全く分かりません。とにかく立たせることだけをするわけで、それは教育行為ではないです。 
 
 だから私は、日の丸が好きか嫌いかとか、歴史的に問題があるかないかという問題は置いておいて、これは教育行為ではないから、私は教員だから教育行為でないことは出来ない。賛成でも反対でも、とにかくどんな考えやどんな意見があって、賛成なり反対があるのかということを子どもたちに知らせなければいけない。それが教育活動だと思います。ですからそのことで反対しますし、子どもたちにも、私はまずそこのところで君が代斉唱の際起立ができないんだという話をします。 
 
 そういうふうに、全く考えさせないでとにかく立たせるということは、一つの国家の価値観を強制することであるし、そういう指示の仕方というのは、上からの命令には、良くても悪くても黙って従えと服従させること、疑問があってもとにかく従えという行動様式・思考形式を教えることですから、学校教育としてはいけないというふうに思っています。 
 
 あと今の社会状況、政治状況を考えれば、戦争へ向かっていろんな法律がたくさん出来ていますから、それとセットになったらどうなるか、戦争準備のための加担は出来ないということも勿論あります。私は子どもたちに、最近は「君が代」で起立斉唱できない理由について話をします。私は立てないけれど、でも子供たちの卒業式を邪魔するつもりではなくて、むしろ子どもたちの卒業を祝いたいから、そのためには子どもたちに誤解を与えてはいけないから話します、と校長に言います。校長に許可をとって授業を進めていくということです。 
 
 1年半前の2005年3月の卒業式と入学式、それから今年の3月の卒業式、その3回の処分で、1昨年の3月が減給6ヶ月です。それから次の入学式が停職1ヶ月、今年の卒業式が停職3ヶ月です。先ほど言ったようにその次は6ヶ月になるんじゃないかということですが、この3回の卒業式、入学式の君が代のことについて少しこれから話をしたいと思います。(つづく) 


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