2007年09月27日17時23分掲載  無料記事
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ビルマ(ミャンマー)でいま何が起こっているのか? シュエバ(田辺寿夫)

国際社会も注目をしているビルマの動きは今後どう推移するのだろうか? 26日には当局の実力行使によって僧侶を含む4人の死者が出たと伝えられた。流血の事態が始まってしまった。緊張は高まっている。反政府デモを取材したとして26日に国外退去を命じられた東京新聞の平田浩二記者はその日のデモに加わった35歳の男性の肉声を27日付の朝刊で紹介している。この男性は1988年の民主化闘争に参加し、その後日本で働いた経験もあるという。「軍政打倒の千載一隅のチャンス。この機会を逃したら、また暗黒の日々が続くだけだ」この男性のおもいは多くの国民に共通のものであろう。 
 
▽僧侶たちのデモ行進 
 
 2007年9月、まもなく雨季が終わろうとしているビルマでは珍しいことが起こっている。連日、僧侶たちがヤンゴンの大通りを粛々と行進をしている。僧侶たちはプラカードを掲げるわけでもなく、スローガンを叫んだりもしない。ときに経を読む程度である。しかしこのデモは8月15日に石油、ガソリン、天然ガスなど燃料の価格をいきなり2倍から5倍に引き上げた軍事政権への抗議であり、困窮の度を加えた庶民生活を見るに見かねて僧侶たちが立ち上がったのである。国民は僧侶に感謝している。24日には僧侶のデモは途中から参加した一般市民を含めて10万人規模にまで膨れ上がった。現地から送られてきた映像を見ると隊列を組んで歩く僧侶たちの両側には手をつなぎあって僧侶たちを守り、妨害行為を防ごうとする国民の姿が見える。 
 
 9月22日、僧侶たちのデモの隊列はアウンサンスーチー宅へやってきた。2003年5月30日、多くの国民民主連盟(NLD)党員が当局の意を受けた御用団体・連邦団結発展協会(USDA)の襲撃によって虐殺されたディベイン事件の日から自宅軟禁を科されているNLD書記長アウンサンスーチーは門のところまで姿をあらわし、両手を合わせて僧侶に向かって祈りを捧げた。4年4ヶ月ぶりに人々の前に出てきた彼女の姿を誰かが携帯電話を使って撮影し、その写真はロイター通信によって全世界に配信された。 
 
 上座部仏教の僧侶は「人」ではない。仏(パヤー)とみなされる。政治には本来かかわらない。選挙権・被選挙権もない。僧侶5000人のデモという表現もビルマ語としては間違っている。「人」という助数詞は使えない。しかし僧侶は都市でも、農村でも庶民の生活と密接なかかわりを持っている。庶民の喜捨や布施を受けて修行している。結婚式、誕生日、法事、男児の得度など人々の生活のなかで僧侶がその役割を果たす機会は多い。庶民の僧侶への信頼は篤い。僧侶も人々の生活をよく知っている。僧侶たちが立ち上がったのは、9月6日に中部ビルマのパコックで政府当局と僧侶のあいだでいさかいがあったことが直接のきっかけであるとされるが、ダガー(檀家。信者)たちの苦しみを見ていられないとのおもいが僧侶たちにはあったはずである。さらに1988年の民主化闘争において、民衆の側に立つ僧侶らは青年僧侶連盟(ABYMU)に結集し運動に加わった。この団体は現在もビルマ国内で勢力を持ち続けているとされる。軍事政権にまっさきに抗議の声をあげたのはこうした僧侶であったであったと考えられる。 
 
 そして今、民主化運動のシンボルであるアウンサンスーチーと僧侶たちは対面した。僧侶のまわりには多くの国民がいる。僧侶のデモは明らかに反軍事政権の色彩を帯び、政治運動へと広がっていった。 
 
▽88世代学生グループ 
 
 突然の燃料費値上げに抗議する動きは8月19日に始まったとされる。この日、元NLD副議長ウー・チーマウンの3周忌に88年民主化闘争の学生指導者ミンコウナインも出席した。その帰り、彼は「バス代もタクシー代も値上がりしてしまった。俺たちにはとても払えない。歩いて帰ろうぜ」と仲間を誘いスタスタと歩き出した。路上で加わる人も出てきた。これが値上げに抗議する「歩きデモ」の嚆矢とされている。 
 
 ミンコウナインの名は、Min(王=独裁者ネウィン)Ko(〜に)Naing(勝つ)という印象的な活動名とともに人々に記憶されている。1988年8月に結成された全ビルマ学生連盟(バカタ。ABFSU)の委員長である。「反政府活動」のゆえに逮捕され、1989年3月から2004年11月まで15年の牢獄生活に耐えた。ミンコウナインの名がふたたび登場したのは2006年9月にほかの元学生指導者4人とともに再度拘束されてからである。この時、「88世代学生グループ」を名乗る活動家たちが、ミンコウナインらを含めた政治囚釈放嘆願署名運動を展開し、厳しい軍事政権の監視の下、3週間でおよそ50万人の署名を集めた。集まった署名の数の多さ、それを後押しする国際世論に気兼ねをしたのか、軍事政権は国連安保理でビルマ問題決議案が採択される直前の2007年1月11日に彼らを釈放した。 
 
 2007年5月27日、17年前のこの日、NLDが総選挙で大勝をした記念日に、ミンコウナインはヤンゴンのNLD本部前でNLD党員の前で力強い演説を行なった。88世代学生グループとNLD党員たちはシュエダゴン・パゴダへ参拝して、政治囚の健康と早期の釈放を祈ろうとしたがUSDAを動員した当局側の妨害でパゴダへは入れなかった。「引き返そうぜ。どこで祈ろうと気持ちは通じるさ」。声をかけたのはミンコウナインだった。そして本部前で1000人もの群集にミンコウナインは話しかけた。軍事政権を直接弾劾する言葉はなかった。しかし、それぞれが努力をしてゆけばすばらしい国を作ることはできる、世界に恥じないビルマを実現しようと彼は熱っぽく語った。聴衆は盛り上がった。ミンコウナインと周りを固める88世代学生グループの面々、そして集まった人々の多くがアウンサンスーチーの似顔絵とFree Aung San Suu Kyi! のスローガンが赤く染め抜かれた揃いのTシャツを着ていたのが印象的だった。 
 
 そして8月、燃料費値上げに抗議するデモの口火を切ったミンコウナインはほかの活動家たちとともに8月下旬にまた拘束された。代わりに僧侶たちが立ち上がった。僧侶たち自身が政治的要求を直接掲げないにせよ、僧侶の行動を見守る民衆はこの動きが政治囚の解放、民主化の実現につながることを期待している。 
 
▽情報はすばやく伝わる 
 
 僧侶と市民10万人もが街頭デモを繰り広げる事態に1988年の民主化闘争を思い起こす人が多い。様相は似てきている。しかし、19年を経た状況の違いは今後の動きにも影響をおよぼすと考えざるを得ない。まず情報の伝播は以前と比べて格段に早くなり、質量ともに充実してきた。ヤンゴンの路上を燃料費値上げに抗議して88世代学生グループや市民たちが歩き始めたときから、その様子が、インターネットを通じてその日のうちに写真あるいは動画入りで全世界に届いた。それをまた国外の報道機関が国内へ打ち返す。1988年ビルマ語短波ラジオ放送としてBBCとVOAがあったが、今はDVB(民主ビルマの声)やRFA(ラジオ・フリーアジア)が加わっている。これらは放送を聞き逃してもインターネットでアクセスできる。 
 
 さらに1988年以降に国外へ脱出した民主化活動家たちの作る組織が、それぞれに国内ルートを持ち、きめ細かい情報をやはりインターネットを駆使して伝えている。こうしたネットワークを通してヤンゴン、マンダレー、モーラミャイン、バゴーなどの大都市ばかりか、ラカイン州やカチン州、シャン州などの地方都市での動きまで網羅されることになる。それがまた国内に向けて伝えられ、「そうか、あの町でもやってるんだ。よし、俺たちも」と報道統制下のビルマの民衆を力づけることになる。 
 
 こうした情報の伝播のすばやさはまた軍事政権の対応にもかかわってくる。8月中旬以降、西側諸国はビルマの動きに注目している。1988年のように力で容赦なく弾圧を加えればただちに非難を浴びるだろう。すでに各国からは軍事政権によるデモ武力鎮圧を懸念する声が相次いでいる。2007年1月には中国とロシアの拒否権によって否決されたビルマに政治囚釈放、人権尊重、民主化促進を迫る決議案をふたたび安保理にかけようとする動きにつながりかねない。軍事政権はすでに燃料費値上げに抗議するデモを裏からNLDがあおっているとして非難声明を出している。デモに加わる僧侶に対しても、僧侶の本分を逸脱するような行為は取り締まると警告を発している。ただ今のところ実力行使は控えている。だからといって軍事政権がこのまま手をこまねいて僧侶と民衆のデモの広がりを見ているとは考えられない。かつて2003年5月、ディベイン襲撃事件の際にはUSDAのメンバーに僧衣を着せて殴りこませた軍事政権である。今回もすでにデモをする僧侶の隊列に「偽僧侶」を潜り込ませ、仲間割れや暴力行為をあおって取り締まりの口実にしようとしているとの情報も流れている。 
 
▽政治的解決はあるのか? 
 
 国際社会も注目をしているビルマの動きは今後どう推移するのだろうか? 警告はしても手出しは控えていた軍事政権は25日深夜夜間外出禁止令を出し、取締りの姿勢を示した。26日には当局の実力行使によって僧侶を含む4人の死者が出たと伝えられた。流血の事態が始まってしまった。緊張は高まっている。 
 
 この事態はなんらかの合意あるいは妥協によって収束できるのだろうか? 第一に軍事政権の出方がかぎを握る。国際社会の批判もものかは反対勢力を実力で弾圧する姿勢を崩さないとするなら事態は1988年の再現となる。民主化勢力の側にも課題はある。燃料費値上げによって、たまりにたまっていた軍事政権への国民の不満は一挙に噴出した。おさまる気配はない。反政府デモを取材したとして26日に国外退去を命じられた東京新聞の平田浩二記者はその日のデモに加わった35歳の男性の肉声を27日付の朝刊で紹介している。この男性は1988年の民主化闘争に参加し、その後日本で働いた経験もあるという。 
 
 「軍政打倒の千載一隅のチャンス。この機会を逃したら、また暗黒の日々が続くだけだ」 
 
 この男性のおもいは多くの国民に共通のものであろう。となると当局が実力でデモを押さえつけようとしても勢いを止めることはできまい。流血の事態が拡大し犠牲者が増える恐れはある。国民の不満を汲み取ってここまで行動の先頭に立ってきた僧侶たちは軍事政権と政治的な交渉をする立場にない。国民の声をうしろに軍事政権と対峙する組織が必要である。その役割を担うのは1990年総選挙で国民の圧倒的支持を得たNLDであり、そのNLDと連携する88世代学生グループ、さらには各地で声をあげはじめた少数民族勢力である。別々にはではなく、まとまった組織として国民の声をくみあげ、軍事政権にぶっつけてゆく必要がある。 
 
 民主化勢力も1988年民主化闘争の教訓を学ばなければなるまい。それまで26年間つづいた軍事独裁政権の下では、官製の組織以外は、政党であれ、労働組合であれ、学生連盟であれ、結成すら許されなかった。1988年の闘争の盛り上がりの時期にも、こうした組織活動の経験のなさがさまざまな混乱をよんだ。それが当局の介入、鎮圧を許した一因でもある。今度は失敗は許されない。情報の伝達はすばやく、国際社会の監視も厳しくなっている。しかし、肝心なのは国内のたたかいである。国民の素直なおもいが、あらゆる妨害をはねのけて実現するよう願わざるを得ない。 
 
*本稿は「ビルマ市民フォーラム」からの配信です。 
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