2008年06月16日17時45分掲載  無料記事
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山は泣いている

30・尾瀬はなぜ残ったか 明治以来、開発反対を貫いた長蔵小屋の平野一家 山川陽一

第8章 開発か自然保護か・2 
 
 わたしの山の写真はなぜか尾瀬と上高地に偏在している。それだけ多く足を運んでいる証左なのだが、ただそれだけが理由ではない。いま改めて考えてみると、尾瀬や上高地には、人を魅了し感動させるに十分な質の高い素材がふんだんに存在しているということなのだろう。いい素材に出会ったとき、わたしはその感動を形に残したい一心でシャッターを押す。 
 
 自分はプロのカメラマンではないから、素材が何であろうと作品として人を魅せるように仕上げてしまう高級な技術など持ち合わせていない。かつて私を指導してくれた写真家の先生が、「写真は創造だ、こんなものがと思う対象物でも、目の付け所と撮り方によっていい作品になる。写真というのは見る人をだます技術だよ」と言われたのを覚えている。確かにそれは写真の技術論としては理解できるのだが、自分にとっての写真は、あくまで、その字の如く、真を写し伝える手段そのものであり、それ以上のものではない。 
 
 自分が写真を本気で撮る気になったのは50才も後半になってからである。今までせっかく多くの美しい山々を歩き、多くの感動を体験しながら何も記録に残してこなかったのが急に残念に思えてきた。感動を自分らしいやり方で残せないものかと考えたときそこに写真があった。だから、感動したときそれを伝えられる写真が撮れればうれしい。自分の下手な写真だけで表現できなければ文章で、文章だけで表現できなければ写真で補い、何とかして高ぶる感動を形に残したいと思っている。 
 
 尾瀬に話を戻そう。四季折々人々に大きな感動を与えてくれる尾瀬ヶ原の景観は約7・8千年前に現在のような湿原を形成し始めたと考えられている。そこにある原生的自然景観と特異で多様な動植物群落は、わたしたちの目を楽しませてくれるだけでなく、科学的にも非常に貴重な存在で、特別天然記念物に指定されている。こんな尾瀬の歴史をひも解くと二つの大きな危機があった。 
 
 ひとつは、戦後間もない1949年(昭和24年)の尾瀬ヶ原ダム計画であった。それは戦後復興の電力需要を賄うため、尾瀬ヶ原をつぶして230万キロワットの巨大ダムを作ろうというものであった。何しろ当時の水力発電の総発電量が600万キロワットに過ぎなかったのだから、その巨大さは想像に難くない。 
 商工省が先頭に立って進めるこの計画に敢然と立ち向かったのは、文部・厚生両省の役人と尾瀬の父と呼ばれた植物学者武田久吉(第六代日本山岳会会長、同初代自然保護委員)や長蔵小屋の二代目平野長英らの民間人が結集して作った尾瀬保存期成同盟(後の日本自然保護協会)の人たちであった。産業復興が国家の最重要課題であった時代、それを担う電源開発計画に反対を唱えること自体大変なことなのに、官の計画に官が民と手を組んで立ち向った勇気ある人たちがいたことは驚きである。 
 
 もうひとつの危機は、尾瀬の核心部に観光道路を通そうという計画であった。高度経済成長真只中の1971年(昭和46年)、森林を切り開き、大清水から三平峠に向けてどんどん開発が進む山岳道路の阻止に立ち上がったのは、長蔵小屋の三代目平野長靖であった。長靖の訴えを受けて現場視察に訪れ、この計画にストップをかけたのは当時の環境庁長官大石武一である。大石はそのとき「国立公園は観光地ではない。(この道路は)自然保護とは相容れない」と発言したと伝えられている。 
 
 尾瀬で最初に電源開発計画が浮上したのは1903年(明治36年)であったが、そのとき計画反対の声をあげたのが長蔵小屋の初代平野長蔵であったことを思うと、三代にわたって尾瀬の自然を護ってきた平野一家は尾瀬の大恩人である。 
 
 時の流れに身を任せていれば楽なものを、一身を賭して激流にたち向かった先人たちの勇気ある行動に畏敬の念を禁じえない。そのときまさに歴史は動いたのである。 
(つづく) 
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当) 


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