2008年02月09日16時40分掲載  無料記事
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利休の「簡素の精神」を生かす時 グローバル化時代と日本文化 安原和雄    

  昨今のグローバル(世界)化の流れの推進者の一翼を担うのか、それとは異質の新しい流れをつくっていくのか、大きな分岐点に立たされている。前者は国境を越えた世界的な市場原理を進める米国主導の新自由主義路線を意味する。この貪欲な路線に抗して、もうひとつの道として日本文化のシンボルともいうべき茶の湯の創始者、千利休の「簡素の精神」を据え直してみてはどうだろうか。 
 新自由主義路線は軍事力重視主義と抱き合わせで世界に戦乱、貧富の格差拡大、環境破壊など殺戮、混乱、破壊をもたらしている。しかも多様な文化までも壊しつつある。これが新自由主義的なグローバル化の実態である。もはやそこに未来への希望を託すことはできない。これとは異質の日本文化のキーワード、「簡素」をどう生かしていくかを模索するときではないか。 
 
▽問題提起、「地球(グローバル)時代の茶の湯」について 
 
 最近読んで刺激を受けた著作として、樫崎櫻舟(注1)著『利休ゆかりの茶室 獨楽庵物語』(講談社、07年刊)を挙げたい。著者は最終章で「地球時代(グローバル)の茶の湯」というテーマで問題提起をしている点に注目したい。 
(注1)著者は、著作に登場する「獨楽庵」にも深くかかわっている。泉三郎のペンネームで著述活動を行っており、『堂々たる日本人』(詳伝社)、『岩倉使節団という冒険』(文藝春秋社)、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』(慶応義塾大学出版会)の制作などがある。 
 
 著者は岡倉天心(注2)の『茶の本』(1906年)を踏まえて、「茶の湯の精神は近代西欧文明のアンチテーゼ」として高く評価している。これは茶の湯の精神を「新自由主義的なグローバル化」とは異質の「もう一つのグローバル化」の核にできないかという問題提起と私(安原)は受け止めたい。 
 (注2)岡倉天心(おかくらてんしん・1862〜1913年) 
 1890年東京美術学校(東京芸大の前身)校長になり、狩野芳崖、橋本雅邦らを民間から引き抜いて教授にした。98年反岡倉運動が起こって職を辞し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を創設した。1904年米国に渡り、05年ボストン美術館東洋部長となった。その頃、英文で書いた『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶の本』は欧米人の東洋への眼を開かせるのに貢献した。明治特有のスケールの大きい豪快な人物、という評価がある。 
 なお進藤榮一・筑波大名誉教授(国際アジア共同学会代表)は朝日新聞(08年1月21日付「私の視点」)で「東アジア共同体 岡倉天心てがかりに考察」と題して岡倉天心を論じている。 
 
著者の問題提起の骨子を以下に述べる。 
 『茶の本』は日本文化を知らない米国人に説明するために書かれたものだけに、100年後すっかり米国人のようになってしまった戦後世代の日本人にとっては非常に分かりやすく、皮肉なことにいまや日本の文化や美学を知る上で貴重な教材になっている。 
 
 近代の西洋文明が「もっと豊かに、もっと便利に」を合い言葉に、地球全体に拡散し経済の成長や技術の進歩に明け暮れて、生きることも忘れている今日の状況にあって、天心の『茶の本』はそのアンチテーゼとしてむしろその意義を再評価されている。 
 新訳を出した東京女子大の大久保喬樹氏は、はしがきで、こう述べている。 
 「天心ははるかに広い視野 ― さまざまな文明から成り立つ世界全体および数千年に及ぶ歴史の流れの全体を見据えた視野から大局的な物の見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西洋化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋思想に還ることが不可欠だとみなした」 
 
 近代文明は、その鬼子ともいうべき核兵器やクローン動物を産む事態にまで達した。そして進歩信仰と経済信仰は拝金主義、精神の空洞化、モラルの退廃、また過剰消費と過剰生産を生み、資源浪費と環境破壊を地球規模で起こしている。 
 茶の湯は、過不足なき生活、ほどほどの暮らし、足るを知る、ゆったりと生活をエンジョイする哲学を秘めている。量より質を、物より心、生き方を、形より美を大事にする思想である。つまりそれは最適循環文明を目指すものであるともいえる。 
 現代の文明は、それに反して貪欲収奪文明であり、競争至上文明、拝金主義文明であり、人々は物と情報の洪水のなかで溺れ、本来の面目、生きることを見失ってしまっている。 
 
 こう見てくれば、茶の湯には現代文明の毒素を中和できる薬効があるように思う。人間の本当の幸福とは何か、生き甲斐とは何か、人生にとって一番大事なものは何かを気づかせてくれる何ものかがここにある。 
 それは天心が説くように、日本古来の自然信仰、そして中国やインドから道教、仏教、儒教を取り入れて融合したイザヤ・ベンダサンいうところの「日本教」の思想にある。それは自然を克服し征服する西洋の哲学でなく、自然の摂理にしたがう謙虚な思想であり、日々の生活を大事にする哲学である。 
 
▽成長主義から脱却し、「侘びの精神」発信を 
 
 1992年6月ブラジルで開かれた第一回国連環境開発会議(地球サミット)を控えて、私(安原)は「千利休の精神に返れ―エコノミーとエコロジー」(朝日新聞1991年11月9日付夕刊「ウイークエンド経済ぜみなーる」に掲載)と題する一文を寄稿した。その趣旨を以下に紹介する。 
 
 文明を見直す一つの視点として日本文化を据えてみてはどうか。そのシンボルとして侘(わ)び茶の創始者、千利休(1522〜1591年)の精神に返って、真のゆたかさとは何かを考え直してみるのはどうか。利休が目指した侘び茶の理想的境地を風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードで表現することに異論はあるまい。いずれも今日の文明的暮らしから久しく遠ざかっているイメージであり、境地である。 
 岡倉天心は『茶の本』で「(人は)高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲する」と指摘している。明治の末期にすでに今日的状況をみごとに言い当てているその先見性には教えられるところが多い。 
 
 キーワードとしてあげた利休の精神を今日生かすとは具体的に何を指しているのか。 
 まず「利休」という号には利益に走ることを止めるという意味が込められている。企業の利益第一主義と環境破壊とが裏腹の関係にあるとすれば、企業は環境保全型を目指す以上、なによりも利益第一主義への反省が先決である。 
 それ以上に消費者一人ひとりのライフスタイルの転換こそ重視したい。なぜなら消費者の意識改革のないところに企業行動の変革もあまり期待できないからである。過剰消費がもはや許容されないとすれば、わたしたち一人ひとりが今様利休の気分になって暮らしてみるのも風流というものではないか。 
 
 たとえば美しい自然、清浄な空気、静寂な空間を取り戻すには、できるだけ自動車から降りて歩いてみる努力を重ねたい。このことは便利さを追求することだけが真のゆたかさなのか、また車に乗ることに慣れすぎて、足腰を弱くし、寝たきりの予備軍になることが幸せなのかを問いかけずにはおかない。 
たとえば自然の美しさ、四季折々の変化の素晴らしさ、つまり季節感に鈍感になって、夏の季節の品であるトマトやキュウリを一年中、食卓に飾ることが豊かなのか、大量生産ー過剰消費の当然の結果であるゴミの山に埋もれて暮らすことが本当にゆたかなのかを問うてみることにほかならない。 
 
いまどき「千利休の精神に返れ」という主張は、近代以前の貧しい暗黒の世界へ逆戻りせよといいたいのか、という反論が出てくるかもしれない。それに対しては「侘びは貧乏趣味ではない。王者の楽園にも等しい。真の富者、心の富者に到達しうる」(桑田忠親著『千利休』)という言葉を紹介しておく。 
 むろん大量生産―過剰消費の構造転換を図ることは、GNP(国民総生産)信仰つまり成長第一主義からの脱却を求める。それはモノやサービスの量的増加ではなく、質的充実こそ真のゆたかさとみる発想への転換を意味する。 
 
 日本文化の原点ともいえる侘びの精神を工業文明の見直しと環境保全の新しい視点として外へ向かって打ち出してみてはどうだろうか。侘び茶への関心は最近、欧米でも高まってきている。利休の精神を一つの今日的思想として提起すれば、国際的にも受け入れられる素地はあるのではないか。 
 
▽「日本文化の華・簡素」の旗を― 洞爺湖サミットを機に 
 
 以上のような10数年も昔の拙文を持ち出したのはほかでもない。「茶の湯」を論じるからには、侘び茶の創始者、千利休に触れないわけにはいかないからである。仮に今、千利休が健在であれば、昨今のグローバル化の潮流にどういう対応をみせるだろうか。これは想像力をかき立てるに十分なテーマというべきである。1991年の拙論以降の世界や日本の激動を考慮に入れれば、拙文の含意をもう少し発展させる必要があると考える。 
 
 結論からいえば、日本文化の華(はな)としての簡素の価値を重視することである。今(08)年7月北海道を舞台に洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が開かれ、主要国の政治リーダー、官僚さらにジャーナリストたちが結集する。この好機を逃さず、「簡素」の旗を高く掲げ、内外に向けて発信する時である。 
 
 上記の拙文で侘び茶の理想的境地として風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードを挙げた。これらはいずれも市場価値(=貨幣価値)には換算しにくい価値である。つまり市場でお金と交換して入手できるモノやサービスとは異質の非市場価値(=非貨幣価値)である。 
 
 グローバル化を推進する新自由主義路線はいうまでもなく市場、カネを極度に重視する。しかも地球環境の保全、資源・エネルギーの節約が至上命題であるにもかかわらず、それとは両立しにくい成長主義の旗を依然として降ろそうとはしない。「環境保全」は建前であり、本音(ほんね)で目指すものは市場拡大、マネーゲームによるカネの増殖、さらに大企業を中心とする企業利潤の最大化である。 
 
 こういう悪しきグローバル化に対抗するアンチテーゼになり得るのは、侘び茶の理想的境地を示す上述のキーワードであり、特に簡素はその中の華である。華としての簡素にまつわるエピソードを『茶の本』から紹介する。 
 
 朝顔がまだわが国では珍しかった16世紀、利休は庭中に朝顔を植えて丹精こめて育てた。その朝顔の評判が太閤秀吉の耳に入ると、ぜひそれをみたいというので、利休は太閤を自宅の朝の茶に招くことになった。約束の日、太閤は庭中を歩いたが、どこにも朝顔のあとかたすらみえない。地面は平らに均(なら)されて、美しい小石と砂が撒かれていた。 むっとして専制君主は茶室へ入ってきたが、そこに待ち受けていた光景は秀吉の意表をつくものであった。床の間の珍しい青銅の器に一輪の朝顔 ― それが庭中の女王であるかのように秀吉と向きあって迫ってきた! 
 
 これは利休を主役として描く映画などではお馴染みのシーンだが、ここまで徹すると、簡素の美・風流そのものというほかないだろう。それがかえって力強さを感じさせる。秀吉は成り上がりの権力者らしく、奢侈・虚飾志向であり、ここに利休との対立の構図がみえてくる。この対立は解きほぐせないまま、後に利休が切腹し果てたのは周知のことで、命をかけてまで貫いた簡素のありようを21世紀に生かすべく現代人のわれわれはもっと心を砕いてもいいのではないか。 
 
▽無駄が多すぎる日本社会 ―これで文化ゆたかな国か? 
 
 断っておくが、簡素は貧窮を意味しない。むしろ21世紀の地球環境時代にふさわしいゆたかさにつながる。さらに簡素は、便利さへの執着、成長主義、大量生産と資源・エネルギー浪費と大量消費、その産物としての巨大なゴミの山―の対極にあるゆたかさであることを指摘しておきたい。 
 
 それにしても日本社会は隅々にまで簡素に反する無駄が多すぎないか。 
 「みどりのテーブル」(平和、環境、公正重視の政党をめざす組織で、07年の参院選挙で当選した川田龍平氏を支援した)のメール(08年1月8日付)から無駄の一部の具体例を紹介する。ドイツ在住の環境ジャーナリスト、今泉みね子さんは一時帰国し、熊本で開かれた会合で「日本に来てびっくりすること」として以下の4つを指摘した。 
 
*なんでこんなに自動販売機が多いの?! 
*商品の包装が厳重すぎて、まるでゴミを買ってるみたい!? 
*歩行者や自転車をのけ者にした自動車中心の道路・交通システムにびっくり! 
*外は明るいのに室内の照明が明々とついているのはどういうこと? 
 
 もっともな疑問である。多くの日本人はこういう光景に慣れすぎて、むしろ便利で、ゆたかな証拠だと思い込んでいるが、錯覚というべきである。これでは一人ひとりが地球環境の汚染・破壊推進の一翼を担っているのである。 
 米軍主導の攻撃・占領、さらにテロによって毎日のように死者を出し、電力もモノも不足し、貧窮状態にあるイラクの人々が、この日本の無神経かつ有害な数々の無駄を見たら何と想うだろうか。文明国? それとも野蛮国? 一体そのどちらなのか。文化ゆたかな国ニッポンとはとても信じないだろう。 
 
 多くのマス・メディアは相も変わらず「便利さ」と「経済成長」と「地球環境保全」 ― の3本柱をどう矛盾なく成り立たせるかが課題、などと書きたてているが、こういう視点は第1回地球サミット(1992年)以前のそれで、今日の時代感覚から大きくずれている。地球温暖化防止策が中心テーマとなる洞爺湖サミットで追求すべきは「簡素と地球環境保全」の重視であるべきだろう。 
 便利さと経済成長に執着するあまり、地球温暖化の具体的な防止策で各国の足並みがそろわず、地球環境保全に失敗すれば、人類の生存、いのち、運命にかかわる破局を迎える。いのちを犠牲にして、何のための便利さ、経済成長なのか。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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