2006年12月19日22時52分掲載  無料記事
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教育基本法の「改正」と「君が代」処分(2) 根津公子教諭(東京都)が講演

  2005年の3月の卒業式の時には、実は私は少しだけ立ちました。ずっと最初から座っていたわけではないんです。勿論、先ほど言った理由から、私は立つことは出来ないということはありました。 
 
 実は昨日、人事委員会審理がありました。その当時の校長を呼んで、そのことについても尋問したんですが、校長は教育委員会から相当やられているんです。昨日の尋問の中でも、私のことを心配しながら、でも教育委員会からこれは言ってはいけないと言われていることは、例えば教育委員会から命令されて指示されてやったとは言わずに、私の判断でやりました、と言っています。ものすごい締め付けです。この間の9・21判決でさらに締め付けが強くなったようです。 
 
▽「立つ、立たない」3回の現認 
 
 2004年、2005年は私は立川第2中学校にいました。立川第2中学校に2年いて、1年目の3月に1回目の減給6ヶ月の処分になるわけです。その前は調布中学校というところに1年間いました。今年は町田の鶴川2中ですが、1年で追い出すと言われています。1年だけ厄介者を扱ったと校長に言われました。それが初対面の挨拶です。そういう状態ですから、1年毎に替えられるんです。 
 
 家庭科の教員は、2003年度から私はいつも二人体制でした。家庭科の教員は週1時間しかないから一人で十分なんです。ところが二人体制なんです。何かと言うと私には授業を持たせたくないというので、二人授業なんです。 
 
 校長は、当然私が立つか立たないかは、事前に教育委員会に報告をしないといけないんです。私を何月何日に説得した、指導した、根津は立つと言った、立たないと言ったということを逐一報告することになっています。 
 
 私は校長に、卒業式直前ですが、私のことはいいから立つと言ってくれと言ったんです。最終的に前日に、“さざれ 石の”のところまで私は立って、それから座るから、と。教頭が立っているかどうかを各時点で現認するんです。一番最初は「国歌斉唱」の合図の時に立ってるどうかで、「全員ご起立ください」「これから式を始めます」から始まって、二番目のプログラムが「国歌斉唱」ですから、最初は立ってるわけです。そこで私は座るんだけれども、「国歌斉唱」と発声した時に現認する。二回目は歌の真ん中で現認する、三回目は終わりのところで現認するというふうになっているので、一回目現認したら根津は立っていた、二回目現認したらまだ立っていた、三回目は現認したら座っていたけれども、もう終わったので行かなかったというふうにすればいいじゃないかと、申し出たんです。でも真ん中はなるべく早くしてほしい、“さざれ 石の”だったら、少し早めに現認したっていいでしょうというふうに言って、教頭にメモを渡してやったんです。 
 
 私は子どもたちに、ずっとこの問題について話してきたし、君が代強制は反対というTシャツも着て学校に行っていました。それも全て子どもたちに、「何でそんなものを着てるの」という話が出来ますので、材料を提供することをいろいろ考えてやってきました。 
 
 そういう中で、子どもたちに私はもしかしたら、そう言っていても起立してしまうかもしれない。実際にその時にはまだ判断に迷ってましたので、校長のためというよりは、免職も間近かもしれないので、実は迷っていると子供には話をしていました。立ってしまうかも知れない、立ってしまった時には、やはり弱いものだと思ってほしい。それは居直りじゃなくて、本当に私はこんなものだというふうに受け取ってもらっていい。普段言っていることと違うことをやってしまうんだということで、先に謝りたいと生徒たちに謝ったんです。それで卒業式に臨みました。 
 
▽それでも「座る」 
 
 子どもたちとそう話をし、校長とも話をしてあったので、私の中では、しっかり気持ちの整理はつけて卒業式に臨んだつもりでした。しかし、自分の気持ちはそんなに簡単に整理できるものではありませんでした。 
 
 「国歌斉唱」という発声があって、私はすぐにドキドキしてきたんです。子どもたちには謝っている、子どもたちは、結局根津は立ってしまったかというふうに思うだろう、とわかっているんだけども、ものすごいドキドキなんです。何のドキドキか最初はわかりませんでした。心臓が飛び出すかと思いました。目の前は貧血状態で、子供たちは前を向いてるんじゃなくて、90度横を向いて、私のほうを向いてました(笑)。日の丸に正対してるんじゃないです。みんな私のほうに正対してしまっていて、とにかく私はこの状態は我慢ができない、あんなことを言わなければ良かったと後悔しました。 
 
 その時ふっと頭に浮かんだのが、セピア色の写真なんですが、中国大陸で中国の人たちを捕虜として捕まえた、その人たちを少年兵が囲んでいるんです。一人ずつ銃剣を突き刺せというふうに命令されているところが脳裏に浮かんだんです。その写真が私の頭に浮かびました。多分本や映画で見た1シーンだと思うんですが、「お前はどうするんだ」と突きつけられるんです。 
 
 ちょうどその時に、“さざれ 石の”のところまできて座って、良かった突き刺さないでと思ったんです。もうこんなことはやめようと思いました。校長のためというか、校長を殺してはいけないと思ったので、そういう選択をしたんですが、もう金輪際こんなことはやめようと思って、校長にもそのことを話しました。入学式から私は一切立たない、それからはすっきりと自分の気持ちに正直に座るようになったんですが、とてもそのほうが楽でした。 
 
 その時に、今後座るということは停職やその先にある免職もしっかり頭に入れて置かなければと思ったんですが、それをすんなり受け入れることが出来ました。 
 
▽校門前での青空教室 
 
人はいろんな人と繋がっています。戦前・戦中の人たちで、獄に繋がれたり、体を張って闘っていた人たち、私は獄に繋がれているわけではありませんが、処分を受けた私には身近な問題、実際の問題として分かるようになってきました。 
 
 いろいろ解雇されたりして、闘っているの人たちの姿と自分とがダブってくる。八王子には長い間の友達の田中哲朗さんという人がいて、その人は今年で会社を解雇されて25年になるんですが、毎日沖電気の門前に行って、出勤する人たちに彼は歌を作りますので、ギターと歌でみんなに語りかける活動を続けていました。 
 
 私ももし何かあったら、こういうことをしようと思っていたんです。そして停職1ヶ月となった時に、それをやろうと思いました。子ども達から聞かれれば、一番基本的なところで私は何も悪いことをしていない、だから仕事する意思があるから、学校の前までは行く。でも中に入れてくれないからここで留まってるんだと話し、勤務時間の全てをそこにいました。 
 
 一歩一歩自分で足を踏み出すことによって、獲得できることはたくさんあります。あるいは気がつくことがたくさんあります。去年停職1ヶ月で立川2中の門前に立っていた時に、初めは今話した気持ちだけで立っていました。1年間教えた子どもたちですから、何か聞いてきてくれるだろうとは思っていましたが、それはもう本当に青空授業になってしまいました。普段の教室の中での決められた授業というのは、嫌でも行かないといけないわけです。けれど自分たちで聞きたいと思って集まって来ることについては、ものすごい吸収力です。その日、停職になった1日目、校長に職員に私は話がしたいから、朝だけは入れてくれと言ったら校長はOKしたんです。それで朝に職員室に行って、教育委員会の職員も来ていましたが、みんなに停職になった経緯や私がどう思っているかということを、紙にも書いて配り話もそこでしました。 
 
 ですが子どもたちは、私が停職になっていることは知りませんでした。帰りに校門で「何で今日授業に来なかったの」と言うから、「停職になったの」と言い、立看板に停職になったということを書いて脇に立てておきました。 
 
 私の方からは一切子どもたちに話しかけないけれど、子どもから聞いてくれば私は当然話をすると校長には言っておいたんです。そしたら子どもたちは、次から次へと聞いてくる。「教育委員会は何でこんなことをするんだ」というので、「教育委員会は、こう言っているよ。私はこう思うよ」ということを次々に話した。本当にそれは青空教室で、自主学習の場でした。5時で帰ろうと思っても帰してくれないということが、しばらく続きました。1ヶ月間毎日毎日行っていました。子どもたちも毎日校門に寄って話をひとしきりして、3時半頃から5時までの1時間半、十分に話して帰っていきました。 
 
▽わたしだけの「教育実践」 
 
 その時3年生だった一人の生徒が、2学期の終わりごろから私を待って帰るようになったんです。私達職員は5時までいなければいけませんから、その子は3時半に終わって5時まで待つのはとても大変なんですが、待っていて「一緒に帰ろう」と言うんです。 
 
 その子は校門に訪ねてくるので放課後もよく一緒にいるようになったんですが、年明けて1月の最初の日に、「卒業式では、今度は先生座らないで」と言うんです。首になったらいけないから、お願いだから座らないでほしいと言うんです。 
 
 その子はこう言ったんです。「私がこの学校に来て一番良かったのは、先生に会えたことだ。」もし先生が首になっちゃったら先生のように教えてくれる人がいなくなっちゃうから、やめさせられないようにしてほしいと言うんです。その子は、私が1ヶ月間校門前に立ってることによって、人はおかしいと思った時には立ち上がっていいんだということを知った。私もこれからおかしいと思った時には、しっかり立ち上がると言うんです。 
 
 多くの子は、都教委のやり方に非常に腹を立て、何でそんなにひどいことをするんだ、先生がかわいそうと言うんです。何にも先生悪くないのに、何で先生が処分されなければいけないの、というふうに自分のこととしてではなくて、先生がかわいそうということで言います。それは普通の感情だと思います。しかしその子は、自分の問題として、立ち上がることを知ったというんです。実は私は一番そのことを知ってほしいと思いました。 
 
 最初に私が座り始めた時には、私は間違ったことはしていない。だから学校まで来ると申し上げましたが、最初はそうだったんです。しかし、校門に立っている間に、子どもたちがいろいろ私に話しかけていく。あるいは、学校にほとんど来てない子が私のところにきて、そのまま帰っていく。学校の中に入って挨拶だけして帰りなさい、と言っても、もういいよと言って帰ってしまう子もいたり、あるいは卒業生だという子が通りかかって、私と話をしていって、僕も頑張ると言って帰る子もずいぶんいたんです。 
 
 あるいは大人でもいろいろ人生相談みたいなことをしていく人もいました。その時に思ったのは、本当に今、リストラだって何だって当たり前、格差なんて当たり前と言う世の中で、精神疾患を病む人はたくさんいるし、自殺をする人はたくさんいるし…。不当な扱いや人権侵害をされても、自己責任として捉えてしまう。自分が悪いからこうなんだ、というふうにあきらめてしまって、命まで失ってしまう。闘う力にはならない。もしそこで立ち上がるということを知っていたら、こうはならないだろうと、私は1ヶ月間の中で思ったんです。 
 
 今子どもたちに、私がここに座っている本当のところは分からないかもしれない。でも、生徒たちが段々これから社会の波にさらされて、自分が人権侵害の状態に陥った時に、もしかしたら、私のこの状態を思い浮かべてくれるかもしれない。すごいひどい仕打ちを受けても、立ち上がる、抵抗するという人が、あの学校にいたというふうに、思い出してくれたら、もしかしたら病気になったり自殺をするのではなくて、そこを乗り切れる力になれるかもしれない。と思ったんです。 
 
 これは私にしか出来ない教育実践だなと、1ヶ月間の中で思いました。同時にものすごいバッシングはあるだろうということは充分予想しました。しかし、その中でもあえてそれをしようと決意しました。 
 
▽地域に包囲され、そして地域に救われ 
 
 今年は3ヶ月間の間、立川2中にいました。それから今行っている鶴川2中に異動となりました。この間都庁にも週1回は「お礼参り」に行きました。都庁で毎週朝の8時から、チラシをまきながらマイクでいろいろ話をしたんです。都庁では、喜んでチラシを受け取ってくれる人も出るようになりました。今も続けているんですが、年休を取って月に1回、2回はずっと続けようと思っています。 
 
 立川2中に行く時には、とても気持ちも爽やかでした。子どもたちは、去年よりも余計私のことを知ってるわけですから、本当にみんな温かく迎えてくれます。子どもたちの口を通して保護者が私のことを知る。保護者も私に声をかけてくれるようになる人がずいぶん現われました。去年よりも、もっといい状態になっていました。 
 
 だから、やっぱりやってみるとそれは確実に広がるんです。立川2中では、そういういい思いを毎日して、その力を持って、鶴川のほうに臨みました。でも、鶴川はやっぱりすごいです。今もものすごいですけれども…。 
 
 直接私がそこに参加しているわけではありませんが、人から伝わってくる言葉の中で、PTAの会員や学校が呼んだ地域の会員で私のことを問題にする人がいて、あいつに授業を持たせるなとか、あいつを都教委の方に追い返そう、という署名活動をしようとしたことがあったようです。保護者や地域の人たちが学校に集められて、私を都教委のほうにもう一回差し戻して、都教委で何とかしてもらおう、とにかく鶴川2中から追い出してもらおうという「署名」に取り組む提案があって、まとまりかけた土壇場のところで、ある人が、「何でそこにあの人が立っているのか、あなたたちはいったい本人から聞いたのか」と言ってくれたそうです。何であそこに立っているか聞きもしないで、そんなことをするものではないというふうに釘をさしてくれた。そしたら、そういう私を追い出すために署名を集めようと、そういう方向にワーといこうとしたのが、完全に砕けたそうです。 
 
 砕けてもその痕跡はたくさんあって、私が立っていると、ここの保護者だ、ここの地域の者だと言って、こんなとこに立つのはやめてくれというんで、相当いろいろな人が来ました。パトカーが呼ばれたことも何度かありましたし、子どもたちも保護者や地域やいろんなところから、あいつは国歌を否定するやつだとか、愛国心がないだとか、教員として、公務員としてやってはいけないことをやっているという宣伝が、すごくなされました。子どもたちの顔も、日ごとに変わっていきました。 
 
▽停職後、復帰した現場では 
 
 そういう状態で7月、私は学校に戻りました。今私は3年生に所属して、授業は1年生を持っています。2人体制ですから、いつも2人授業です。1年生の授業は私は主にやって、もう1人の人がお手伝いをやる。2、3年生の授業は、もう1人の人が主になって、私がお手伝い、という形です。 
 
 学年が上がれば上がるほど、私に対してものすごい目つきで見る子がたくさんいます。子どもたちは今の社会の中で翻弄されて、それでそんな態度になっているというふうに、分析をしっかりしています。気持ちはいいものではありませんけれど。子どもたちも被害者だと思うし、私が体でさらすことによって、子どもたちは今の社会で何が起こっているのか知ってほしいと思ってますから、そういう題材だと私は自分自身を捉えています。 
 
 ですから何があっても驚きはしません。子どもたちにも、なるべく笑顔をたくさん出して、「おはよう」と言うんですが、しかし子どもは「ふん」と言う顔をします。でも、私に挨拶する子もいます。7月よりも少しは増えましたけれども、何人か固まっている中で1人の子が挨拶をすると、その子は「踏絵を踏まされる」結果になります。私が「おはよう」と言ったら、気持ちを返そうという子もいるわけですが、その子が「ええ、あんたそんなことするの」って顔で見られたり、あるいは直接言われるんです。 
 
 それも子どもたちにとっては、マイナスだけじゃなくて、そういう中で自分自身の少数者に対する気持ちや、憲法を守るということがどういうことなのかということを、具体的に学ぶ場であると思っているんです。 
 
 そういうことをしながら、日の丸・君が代問題が子ども達にもしっかり見える形で私は起立をし、起立をするだけじゃなくて、停職の間もそう考えて行動を心がけています。 
 
▽9・21勝利判決に応えるため 
 
 今日は9・21判決のことにあまり触れられなかったんですが、9・21の判決(国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟の完全勝利判決)は、びっくりするほど嬉しかったです。この判決は主に、公共の福祉に反しない限り、個人の人権は守らなければいけないという憲法19条と13条、そこのところでの判決だと思うんです。 
 
 憲法19条(思想及び良心の自由)は、誰に対しても保障されなければならず、当然、私達教員にも適用されなければいけない。少数者の人権を守らなければいけないというふうに言い、また、10・23通達、都教委の指導については、教員に対し、一方的な理論だとか、観念を教え込むことを強制し、教育基本法10条違反である。だから、憲法19条に違反する職務命令は明白且つ重大な過失瑕疵がある、と言っています。 
 
 私はそこのところを、今後の裁判とか校長とのやり取りの中でしっかり使っていきたいと思います。そして今後は、こういった判決が出てそれを教員全体として卒業式、入学式の時にどうそれに応えるかということが問われてくると思います。 
 
▽組合の役割、議論と行動の場 
 
 いい判決が出た。都教委のやっていることはおかしい。じゃあどうするのかです。私はそれは、はっきりと不起立しかないだろうと思います。これは組合としてやるということになると、またそこのところは非常にもめるだろうと思うんですが、しかし組合の中で方針が出せなくても、私は、教員一人ひとりが出せると思うんです。 
 
 昔、勤評闘争の時に、それぞれが闘争に突入する時に全員が賛成していたかというと、最初は勤評制度については反対だけれども、ストライキに突入するということについては、賛成の方が少なかったわけです。でも教員の間でしっかり学習し、論議する中で、やっぱり突入していこうとなっていったわけで、私はそこのところを学ばなければいけないと思っています。 
 
 この判決が出たことによって、それを無駄にしない。無駄にしたらもうこんな判決出るわけがないですから、出たらそれにしっかり応えなければいけない。組合の中でしっかり論議して、起立、不服従するのにどうしていったらいいか、全員が出来るとは勿論考えませんけれども、でもできる状況の人はたくさんいると思うんです。もう定年まであと何年かの人はできる状態にあるのではないか。 
 
 東京の場合には1回でも処分されると、交通事故での処分では構わないが君が代の処分は再雇用はされません。だから、再雇用されないと生活が困る人はそれは出来ません、60歳過ぎても小さい子どもがいるという人もいますから、あるいは家のことでお金がかかるという人もいるでしょうから、そういう人は別だとしても、多くの人はたいした金額は要らずに生活はできるのではないか。今の水準を保たなければ、食べるだけの生活ぐらいは出来るわけです。 
 
 魂を売らなくて、しっかり教育に責任を持って、ということを考え、それを確信を持って出来るためには、やはり論議が必要だと思います。 
 
 都立高校の人たちが大勢不起立できたのは、やはり9・21判決の予防訴訟を起こした。その時に173人の人が集まった。この人たちはみんなもしかしたら、不起立するかもしれない、という横と横との繋がりがあって、実際には全部がそうなったわけではないんですが、その人たちの半分くらいは不起立した。不起立するだろうという感じをつかんでいたから、みんながそうやって立ち上がることが出来たんです。 
 
 やはり組合は、賃金闘争だけじゃなくて、そういったことが組合員同士で議論し行動できる機関だと思うんです。ですから、東京でもこれから私は、組合の中でそういったことを提起しようと思っていますが、こちらでもそんなことを是非やってもらえたらと思います。東京だけで、どんなに頑張っても、今の石原体制や教育行政を打破することは出来ません。9・21の判決が出て、それをよりどころにしながらも、それこそ全国で不起立闘争、不服従闘争をすることによって、9・21判決も生きてきますし、石原都政にも打撃を与えることが出来ます。そして最終的には教育基本法の改悪を止めることが出来る。万が一教育基本法改悪が通ってしまっても、実際に法律が法律として一人歩きはしますけれども、それを実際的に止めるか止めないかは、私たちの日々の闘いにかかってるわけです。本当に全国から、そういった声を出していただきたいと思います。 
 
▽おねがい一つ 
 
 最後にお願いなんですが、お手元に色が違うビラが入ってると思うんですけれども、「君が代不起立教員たちのレジスタンス」という映像ドキュメンタリーの案内です。 
 
 これは東京の君が代処分攻撃と、その中で闘っている私たちを扱った映画です。ビデオプレスというところで今製作中です。ビデオプレスというのは、この中にはご覧になった方がいらっしゃるかも知れませんが、国労の闘争団の処分攻撃と生活を描いた「人らしく生きよう パート1、パート2」、それから「レールは警告する」という鉄道事故や労務管理問題を報道しているビデオ会社なんですが、その人たちが今、映画を作ってくれています。 
 
 相当長時間の収録をしてくれてるんですが、全く資金はゼロですから、ビデオとかDVDを買っていただいたり、あるいはカンパを寄せていただいたりという中での運営になりますので、是非ご協力いただきたいと思います。最後にぶしつけなお願いしましたけれども、またビデオなんかを使いながら広めていただきたいと思います。 
 
 東京の状況のように、こういう状況になったら、子どもが本当に死んでしまう。全く戦中の「少国民」になってしまうということを、是非是非お伝え願いたいと思います。ありがとうございました。 
 
 
<会場参加者からの発言> 
 
 裁判を凌駕する闘い、運動を 
 大串潤二さん(鉄建公団訴訟原告・兵庫県国労闘争団を守る会事務局) 
 
▽子どもは佐教組の先生に支えられた 
 
 ただ今紹介をうけました国労の闘争団で鉄建公団訴訟の原告団の一人でもあります。根津さんは多分ご存知ないと思いますが、何回か東京でお会いして、都庁の前で早朝宣伝行動にも、1回だけですけれども参加したことがあるんです。 
 
 大変いい話を聞かせていただきました。私の話に触れる前に、教育の問題と言うのは、私も子どもがいますので、当然将来のことを考えれば避けて通れない話だと思ってます。 
 
 私には3人子どもがいます。ある意味環境に恵まれまして、何事もなくまず普通に育って、子どもの教育のこと、育てることで心配することは少しもありませんでした。そのわけは幸いにして、私の家族は3人とも佐賀にいますけれども、先生が佐教組の組合の先生で、私と家族の状況をすごく分って下さった先生だったので、学校でお父さんもお母さんも大変だねと言いながら支えていただいた。ですから、先生が子どもたちに与える影響の大きさというのを、私も肌身をもって感じていますし、そういったことに支えられて、今日があるということを思っています。 
 
▽魂を売ってまで生きたくない 
 
 先ほど根津さんが言われました、魂を売って生きていけるのかという話がありましたけど、私もこの闘いをして、20年になります。1987年の4月には、私がよく言う「ご飯茶碗を叩き落された」、飯の種を奪ったという意味でそんな言い方をするんですけれども、1987年もそうですし、1990年清算事業団から解雇されたことは、まさに飯の茶碗も箸まで叩き落されるという状況でした。 
 
 そういう意味では、1987年JR採用拒否の時点に、国労が変わっていればJRに採用されて一転、飯の種にはありついたかもしれません。 
 
 1990年の清算事業団の時もそうです。でもある意味では私は、根津さんではないですけれども、やっぱり自分たちの信念とか、魂を売ってまで生きながらえる、そんなことしてまで生きていきたくない。それは、JRに採用された人が本当に今幸せなのかということと、解雇された人は全て不幸なのかということかもしれません。 
 
 私は20年間闘ってきて、確かに生活は苦しいですけれども、二度も首切られたことによって、闘っていることに対して不幸だと思ったことは一度もありません。それは先ほど言われた魂を売らず、自分たちがやってきたことが正しいという思いがありましたし、私が解雇された時に、うちの奥さんが言ってくれたことがありました。「お父さん、解雇されて首切られても飢え死にした人はいないよ」。本当そうなんだ。だから、一生懸命闘ってるとか、一生懸命頑張ってる姿を見れば、絶対それを応援してくれる人、一緒にやろうという人が出来るんだというのを、本当にそう思いました。それを私自身がこの20年間の経験の中で得ることが出来ました。 
 
 これはある人を批判する言葉じゃないんですけれども、つい最近のことですけれども、鉄建公団訴訟をやったということで、国労内部はゴタゴタしました。四党合意の話やらいろんな話が出て、その時私は佐賀の闘争団の事業体の中で働いていました。裁判をやったということで、内部で対立関係になって、要するにものも言わない。学校でいじめの構造みたいな感じが闘争団の中であった。勿論、私は闘争団の人と意見は違いますが、彼らを絶対悪いとは言ったことはありません。ただ意見が違うということは言いますけれども。しかし働いていた事業体で、私は残念ながら闘争団の人たちから解雇されました。 
 
 雇用保険をもらいながら、すごい惨めな気分で、どうして闘争団の人から解雇されて雇用保険をもらわなければいけないのかという思いもしましたが、魂を売って、ごめんなさいと言えば、確かに貸付金はくるし、お金はくるんですけれども、ごめんなさいという生き方が、惨めだけじゃなくて、堂々と生きていけるのかということになると、そうはならないだろうと思って、あえて苦しいと分かっていてもそちらの道を選んで今やっています。だから一切後悔したことありませんし、この道はあくまでも私たちの要求を通すために突き進んでいくしかないと思ってます。そういう意味で、根津さんの話は非常によかったです。 
 
▽勝利判決を次に生かせる闘いを 
 
 私は子どもに対して早く結婚してほしい、孫がほしいと思ってるんですけれども、教育基本法が変わる、憲法が変わるという状況になってきている時に、子どもたちや孫に本当に幸せな時代を私たちが残せてあげられるのかという思いで、素直に喜べないでいます。 
 
 そういう意味では、諦めないで言い続けること、闘い続ける事が非常に大事だと思っています。分かっていてあきらめるのは罪だと思います。分かっているならやるしかないと思います。反対意見の人はしょうがないです。でも分かっていてやらないというのは、ある意味罪じゃないかと思っています。分かっているならやり方はゼロはありません、1から100までやり方はあるので、それぞれの立場で、それぞれのやり方で反撃し、抵抗していけばいいんじゃないかと思っています。そういう思いで頑張っていきたいと思っています。 
 
 それと、ご存知のように9・21判決を出した難波孝一裁判長というのは、私たちにとってもすごく因縁深い人なんです。去年の9月15日、彼が鉄建公団訴訟の判決を書きました。今回の判決はすばらしい判決でしたけれども、こんな素晴らしい判決を書くなら1年前にどうして書かなかったのかと、私はそんな思いが今しています。 
 
 だから、やはり闘いが裁判所も変えるということです。私たちの闘いの中身が、難波裁判長に勝利判決を書かせることができなかった。だから、これからの裁判は裁判長がやはり勝利判決を書かざるを得ないような闘いを、私たちがつくっていく、私たちだけの問題ではなくて、根津さんたちの裁判も含めて、本当にそう思います。 
 
 難波裁判長は、去年はものすごく曖昧な判決を書きましたけれども、曖昧な判決を書いたにしても、不当労働行為を認めたという一部そういうのがあります。しかし、私たちの主任弁護士である加藤晋介先生がよく言われます。9・15判決はないと思えと、控訴して次の裁判になったら、その判決はないと思って闘わないとそれがベースになってしまったら、甘えが出てくるから、まずゼロからスタートという気持ちで闘うしかない。勿論勝利判決を武器にすることは、当然必要ですけれども、勝利判決が次の闘いにどう生かせるのかというのをきちんとしていかないと、甘えに繋がるからということをよく言われます。本当にそのとおりだと思います。 
 
 また加藤先生がよく言われます。東京地裁の裁判官は卵だと、高裁になったらひよこになる。最高裁にいって親鳥になる。だから、やはり卵はひよこになりたい、ひよこは親鳥になりたいという思いがあり、だんだんそういうことに裁判官もなってくる、それを凌駕するためには、やはり私たちの運動、闘いしかないんだと。 
 
 私もそういった意味で、教育の問題は子どもたちや、やがて生まれるであろう孫たちのために本当に闘って、お父さんやお母さんたちがこんな世界を作ったんだよと誇れるように、やはりあきらめないで頑張るしかないなという思いで、今後とも頑張ります。どうもありがとうございました。 
(おわり) 


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