2008年02月25日14時00分掲載  無料記事
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朝鮮人強制連行犠牲者の遺骨返還へ 市民団体が尽力

 戦時中、石炭鉱業の労働者不足を補うために朝鮮人が日本に強制連行され、北海道の炭坑などで就労させられた。過酷な労働と粗末な食事などで多くの命が奪われ、数知れない遺骨が祖国に戻ることなく、日本国内に眠っている。2月26日には、道内に安置されていた5体の遺骨が、市民団体の尽力で遺族のもとへ返還されることになった。出発を控えた2月16日、北海道・赤平市内の宝性寺で、趙龍文(チョ・ヨンムン)さんの追悼法要が営まれた。趙さんの遺骨は、62年ぶりに祖国の遺族のもとに戻る。(木村嘉代子) 
 
 朝鮮半島からの強制連行は、1939年(昭和14年)7月から実施され、日本国内で約67万人、そのうち北海道には約14万5000人が動員されたといわれている。 
 
 1945年(昭和20年)6月末には、全道の炭鉱で3万8000人余りが働いており、産炭地・赤平市の4つの炭鉱で就労していたのは約3700人。北炭赤間炭坑には、800人ほどの韓国・朝鮮人労働者がいたという。 
 
 韓国慶尚南道出身の趙龍文さんは1930年ごろ徴用され、赤平市の北炭赤間炭坑で働き、1945年10月に病死(享年38歳)したとされている。 
 
 死亡した翌月、趙さんの仲間が遺骨を引き取りに宝性寺を訪ねたが、「遺骨を近くの川に流して朝鮮半島へ帰る」との言葉に当時の住職の妻・黒川カヲリさんが心を痛め、遺族に返還できる平和な日が来るまで寺で預かる約束をしたという。 
 
 それから60数年、遺骨はこの寺の納骨堂に安置されていた。 
 
 2005年2月、赤平高校郷土研究部顧問の石村弘教諭が宝性寺を訪ねた際、「安川龍文(趙さんの創氏改名)と記された骨箱に目が留まり、過去帳を調べたところ、趙さんの遺骨と判明した。 
 
 その年の10月、韓国政府などを介して、趙さんの甥が韓国に在住することを突き止め、2006年2月には、遺族が遺骨と対面を果たした。このとき趙さんの甥は自分で遺骨を持ち帰らず、「日韓政府間の遺骨返還協議を待つ」と言い残して帰国した。 
 
 その後も現在に至るまで、政府間の返還に関しては見通しが立っていない。しかし、遺族が高齢化していることもあり、今回、赤平市民らが中心となって遺骨返還を実現させた。 
 
 法要には、赤平市民および高校生など約80人が参列。遺骨を守りつづけた黒川さんも出席し、「遺骨を無事遺族にお返しする日を迎えることができて本当によかった」と喜びをかみしめていた。 
 
 趙さんの遺骨は、戦後まもなく納められた木の骨箱から、新しいものに移された。 
 
 市民団体「強制連行・強制労働を考える北海道フォーラム」の共同代表・殿平善彦さんは、「遺骨返還までに62年も費やした意味、そして、民族・国境を越えて遺骨が戻ることの意味を問い直してみたい。まだ道内には多くの遺骨が眠っている。こうした遺骨を返還するのが、われわれ残された者にできること」とあいさつした。 
 
 高尾弘明赤平市長の弔辞の後、赤平高校郷土研究部の石黒大地くんが「部活をはじめるまで、赤平の強制連行については何も知らなかった。最初はショックだったが、この事実を忘れないで、これからも歴史を学んでいきたい」と述べた。 
 
 また、法要終了後、地元・赤平高校郷土研究部の部員、札幌の北海道朝鮮高級学校および北星大付属高校の生徒たちの交流会が開かれ、意見交換を行った。 
 
 高校生らは、「遺骨が一刻も早く遺族のもとに戻ることを願っている」「こういう会を通して、報われない魂を救ってあげられたらうれしい」など感想を語った。 


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