2008年03月21日20時10分掲載  無料記事
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日銀総裁空席は「深刻な事態」か 新総裁に必要な資質を提案する 安原和雄

  日銀総裁のいすが戦後初めて空席となって「深刻な事態」と大騒ぎである。日銀の福井俊彦総裁らが2008年3月19日任期満了となるのに伴い、後任候補として政府は、武藤敏郎日銀副総裁、さらに田波耕治国際協力銀行総裁を提示したが、2候補とも野党が多数を占める参院で不同意となったからである。しかしここは冷静に対応したい。むしろ好機と捉えて、新総裁にふさわしい人物論を考えるときであろう。 
 私は最低必要な資質として、経済倫理観を身につけていること、経済や暮らしに混乱と破壊を招いている新自由主義路線(=市場原理主義)に一定の距離を置くことができること―の2点を挙げたい。 
 
▽メディアの大手各紙社説はどう論じたか 
 
メディアの大手5紙(3月20日付)はどう論じたか。以下にまず各紙の見出しを紹介する。 
 
*読売新聞=日銀総裁人事 一日も早く空席を埋めよ 
*朝日新聞=混迷政治 福田さん、事態は深刻だ 
*毎日新聞=日銀総裁空席 政治の罪はきわめて重い 
*日本経済新聞=総裁空席が示す政治の深刻な機能不全 
*東京新聞=日銀総裁問題 天下り慣行を見直せ 
 
 どう論じたかについては、各紙社説の冒頭の数行を紹介する。そこに主張の要点は集約されているからである。 
 
〈読売〉=日本銀行の総裁の座が戦後初めて、空席になった。この深刻な事態を招いた政治の機能低下は、目に余るものがある。世界の金融市場は、危機的な状況にある。一日も早く、新しい日銀総裁を決定しなければならない。 
 
〈朝日〉=日本銀行総裁のいすが空席になった。世界経済が揺れるなか、前代未聞の異常事態である。直接の引き金をひいたのは民主党など野党の反対だ。参院の採決で、元大蔵事務次官の田波耕治氏の起用に同意しなかった。だが、そもそもの原因は福田首相の手際の悪さにある。 
 
〈毎日〉=日銀総裁人事は再び白紙に戻り、空席が現実になってしまった。日銀は日本の経済運営の根幹に位置し、海外からも動向が注視されている。そのトップが不在となる。こうした状況をつくってしまった政治の罪は重大だ。 
 
〈日経〉=日銀総裁も決められない政治の機能不全は深刻な事態である。国際金融情勢が緊迫する中、総裁は異例の空席となり、副総裁の白川方明氏が当面、総裁職を代行する。今月末で期限が切れるガソリン税の暫定税率も成立のめどが立たず、4月以降、ガソリン価格や予算執行面で大混乱が予想される。福田首相は窮地に立たされている。 
 
〈東京〉=日銀総裁問題の混迷は、財務省事務次官が重要ポストに天下りする慣行を見直す絶好の機会でもある。総裁は空席になったが、金融市場は幸い冷静だ。首相は頭を冷やして原点から考え直すべきだ。 
 
▽冷静な正論を展開する東京新聞 
 
 各紙の社説を通読して感じるのは、過剰反応の表現がいささか目立つことである。 
 「深刻な事態」(読売)、「前代未聞の異常事態」(朝日)、「政治の罪は重大だ」(毎日)、「深刻な事態」「福田首相、窮地」(日経)―などである。 
 
 しかしなぜ「深刻な事態」といえるのか、その説明が十分ではない。空席という事態も想定外ではなく、あり得るからこそ新日銀法(1998年4月施行)22条(役員の職務及び権限)に「副総裁は(中略)総裁に事故があるときはその職務を代理し、総裁が欠員の時はその職務を行う」とあるのだろう。 
 
 今日のような改革の時代は、いいかえれば変化の時代でもある。初めての事態が発生し、日頃の感覚と事態が異なるからといって、いちいち騒ぎ立てるのは、時代に対する認識が足りないのではないか。 
 参院で野党が多数を占めるいわゆる「ねじれ国会」も選挙の結果なのだから、これは「国民の声」の反映であり、それに異を唱えるような姿勢は民主主義、主権在民の否定に通じる。 
 
 これら4紙に比べると、東京新聞は冷静な主張を展開している。 
 「空席の事態は、残念だが、成果もある」という認識に立って、つぎのように論じている。正論というべきである。 
 
 与野党が意見を異にした核心部分は「財務省の事務方トップが安易に日銀総裁に天下っていいのか」という点だった。ねじれ国会は議論と選考経過を透明にして、日銀総裁問題を機に、あらためて天下りの問題点を浮き彫りにしている。 
 旧大蔵省時代から財務省は、これまで多くの事務次官経験者を政府系金融機関などのトップに送り込んできた。少数の例外を除いて、そのほとんどが予算編成を扱う主計局か主税局から事務次官に上り詰めた国内主流派で占められている。中でも日銀総裁は最高のポストだった。 
 
 だが「国内主流派の次官を日銀総裁に」というのは、あまりに時代の流れに鈍感な理屈ではなかったか。(中略)「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ ― と。 
 
▽野党の主張はそれなりに筋が通っている 
 
 以下に日銀総裁人事に反対票を投じた野党のうち民主党と日本共産党の反対理由を紹介する。それなりに筋の通った主張だと考える。 
 
*民主党 
 民主党の鳩山由紀夫幹事長は3月19日午後、日銀総裁人事についてつぎのように記者団に語った。 
 
・「国民の暮らしのことを考えれば不同意になってよかった」(参議院本会議で田波日銀総裁候補を不同意としたことについて) 
・「財務省に官邸がコントロールされ、財務省のトップをやっていた人間でないと駄目だといわんばかりの人事が続くことでこの国が歪められてしまっていいのか」 
・「官邸主導の政治から国民が主役になる政治を作るのが民主党の闘いであり、このような人事に賛成できるわけがない」 
・「間違った人事で5年間国益を損ねることの方が、はるかに国民にとって不幸である」(日銀総裁ポストの空白に対する影響について) 
 
(以上は「民主党のホームページ」から) 
 
*日本共産党 
 共産党機関紙「しんぶん 赤旗」(3月20日付)は「主張」で「日銀総裁空席 政府の人選に問題がある」と題して、日銀総裁人事に反対した理由をつぎのように指摘している。 
 
・元財務次官の武藤敏郎氏は、日銀副総裁として異常な金融緩和を推進し、財務次官として社会保障の削減路線のレールを敷いたことなど、金融・財政の両面で国民のくらしを痛めつけてきた。「国民経済の健全な発展に資する」(日銀法)という日銀の使命に照らして、総裁にふさわしくない。 
・国際協力銀行総裁の田波耕治氏は、1998年、当時の大蔵省が大銀行を救済するため、際限のない税金投入の枠組みをつくったときの大蔵次官で、国民の血税投入をてこにした強引な不良債権処理によって、膨大な中小企業を倒産・廃業に追い込み、地域経済の疲弊を加速させた。 
・日銀法改正で総裁・副総裁の任命に国会の同意が必要だと定めたのは、その選任に「国民の意見が反映されるよう」(当時の大蔵省答弁)にするためだった。 
・賛成しない野党が悪いという態度は、この国会同意の本旨を踏みにじる暴論である。福田内閣は野党が賛成できる人事を提示することを真剣に追求すべきである。 
 
▽日銀総裁に必要な資質、条件は 
 
 日銀総裁空席のままの状態が続くことが望ましくないことはいうまでもない。問題は今後の日銀総裁に必要な資質、条件は何かである。東京新聞社説のつぎの主張は妥当だと考える。 
「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ―と。 
 
 慣行を打破することは必要だが、それだけでは「最適」な人物像は浮かび上がってはこない。経済官僚、日銀、経済界、学界など幅広い分野から選べばいいが、最低必要な資質、条件としてつぎの2点を挙げたい。 
(1)経済倫理観が身に備わっていること 
(2)新自由主義路線に一定の距離をおく経済観をもっていること 
 
(1)について ― アダム・スミスや渋沢栄一に学ぶこと 
  朝日新聞「天声人語」(3月20日付)につぎのような興味深い記事を発見した。 
 
 2代前の総裁だった速水優さんは、在任中にデフレと格闘した。(中略)大胆な策を矢継ぎ早に放った。「日銀は日本経済の良心でなくてはならない」と、言い続けたそうだ ― と。 
 
 「日本経済の良心」という認識に着目したい。同氏は大学卒論がたしかアダム・スミス(イギリスの経済学者、1723〜1790年)の『道徳感情論』(経済倫理を説いており、『国富論』と並ぶスミスの代表的著作)で、私(安原)はその話を直接うかがったこともある。日本資本主義の父とうたわれる渋沢栄一(明治、大正時代の財界人)も、アダム・スミスを高く評価し、「道徳経済合一説」、「論語算盤説」を唱えた。 
渋沢の経済倫理観の軸になっているのがスミスのほかに論語のつぎの文言である。 
 
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」 
 
大意はつぎの通り。 
 君子、すなわち人格が優れた人物は、義、すなわちなにが正しいかを中心に判断し、一方、小人、すなわちつまらない人は損得を中心に考える。 
 
 渋沢の強調したいところは、君子の経営、いいかえれば義中心の経営を心がけるべきだ、という点である。これからの日銀総裁は、スミスや渋沢の経済倫理観に学ぶ必要があることを指摘したい。 
 
(2)について ― 「市場との対話」は万能ではない 
 
 小泉政権以来顕著になった弱肉強食、多様な格差拡大、労働条件の悪化、人間の尊厳の破壊 ― などを招く新自由主義(=市場原理主義)路線は福田政権下のいまなお消えてはいない。また「市場との対話」が最近力説される傾向にある。しかし市場メカニズムは重要ではあるが、決して万能ではない。「市場との対話」説は、市場を万能とみる市場原理主義(=新自由主義)に通じており、限界、欠陥がある。 
 
 日銀法2条(通貨及び金融調節の理念)に「日銀は物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することを理念とする」とある。「国民経済の健全な発展」と新自由主義(=市場原理主義)とは両立しがたい。したがってこれからの日銀総裁は新自由主義に囚われない批判的な目が求められる。 
 日銀法3条(日銀の自主性の尊重)に「日銀の自主性は尊重されなければならない」とある。この条文の精神を活用すれば、新自由主義路線に批判的な足場を保持できるだろう。 
 
 ただ同法4条(政府との関係)に「日銀は、その通貨及び金融の調節が政府の経済政策の基本方針と整合的なものになるよう、政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」とある。この条文は「日銀の自主性尊重」を制約するもので、自主性の尊重が発揮できるか、それとも損なわれるか、そのどちらに揺れるかは、まさに総裁の器量にかかっている。 
 
 昔話になるが、私(安原)は宇佐美洵総裁(1964年12月〜69年12月)、佐々木直総裁(69年12月〜)時代に経済記者として日銀を担当していた。当時の夜回り取材メモに政策担当の澤田悌・理事(66年〜69年)とのつぎのようなやりとりが残っている。 
 
安原「日銀公定歩合の上げ下げなどの政策決定に重要な要素は何ですか」 
澤田「それは器量だなー」 
 
 他社の記者は同席していなかったように記憶している。理事は、私の問いにしばらく考え込んだうえで、ぽつりとこう答えた。この返答は意外であった。というのは「経済情勢を十分判断して」などというありきたりの返答を予想していたからである。意外であるだけに私には感銘深いものがあった。日銀にもこういう人物がいるのかという印象を抱いた。 
 
 昨今の数字にしか興味を抱かない現代経済学者、市場万能主義者たちにはこのやりとりの含蓄は恐らく理解できないだろう。しかしこれからの望ましい日銀総裁論を考えるとき、やはりこのやりとりを思い出さずにはいられない。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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