2007年08月26日21時57分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200708262157180

原爆と靖国─被害と加害 関千枝子(ノンフィクションライター)

 夏になり、夜明けが早くなるころになると、夢を見る。 
 少女の声が私を呼んでいる。「富永さーん(私の旧姓)」。 
 為数美智子の声だ。まだ夢の中にいながら、私はこれが夢であることを知っている。そして多分、死ぬまでこの声が耳から離れないことも。 
 原爆の生き残りは、自分たちが命を永らえたことを「すまない」という。自分が原爆を落としたわけでもないのにと思いながら、やはり「すまない」という。 
 私は当時広島県立第二高等女学校二年生。クラスは、爆心地から一キロ強の雑魚場町(市役所裏)の疎開地後片付け作業に行き、被爆、全滅した。たまたまこの朝下痢をした私は欠席して助かり、迎えに来てくれた仲良しの美智子は死んだ。 
 皆は私に「運のいい子だ」と言った。だが、それを、素直に喜べなかった。「私はたしかに運がよかったのかもしれない。でも、美智子は、クラスメートたちは、そして、二十万という原爆の死者たちは皆、運が悪かったのか」。 
 八月十五日。この日、重大放送があることは既に知らされていた。ラジオは聞き取りにくかったが、戦争に負けたことはわかった。呆然とした。 
 八月六日からの九日間、恐怖と驚愕の中にいた。何人かの友は学校に帰ってきたが、火傷で顔は腫れあがり、どろどろに焼けた腕から皮膚が垂れ下がり、幽鬼のような姿だった。親が見ても誰か分からないようなひどい火傷。十二、三歳の子どもがこんなむごい死に方をしていいのか。絶望的な思いだったが、それでも私は、日本が負けるとは思わなかった。日本は必ず神風が吹いて勝つと教えられていたからだ。 
 私は学校に向かった。ほかに行くところを思いつかなかった。けが人の収容室になっていた物理室には、山県幸子だけが生き残っていた。幸子も、火傷で顔はたらいのように腫れ、大きな眼が特徴だったのに、わずかに開いた目は糸のようだった。腕の火傷にハエが卵をうみつけ、いくらウジをとっても追いつかず、幸子が手を振り回す度にウジが部屋中に散乱した。ハエは大群となり、白い壁が真っ黒に見えた。幸子の家族は遠くに疎開して 
いて、まだ母が到着せず、「母ちゃんが来るまで死ねん」と彼女はがんばっていた。 
 幸子は私の顔を見るとうれしそうに言った。「もう大丈夫じゃ。日本もあんとな(あんな)爆弾をつくったんと。今度はアメリカをやっつけるんじゃ」。私は言葉も出なかった。日本は神国だから必ず勝つといいつづけてきた国の「嘘」を直感した。 
 その夜も忘れられないことが起きた。静まり返った暗い町に遠くの方から異様な大きな音が聞こえた。それが朝鮮人たちの笑い声と知った時の驚き。なぜ朝鮮人が日本の敗戦を喜ぶのか。朝鮮人も天皇の赤子となって喜んでいると教わっていたのに。ここにも「嘘」がある。この時の衝撃が私の戦後の原点だと思う。 
 
▽「戦争放棄」に感動する 
 
 学校が再開したのは十一月五日だった。私達二年生は一クラスが死んで他学年の半分しかいなかった。一年生は、広島駅の近くの東練兵場で畑作りの作業中に被爆し、全員が生まれもつかぬケロイドを体に残していた。校舎は原爆でくの字型に曲がっていたが、九月の台風で倒壊した。校庭に散乱しているガラス拾いから再開の学校は始まった。被害者の心の傷だのトラウマだのと言う言葉はまだなかった。みな、耐えていた。 
 こんな話をすると「あなた方は暗い学校生活を送ったのですね」と同情されることがあるが、実は戦後の学校は楽しく、笑いが絶えず、夕方学校から帰るのが惜しいくらいだった。文化やスポーツがよみがえり、戦中のつまらない規則は消えた。初めて知る民主主義はまぶしいくらいだった。何より平和で、死ぬ心配がないのはすばらしいことだった。新憲法のことを聞いた授業。「戦争放棄」の言葉に感動した。平和の日を一日も知らず死んだ友のことを残念に思った。 
 だが、私たちは原爆のことをあまり語らなかった。追悼会もあり慰霊祭もしたが、原爆のことを詳しく話しあったことは少ない。誰もが原爆で辛い思いをしていた。身内をなくし、家を焼かれ、或いは病気やケロイドの後遺症。わかっているではないか。そっとしておいて何も聞かないのが思いやりと皆が思っていた。 
 私が全滅したクラスメートのことを本格的に調べて書こうと思ったのは被爆後三十年たってだった。 
 私は被爆を隠そうと思ったことは一度もない。大学に入った時から東京暮らしだが、大学でも職場でも原爆にあったことを言い、体験を雑文に書いている。私は三キロの屋内被爆者であり、爆心に入ったのは十月になってから。まず原爆症にならないと思っていたので堂々と語ったのかもしれない。しかし、原爆で死んだ友のことを本格的に書くまでには時間を要した。三十年たって、ようやく、事実を詳しく聞き、記録に残そうと思った。それがかえって、死者への供養になると思うようになったのだ。そして、それが、生き残った者のつとめではないかと。「すまない」という思いを前向きに変えるには、事実を語り、書き、歴史の証言にしなければいけないのだと。調べ始め、多くの遺族がすでに亡くなっているのに、遅かったと思うことも度々だった。が、それ以上に、今まで身内にも話したことがない、今だから言えると、重い口を開いてくださる方の多さに驚いた。戦争で、無防備で惨禍にあった人々が、喜んで話さず、沈黙を守っていることを改めて痛感した。そして、悲しみは深く、けして癒されていないことも。原爆が人類の最大の凶悪兵器であり、人類と共存できないものであることこと。原爆の死者の魂を鎮めるのは、核兵器を廃絶することしかないと痛感した。 
 この取材の途中で、私はクラスメートをはじめ、疎開地後片付け作業に従事していた広島の少年少女たちが、靖国神社に合祀されていることを知り仰天した。一九五三年の軍人恩給の復活に伴い、一九五六年頃から少年少女たちの親たちが運動を始めたのである。子どもたちはお国のために作業に行き死んだのだからと陳情、準軍属として弔慰金と遺族年金を獲得し、六三年靖国神社にも合祀された。私は長く広島に住んでいなかったのでこのことを知らなかったが、広島では「最年少の英霊」として新聞でも大きく報じられ、誰でも知っていることのようだった(靖国神社はその後沖縄の対馬丸の子どもたちなどを合祀したので“最年少”は、まもなくそちらに譲ることになるが、当時、十二、三歳の少年少女はまぎれもなく最年少だった)。 
 なぜ、靖国神社? 靖国神社は「戦の神」である。戦前、私達は戦争に勝つことで国は栄え、民は守られると教えられていた。命を惜しんではならない。男は戦場に行き、命は鴻毛より軽いものと思い勇敢に戦う。女は夫や息子を喜んでさしだし、戦死の報に泣いてもいけないといわれた。戦中、戦死の報は「おめでとうございます」という言葉と共に届けられた。靖国神社に神として祀られ国の守護神となり、「英霊」と讃えられた。 
 だが、戦争は国を守らず、不幸にした。沖縄でも旧満州でも軍隊は民を守るどころか見殺しにした。だからこそ、日本は、戦争を放棄したではないか。なぜ原爆の犠牲者が英霊として祀られるのか。戦後、靖国神社は国の神社ではなく、一宗教法人になっていたが、相変わらず「戦の神」であり、戦死者を讃え、少しも性格を変えていないことも知った。 
 しかも、これは他人事ではなかった。私があの日学校を休むという奇跡がなかったら、私は、まちがいなく死んでいる。靖国神社の神になっている。それでいいのか。私は「嫌だ」と思った。 
 
▽「お国のため」とは何? 
 
 だが、多くの遺族の方々は靖国神社の合祀を素直に喜んでいた。「これでお国のために死んだと認められた。犬死ではなくなる」。原爆を憎み、戦争はもうこりごりと言いながら、靖国合祀を喜んでいる。私は混乱した。あの戦争で死ぬことが“お国のため”だったという。では「お国」とは何だろう? 
 戦争末期、「一億玉砕して国を守る」と言われた。国民全部玉砕してしまって、何を守るのだろう。国土?いや、国土はあの原爆でも沈没しなかった。国破れて山河ありと昔からいうではないか。私達が守れといわれた「お国」は、多分「國體」(これは旧漢字でないとピンと来ない。国体では国民体育大会のようだから)だと気づいた。大日本帝国憲法で、神聖にして侵すべからずとされた万世一系の天皇のしろしめす<国がら>のことだ。国民全部が死んでも(こんなことは実際にはありえないが)守らなければならないのが、國體で、これが守られる保障がないとポツダム宣言受諾が遅れ、結果として、広島、長崎、そして戦争末期の各地の空襲を招き、多くの人命が失われたのだ。 
 考えてみると私は、学校で現代史を習った覚えはないが、相当早くからあの戦争の事実を認識するようになっていた。それはあの、敗戦の夜の朝鮮人の笑い声に、なぜ?と私が衝撃をうけたことに始まっている。 
 大東亜共栄圏という言葉に酔い、アジア解放のための聖戦と思っていたが、日本が、朝鮮や台湾を植民地にしていること矛盾にまったく気づかなかった。アジアの人々のあの戦争に対する怒りを日本人はあまりにも無神経なことにも気づいた。戦後、アメリカに無謀な戦争をしかけたことばかりが「反省」され、その前の中国との戦争のことが忘れられてしまったような日本人が多い。日中戦争のきっかけになった盧溝橋事件,偶発的な発砲事件といわれるが、なぜ中国の国土で日本軍が演習をしていたのか。中国の国土で十五年も戦ったということ、これが侵略でないとどうして言えるのか。 
 女性も、子どもも、歓呼の声で兵を送り出し、工場や作業で必死で「銃後」を護った。あれも「お国のため」だったのか。侵略戦争の支えではないか。そんなことを言っても、「あの時はあの時。私達は純粋、一生懸命だった」という声が帰って来るのが常だった。 
 原爆という、人類最悪の惨禍となり、その原爆の犠牲者が戦争推進の神社の神となり、しかもそれを喜び、ありがたいと思っている。 
 遺族の心情に、私の心は揺れ動いたが、私は結局、原爆の犠牲者が靖国の神にされたことへの疑問を本に書かざるをえなかった。(『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』=筑摩書房=初版一九八五年、現在、ちくま文庫)。 
 クラスメートの遺族からは異議は来なかったが、ほかの学校の遺族から抗議されたことがある。「靖国神社に合祀して頂いたから、恩給も貰えたのだ」。それを靖国にたてつくなんて、というようなことだった。思わず「それは逆ですよ」と言ってしまった。 
 「政教分離」の原則が憲法にある。本を出したころは、この大切さがまだよくわかっておらず、本にはこのことを書いていないが、この後私は政教分離のことを深く考えるようになった。 
 日本国憲法第20条の3項に、<国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない>とある。 
 広島の遺族たちが少年少女たちの恩給支給の運動を始めたとき、最初から、厚生省、靖国神社の宮司と靖国神社の中で会議をし、恩給と合祀を相談している。遺族たちは懸命に犠牲者の名簿を整え、厚生省に提出し、厚生省が靖国神社に名簿を提供して合祀が実現したのである。靖国神社は戦後、一宗教法人になっている。これは、完全に20条3項違反である。実は、戦後の戦死者たちの靖国合祀は厚生省がむしろ熱心に推進しているようで、これは先頃、国立国会図書館が発表した「新編 靖国神社問題資料集」で明らかである。厚生省は、はじめから憲法20条など、気にもしていなかったようだ。もちろん、庶民は20条など知らない。靖国は戦前から変わらぬ国の神社でありつづけた。原爆で犠牲になった少年少女の国家による補償を要求した「広島県動員学徒等犠牲者の会」の出版物には堂々と、厚生省、靖国神社との三者協議が堂々と書いてある。憲法違反だなど、想像だにしなかったのだ。 
 実を言うと私も、憲法に政教分離の原則のあることさえ知らなかった。学校で習った憲法の話は「戦争放棄」と「象徴天皇」だけだった。20条など聞いたこともなかった。 
 だが、私は自分があの戦争をなぜ無邪気に聖戦と信じたかと考えたとき、政教分離がいかに大切なことかが分かってきたのだ。 
 
▽なぜ私たちは聖戦を信じたか 
 
 戦前、天皇は、万世一系・神の子孫でこの国の統治権を神から受けた現人神であると教えられた。神のなさることに間違いなどあるはずがない。日本は尊い「神の国」、特別な国であった。戦前の大日本帝国憲法にも信仰の自由は一応書いてあるが、国家神道は宗教以上の「道徳」とされており、絶対のものであった。ほかの宗教の信者も神社の前を通れば礼をしなければならないと教えられ、東方遙拝が強制された。祭政一致の戦前の日本で、国家神道は戦前の軍国主義日本の背骨であり、靖国神社は、すべての日本の戦争を絶対正義とみせ、忠勇無双の兵士を讃える根幹装置であった。戦死という肉親にとって耐えがたい事態も、国が神さまと讃えてくださることで、名誉に変えてしまう。国家神道の恐ろしさ。だからこそ、日本国憲法は厳しく政教分離を定めたのであり、憲法九条の平和主義と裏表の関係にあると私は思う。 
 しかし、なんでも有り難いものは拝んでおけの日本人の心は、戦後も国家神道のことがよくわからないまま、政教分離は、極めて理解しにくいもののようだ。 
 小泉前首相の靖国参拝は明らかな20条違反である。憲法を守ろうとしない行政の長は許せない。私は小泉・石原靖国意見訴訟の原告となった。これは犠牲者なのに侵略の神社の神にさせられてしまった、私の友たちの代弁であると思っており、私の平和運動なのである。小泉前首相の靖国参拝で靖国は世の注目を集めるようになった。しかし、ことは、しつこく言う中国、韓国との外交問題のようにされ、或いはA級戦犯の問題に矮小化されようとしているのは残念なことだ。 
 加害の問題に深くかかわりながら、私は原爆の実相を、戦争を知らない若い人達に伝えたいと懸命になっている。昔、盛んだったヒロシマ修学旅行が激減し、原爆を語れる機会が少なくなっていることにヤキモキしながら。ヒロシマ修学旅行熱心なある高校の教師が言った「原爆は戦争の惨禍の最たるもの。被害のことをとことん知ることで、戦争の本質、命の大切さを知り、加害のことも分かってくるのではないか」という言葉を今、心にかみしめている。 
 戦前も私たちは軍人などから戦争の体験を聞くことがあった。が、それはいかにたくさんの敵兵を殺したかという自慢話で、私たちはその敵兵にも家族がいることも、戦場になった土地の人がどんな苦しみをなめたかも想像もすることもできなかった。惨禍にあい、悲しみのどん底におりて、私たちは他者の苦しみ、加害の罪もわかったのだ。そして、戦争は民の幸せを破壊する絶対の悪であることも。惨禍の中からつかみとった絶対平和の理念、憲法九条を絶対に手放すことは絶対許されない。 
         (「軍縮問題資料」07年9月号から転載) 
* 関千枝子 
1932年生まれ。毎日新聞記者を経て全国婦人新聞記者・編集長などを歴任。 
著書に『広島第二県女西組─原爆で死んだ級友達』(筑摩書房)、『図書館の誕生─日野市立図書館の二十年』(日本図書館協会)など。『広島第二県女西組』で日本エッセイスト倶楽部賞受賞 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。