2008年06月04日12時19分掲載  無料記事
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チベット問題

「チベット問題には新しい考え方が必要」 政府に意見書を提出した中国の作家、王力雄氏へのインタビュー

  中国のフリーの作家、王力雄氏はチベット問題の専門家でもある。3月14日、チベットで暴動が発生し、ラサで破壊活動が行われたとき、彼はヨーロッパに滞在していた。中国政府が旅券を発行しないことで国外に出ることができないチベット族の作家、彼の妻であるツェリンウォセの代わりに、ノルウェーの作家連盟の「自由表現賞」を受賞するためだった。王力雄は1989年(訳注:天安門事件の年)以後20年近くたったいま、武力と流血の事件が起こったことを残念に思っている。王氏はこれまで20回あまりにわたりチベットに赴き、その時間は累計3年にあたる。『天葬 チベットの運命』を著し、ダライ・ラマとも4回会見している。 
 本誌の取材を受け王氏はこう述べた。「チベットの矛盾はこのところ累積し続けており激しさも増している。表面的には当局のチベットへの統制は穏健で、当局も近年の統治路線は成功していると考えていた。しかしこうした見方は正しくない」 
 
 北京当局はこのところ大量の予算を投入して道路や橋を建設し水道や電気を通し、青蔵鉄道を開通させるなどチベットの経済発展をはかり、それによってこの地域の民族問題を弱体化させようとしてきた。王氏によれば、こうした経済優先路線の成功について、中国政府ばかりでなく海外の多くのチベット人も同じような見方を持っていたという。国内のチベット人はみな金儲けに走り、マージャンや酒におぼれ歌ったり踊ったり、チベット問題にもチベット文化の継承にも関心がなくなり、精神的な追求をすることなく、ただ自分の生活がよければそれでいいとなってしまったと。 
 
 「だから今回の激しい抵抗は多くの人にとって思いもかけないことだった」 
 王氏によれば、中共のこれまでのチベット政策は「ニンジンに棍棒」だという。つまり、政治の圧力的な統制のもとに経済的な恩恵を与えるというものである。しかし、今回の事件はこれまでの方式が必ずしも成功していないことを証明した。「チベット問題に対処するには新しい考え方が必要である」という。以下にインタビューの要点をまとめる。 
 
■チベット情勢に対する当局の見方に誤りがあったと思うか。 
 
 当局が国内のチベット人とダライ・ラマを代表とする海外チベット人とを分断させるために用いた方法は、国内チベット人が個人の富と利益に専念するようにし向け、チベットの政治状況に関心を向けないようにし、ダライ・ラマにはせいぜい形式的な信仰にとどめ、実質的な追随をさせないようにした。一時期この方法は成功したかに見えたが、実はそうではなかった。 
 チベット民族が政治に対して無関心なのは、訴えることがないのではなく、訴えることができないからだ。政権の脅威を前にして訴えることも行動を起こすこともできない。しかしこうした状況はいつまでも続かない。時機があれば爆発する。組織されていない民衆が爆発すると、抑えていた感情が噴き出し、極端な方法に走ってしまう。今回のラサの暴動はまさにそれだ。 
 
■ダライ・ラマのチベットにおける実際の影響が低く見られていたのか。 
 
 そうだ。一昨年、ダライ・ラマがインドで、国内チベット人の野生動物の毛皮を着るという悪い習慣を批判したところ、国内の多くの地域でチベット人たちが高価な毛皮を焼き捨てた。この一件は当局を揺るがせた。チベット人に豊かさを追求するという俗世の生き方をし向けてきたのに、遠いインドのダライ・ラマの一言で進んで貴重な衣裳を焼き捨てる仕儀に出るとは当局も思いもしなかった。腹を立てた関係部門は毛皮を焼いた一般人民を逮捕した。 
 実際、中国政府も野生動物の保護を求めていたのだが、誰も言うことを聞かなかった。ところがダライ・ラマが言えばチベットの民は言うとおりにした。これは政府の主張と一致することなのに、当局は面子をつぶされ、政治の利益を損なわれたと感じたのだ。「敵が守るものすべてに我々は反対する」という毛沢東の考え方で、動物保護に逆行してチベット民に公の場で毛皮を着るよう強制し、強い調子でダライ・ラマを非難した。このようなやり方は当然チベット民の怒りを増大させ、圧力をかけた結果反発を生じさせた。 
 
■今回の暴動をテレビで見ると、チベット族の暴徒は漢族をねらっているが、どうして漢族を襲うのか。 
 
 政治の矛盾以外に、この間チベット地区への漢族の移民が増え続けている。移民がなければ民族問題の紛争は抽象的なものにとどまり、だいたい政府側と知識人が関心を示すだけで一般庶民への関わりは大きくはない。新疆ウイグル自治区ではウイグル族庶民の民族意識が高いことを感じるはずだ。その原因は漢人移民が一般の人の生活領域に入り、ウイグル族の資源を直接奪い、競争になっているからだ。 
 風俗習慣の違いも日常的に摩擦を生んでいる。チベット地区では以前は漢人移民が相対的に少なかったが、いまはラサのようなところでは市場経済のシェアの大部分が内地の漢族や回族に握られている。チベット族の文化は快楽を追求するものであって、日々市場の競争にもまれて朝から晩まで金儲けをするようなものではない。しかし漢民族は利益を重視し、そのために働き節約に励む。 
 この二つの民族を市場競争の同じ位置に置いたら、チベット族の競争力はどうしても劣る。失敗を重ねるにつれ挫折感が増していき、現実生活で何度も苦境に立たされれば不満の爆発は民族に向けられる。 
 
■今回の動乱は20年前とどのように違うか。 
 
 表面的には、今回の事件は1987年から89年のラサでの事件と似ているようだが、実際は違う。80年代末のチベット動乱は開放政策の環境のもとに発生したものだ。もともとチベット人への圧力は大きく、彼らは深い痛手を蒙っていた。80年代以降の開放政策、さらに胡耀邦が打ち出したチベット政策がチベット人に不満爆発の空間をもたらし、意思表示の可能性を持たせ、彼らはもちろん意思表示をした。それに基づき、表出した不満は徐々に吸収され、社会も安定し融和がはかられるはずだった。しかしそのときのチベット強硬派は情勢が悪化すると考え、民族問題の沈静化を否定し、さまざまな動きを行って矛盾を激化させた。いろいろな方面の要素が相互に動いた結果、80年代後期の政治的動乱に発展したのだ。 
 
 左でも右でもチベット政策は失敗している 
 
 今回の事件は十数年にわたる政治的抑圧と経済開発、社会の同化の中で起こった。共産党内と上層部はチベット政策の路線において根本的な不一致にはいたっていない。行ってきたのは80年代とは異なる別の方向からの統治路線だったが、結果は失敗であった。 
 現在の中国の政治体制ではチベット統治にもはや策はないと思われる。つまり、左の路線といえば文化大革命のように寺院をすっかり破壊するようなわけにはいかない。文革後に寺院はみな回復した。しかし右の穏健路線をとるとしても胡耀邦のときのチベット政策を越えることはできない。あのとき漢人をみな引き揚げさせ、チベットが中央の言うことを聞かなくさせてしまった。文革と胡耀邦の左・右の間で、当局は試すべきものはみな試した。だが事実がいずれも成功していないことを証明した。 
 90年代の第3回チベット工作会議から、統治路線は経済面で恩恵を与える方針に定められ、政治面では高圧的な「片手でやさしく、片手できびしく」に定めた。この路線は大成功を収めたかに考えられたが、今回の事件でやはり効果が明らかでないことがわかってしまった。 
 
■チベット問題の出口はどこにあるか。 
 
 現実的にはチベットの安定に最もよく、すぐに用いることができるのはダライ・ラマだ。もしダライ・ラマがチベットに帰還することができれば、ほとんどの問題はたちまち解決するだろう。多くの問題は根本的なところでいままでのダライ・ラマへの攻撃や罵倒と密接な関係がある。 
 チベットの僧侶たちにとってダライ・ラマは精神的リーダーであり、至高のものだ。それを当局が四六時中彼らにダライ・ラマを攻撃させているが、これは自分の父親を罵倒するより屈辱を与えるものだ。だからチベットでの抗議活動がいつも僧侶から始まっているのであり、いささかの不思議もない。僧侶はチベット民衆の中で声望が高い。非暴力の方法で僧侶が抗議をするとき当局は彼らに暴力を加え、寺院に監禁するなどしたから、一般民衆を怒らせたのだ。一般民衆が加わると組織的な統制や制限がされていない烏合の衆となり、紛争はすぐに暴力へと変わり、破壊活動や強奪などの行為におよんでしまう。 
 
■事態を好転させることはできるか。 
 
 今回の事件後、当局がまた圧力を加えることが心配だ。殺人犯を捕らえたり黒幕の捜査をするような手法で海外との関係を粛清したり、僧侶を還俗させたり、寺院を整理したりして民衆を震え上がらせれば、一時的に抑えることはできるだろう。しかし方向性は変えられず、別の循環に入ることになる。矛盾が累積されれば次の爆発的な抵抗はさらに激しくなる。私には、中国政府が路線を変更するとは思えない。民族問題の本質は人文の問題であり、人文の配慮と教養が必要だ。ところが中国の政権集団にはまさにこれが欠けている。 
 
 私は心から、中国当局が今回の事件を通して自己反省することを願っている。チベットをこんなに長く統治していながらどうしてこうした結果となったのか。事件そのものが存在の問題を説明しており、新しい考え方が必要であることを説いている。それができなければ将来の問題はさらに大きくなり、チベットにとどまらず新疆ウイグル自治区におよび、いつでも激しい爆発が起こることになるだろう。 
 
*原文:香港『亜洲週刊』08/3/30号記事(紀碩鳴記者) 
*翻訳:納村公子 
 
<王力雄氏> 
 1953年吉林省生まれ。父の王少林は長春第一汽車の副工場長だったが、文革中「走資派」「ソ連修正主義のスパイ」の罪状で1968年、拘留中に死去。「罪を恐れた自殺」とされた。いわゆる牛小屋(監禁場所)に入れられていた母が釈放されると、母とともに下放され、73年、工農兵学院として吉林工業大学に入り、自動車技術を学ぶ。このころから詩や脚本を書いていたが、湖北第二汽車に配属される。 
 80年、同前の国営企業を離れ、映画制作部門に入り、83年、長編小説『天堂之門』(天国の門)を完成、翌年、自力で黄河源流から車のタイヤを使った筏で1200キロあまりを漂流し、その体験をドキュメント『漂流』として87年に発表。88年には作家連盟に入る。91年、政治寓話小説『黄禍』を香港で刊行する。94年、梁啓超の息子、梁従誡らとともに中国で最初のNGO環境保護組織「自然之友」を設立。 
 95〜98年までチベットを多数訪れ、『天葬 西蔵的命運』(天葬 チベットの運命)を著す。99年1月、新疆ウイグル自治区で当局に拘束され、国家安全部(秘密警察)によって逮捕される。2001年、「一人の作家として連盟に在席することは恥だ」との声明を発表して官制の作家連盟を脱退しフリーとなる。略歴と一部作品は独立中文ペンクラブのHPで見ることができる。 
http://www.boxun.com/hero/wanglx/ 


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