2008年09月03日16時15分掲載  無料記事
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グルジアに対する西側の幻想 現実的な助言が必要  ドナルド・レイフィールド 

openDemocracy  【openDemocracy特約】2008年8月8-12日のグルジアとロシアの5日間の戦争の残り火は完全には消えていないが、フランスのニコラス・サルコジ大統領が交渉し、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領とグルジアのミハイル・サーカシビリ大統領が合意した停戦協定で、この激しく、破壊的で悲劇的な戦争を終わらせる希望が出ている。 
 
 さらに広い視点から言えば、戦争によって住む家を失い、傷ついた市民が、破壊された生活を再建するうえで、ささやかな安全と人道支援を受けることができるようになった時には、その背景、原因、教訓を完全に調査する場所が作られるべきである。この大きなプロジェクトに、いくつかの初歩的な解説を提供することは、この初期の段階で適切であろう。 
 
 この「短く、汚らわしい戦争」についてのメディアの報道の多くは、精力的で、詳細であった。ロシアとグルジアの広報官によって伝えられる偏向した(多くの場合、まったくの虚偽であった)事態の説明に疑問を呈し、多くの疑念を示した。これとは対照的に、評論家たちは、紛争の原因を探るという基本的な仕事への関心を失っている。実際、多くのおびただしい意見は、現地と地域の要素を完全に無視し、手軽な地政学を援用している。それはまるで、今回起きたことの中心にある南オセチアとアブハジアが存在しないかのようである。 
 
南オセチア 今回の火事 
 
 南オセチアは、法的にはグルジアの中にある小さな領土で、今回より長く、同じように汚らわしかった1991−92年の戦争以来、グルジアの支配外にあり、5日間の戦争の直接の引き金であった。この地域の背景をより深く見れば、これは起きるべきではなかった紛争であったことを示している。中央コーカサスの南山麓に住む約4万人のオセチア人は、北側の山麓(ロシア領)に住むオセチア人の主体とはほとんど別に発展し、異なる方言を話すまでに至った。700年間にわたり、彼らはグルジア人の村と混在した村に住んできた。平和に混じり合い、宗教は同じで、グルジアの王族と知識人と結婚してきた。 
 
 重大な衝突は、ソ連後の初代大統領で半分気が狂ったスビアド・ガムサフルディアが、(1992年の短い支配期間とそれ以前に)、極めて排外主義的な民族主義を信奉してから始まった。グルジア人以外の市民は同国での「お客」であると宣言した。ガムサフルディアは、自治を廃止し、南オセチアという名前も廃止した。また大臣の一人、Vazha Adamiaをツヒンバリへのデモの先頭に立たせた。 
 
 数百人が殺されると、グルジアのオセチア人は、唯一の選択肢に見えたものを選んだ。分離することである。彼らはすぐに「平和維持部隊」の名目でいるロシアによる保護を見出し、新しい制約された状況の中、やせた土地とコーカサスを越てくる物資の密輸で生活をやりくりした。1990年代終わり、(ガムサフルディアが死んだ後に政権を握った)エドアルド・シェワルナゼのグルジア政府は、この取引を大目にみていた。それは、グルジア・南オセチア境界で闇商人が車のトランクを使った市場とも平和的に共存し、活発に行われた。 
 
 2003−04年の「バラ革命」でシェワルナゼに代わって後を継いだサーカシビリは、ほとんどすべてのグルジア人政治家と同じように、ソ連後の混乱と暴力の時代に失われた、すべての領土を(必要なら武力を使ってでも)回復すると公約した。この約束とその約束(例えば、その展望は常に非常に近い将来である)に伴う修辞は、その約束をした者を抜き差しならない状態に追い込む。南オセチアに関する約束を果たそうとして、サーカシビリ政府は、一連の策略をした。エドアルド・ココイトイに率いられたロシアが支援する南オセチア政府に対抗するため、親グルジアの傀儡政府の樹立、水道と電気の供給の操作、交易所の閉鎖、さらに、それらの措置を拡大し(南オセチアの統治者は対抗し、それをしのぐことさえした)、誘拐、地雷の敷設、ときには銃撃戦にまで至った。 
 
 そうした「挑発」(両者によって手当たり次第に投げつけられた言葉を使うと)に直面して、ロシアの平和維持部隊によって武装され、訓練を受けた南オセチア人は、さらなる支援を受けた。そのため、反グルジア活動の犯人が誰であるかーロシア軍なのか地元オセチアの若者なのかー判別するのが困難になるまでになった。オセチアの軍事請負人はとにかく、ルーティンに励んだ。上空を飛行し(ときにはミサイルを「落とし」)、平和維持のために非常に厳しく訓練された部隊で強化した。 
 
 さらに、政治的なレベルでは、ロシアの小刻み(サラミ) 戦術は(南オセチア人にロシアのパスポートを発行し、次にロシアの年金、保健、教育制度に統合していく)、最初は住民を同化させる秘密のプロセスで、次に同国をロシア連邦に統合することになったことは疑いない。 
 
 それ自体では、オセチアはロシアにとって取得する魅力はほとんどない。そこに別荘を建てる人はいない。(アブハジアには観光施設があるが)、そこには観光リゾートもなく、観光客のために施設を建てる見通しもない。全体で7万人の人口の中で、ロシア市民にはなりたくないと思っている2万人以上(恐らく最大3万人)のグルジア人が住んでいる。原理的には次のようなことはあり得る。目覚ましい経済成長を見せ、西側世界と統合し始めていたグルジアの隣で、もし南オセチア人が平和にそのまま置かれたら、グルジアと再統合するのではないが、その一部であるかのように住み、またロシアの一部にはならない(ロシアとはとにかく、長く、暗く、危険な1本の道路のトンネルだけでつながっている。 訳注1)、ということに最終的に合意に達していたかもしれない。 
 
 ロシアの野望とグルジアの政治指導部の性格を考えると、そのようなことは起きなかったし、恐らく起きえなかったであろう。サーカシビリを近くで知るようになった人たちにとって、多くの言語に堪能で、米国で法律の教育を受けた彼は、危険なまでに不安定で、時に冷酷な政治家である。彼の反ロシアの一匹狼としての役割でさえ、実際に見えるものとは違っている。彼が2003−04年のバラ革命の波に乗ることができたことは、ロシアの利益と感情とぶつかり、どちらの側も思い出したくないものであったことを示す多くの証拠がある(それは、両者の間で交わされた人身攻撃の激しさを説明することになるかもしれない)。 
 
 もつれた、謎に包まれた話は、次のようなものである。革命の初期段階で、シェワルナゼが不安定な政権にしがみついている時に、サーカシビリは当時のロシア大統領の仲介者の一人、Grigory Luchanskyを介して、ウラジーミル・プーチンと間接的な対話に関与した。野心のあるグルジア人である彼は、グルジアの南西部の州のアジャリア(訳注2)を地盤として支配していた現地の軍閥、アスラン・アバシゼ(訳注3)に対する圧力を掛けることは、彼の年長のライバル(シェワルナゼのことー訳者)に対し優位に立つチャンスだと見なした。 
 
 プーチンはアブシゼのロシア治安部隊を撤退させて、願いを入れた(アブシゼが、プーチンのライバルでモスクワ市長のユーリ・ルツコフの同盟者であったことは役立った)。ソ連解体での役割から、シェワルナゼがプーチンのKGBとロシア軍から憎まれていたことも、その動機になった。アブシゼの支配基盤が弱体化され、アジャリアがトビリシの支配に戻った時には、サーカシビリはグルジアの大統領になっていて、国家再統合計画でのこの第一歩を自分の手柄にできた。 
 
 事態は転換した。プーチンの(またメドベージェフの)サーカシビリに対する嫌悪は、メドベージェフがotmorozok(「能なし」と「人間のくず」の間に当たるもの)という下品な言葉を使うことで現れている。米国の軍事援助への大きな依存など、ロシアの軌道からできるだけ離れた政治的決定や経済政策を取ることで、グルジア大統領はロシア指導者の目の上のたんこぶになった。 
 
 サーカシビリはすっかり中傷の修辞をとり戻した。だが、侮辱的言動と民族主義的なわめき声を越えて、なぜ彼が南オセチアで彼の軍隊を使って電撃戦を行い、それをロシアが既成事実として受け入れると考えたのかは、まだ不明である。この荒っぽい計画について聞いていたはずで、それを防げたはずの米国の軍事顧問はどこにいたのか?サーカシビリをめぐっていくつかの疑問がある。2005年のズラブ・ジワニア首相(訳注4)の原因不明の死と、それに続く異常ないくつかの死における彼の役割についてなどである。 
 
 ツヒンバリでの本当の死者数とグルジアの責任の程度は、サーカシビリにさらに影を落としている。広く流布されている1500人という数字以下だったことがわかったとしても、その行動は醜悪で、分離主義者の州の町を取り戻そうとする国軍による(サーカシビリのお好みの言葉で、敵に対してだけ使う言葉を使うと)野蛮な違反である。米国のコンドリ−サ・ライス国務長官がトビリシを訪問する時には、抱擁と握手、それに疑いなく微笑みで歓迎されるであろう。そうだとしても、これが、サーカシビリの西側の同盟国がロシアと同じように、彼に代るもっと分別のある人物を見つけ出そうと躍起になっている、もっともな理由である。 
 
 彼の政治的死亡記事が書かれる時には、少なくとも言えることは、南オセチアでの彼の行動は、南オセチアをグルジアに再び統合する見通しは、彼が誤った危険な冒険を始める前より、さらに薄くなっているということである。しばしばあるように、熱狂的なグルジア民族主義の噴出は、それが意図した目的を挫折させている。 
 
アブハジア 波は後退する 
 
 グルジアとロシアの間のあからさまな戦争が、南オセチアをめぐって起き、グルジアのもう一つの失われた領土、アブハジアではなかったことは、少なくとも一つの点で驚きであった。 グルジアとアブハジアを分断する問題はより根が深く、重大であるという点においてである(また、グルジア軍が、2006年7月から2008年8月の戦争の中で撤退するまで、アブハジアのコドリ渓谷に駐留していたからである)。 
 
 南オセチアがグルジア王国と共和国に何世紀もの間、統合されていたとしても、アブハジについては、確かに統一グルジア国の不可分の部分であったのは、アブハジアの歴史の中のほんの僅かな期間でしかないと言い得る。900年から1225年(グルジア王国の「黄金の時代」)の間と、1936年から1992年(アブハジアの指導者Nestor Lakobaがラベンチー・ベリヤによって殺されて以後、ウラジスラフ・アルジンバの指導の下での分離と戦争まで 訳注5)の間である。 
 
 さまざまな時期に、アブハジアはミングレリア(Mingrelia)の支配者によって支配された。それはオスマンの宗主権の下でのことが多かった。1930年代の強制的な人口構成の変化で、アブハジアではグルジア人集団が先住のアブハズ人の数を上回るようになった(アブハズ人の人口は、1864年にロシアがアブハズ人の半分をトルコに追放した時に激減した)。従って、グルジアがアブハジアに対して主権を主張するのは、長い歴史的な関係ではなく、1945年以降の国境の不可侵の原則に基づいている。 
 
 より重要なことは、土地が肥沃で昔は魅力的であった海岸と山のリゾート地を持つアブハジアは、その隣国にとって紛れもなく欲しいものなのだ。ロシアの官僚やビジネスマンは、スターリンの古い別荘からユーゴスラビアが建設し、放置されていたホテルにいたるまで、不動産を買い占めている。彼らは、アブハジアの地位が最終的に再検討されたら、彼らの購入は合法的で利益が見込めるという前提でいる。アブハジアはまた、親ロシアのアルメニアと世界と結ぶ主要道路と鉄道が通っている。 
 
 1992−93年の分離戦争では支持を隠さなかったロシアの「平和維持部隊」は、以後、駐留することに大きな既得権益を持っている。残忍で破壊的な1992−93年の戦争と1930年代と1970年代でのグルジア人による暴力と嫌がらせを決して許していないアブハズ人は、ロシアの専制支配のほうがずっとましだとしている(ファジリ・イスカンデルの小説『チェゲムのサンドロおじさん』を読んだ人は誰でも、そこに描かれているアブハズ人の帝国支配者に対する態度と、ロシアの支配の下で、好きなように生活していかれるという自信を見出すであろう。訳注6)。独立するかロシア連邦の一部になるかを望むアブハズ人にとって、唯一の脆弱性は南のガリ地域の存在である。そこは、ミングレル人が民族的、言語的に西グルジアのミングレル(サメグレロ)と近く、グルジア人とも近いのである。 
 
 ツヒンバリでのグルジアの敗走と、欧米がグルジアへの言葉による支援と経済的支援を軍事行動ないし実効のある政治的制裁で証明することができなかったことで、アブハズ人はグルジアへの再統合を働きかけようとする者はもういないと確信している。ニコラス・サルコジと(フィンランドのアレクサンデル・スタッブ外相の)交渉の結果、欧州連合の平和維持部隊がロシアの平和維持部隊に加えられるかもしれない。だが、彼らは実効あるものにはなりそうもないし、(ロシア軍の行き過ぎた肉体的暴力への傾向を信頼性のしるしとして認め、他のタイプの平和維持部隊の抑制を笑う)コーカサス人に尊敬されそうもない。 
 
遺産 
 
 ロシアとの短い戦争で、いまや国土が明らかに小さくなった中でグルジア自身はどうなったのか?恐らく、グルジアの政治家と国民は、より現実的な同盟国が与えている静かで人気のない助言に耳を傾け始めたかもしれない。だが、これまでのところ、それは無視されている。 
 
 第1に、チェコ共和国とハンガリーを見よ。(チェコはスロバキアなしでもうまくやっており、スロバキアもそうである)。ハンガリーは(過激派は別にして、トランスシルバニアを取り戻すという願いあきらめた)。領土が失われることはあり得ることであり、民族的に同質な構成で生きのびられるし、利益を受ける、ということを受け入れよ(これが、エスニック民族主義ではなく、市民が育成されることが組み合わさった場合にのみ)。 
 
 第2に、アブハジアや南オセチアの住民がそこに住みたいと思うような、明白により豊かで、自由で、安全な隣国となるよう、グルジアは、経済的、社会的発展に集中すべきである。 
 
 第3に、グルジア人は2つ以上の選択肢があることを認識すべきである。不可能な選択肢は、失われた領土を取り戻すことであり、あり得る選択肢はそれをロシアに取られることである。第3の選択肢は、アブハジアと南オセチアの独立を認め、外交関係を与え、国境を開くことである。そうすればこれら2つの地域はロシアだけではなく、トルコ、欧州へと外に向くことができる。 
 
 この助言は「西」に対するものでもある。NATOと欧州連合の助言者は、こうした3つの理性的な原則を受け入れられることを条件にして、グルジアにすべての援助をすべきである。また、これ以上の意味のないおしゃべりをやめるべきである。 
 
 そうした方針に沿って言う勇気のある政治家、そう言っても殺されないと信じる自信を持ったグルジアの政治家を私は知らない。だが、もしそうした政治家が現れないと、2008年8月に起きたことは再び起きるであろう。さらに、次の時はさらにもっと悪い結果となるであろう。なぜなら、ロシアの外交政策はもっぱら、愛されるより、恐れられた方がましであるという原則に基づいているからだ。ロシアのプーチンーメドベージェフーPSB-軍事政権は、少なくとも石油が尽きるまでは、世界の主要脅迫者として強固に構築されているように見える。もしグルジアがさらにやる気を起こさせるものが必要というなら、それは、強硬な立場を続けて、他の少数民族を疎外させることだ。特にトビリシに無視され、(南東グルジアの)ジャバヘチで貧困な生活をしている20万人のアルメニア人は、アルメニアと統合するために戦うことを決めるであろう。 
 
 グルジアの歴史は、何世紀にわたる分裂の後に数十年の統一が続くというものである。グルジアの責任ある友人は、どのようにこのプロセスを覆すか、より根本的でより現実的に考え、明確で率直な助言を与えなければならない。一方、グルジアの新しい世代、特に外国に住み、働いたことのある人々は、数ケ月、数年先まで、そのような改革主義、現実主義を共有し、説くことが望まれる。 
 
*ドナルド・レイフィールド(Donald Rayfield) ロンドン大学クイーン・メアリー校の現代言語名誉教授 ロシア語・グルジア語研究者 
 
 
訳注1 ロキ・トンネル ウィキペディアによると、1985年完成、高度2000メートル、全長3660メートル。 
 
訳注2「人口統計上、住民の8割は民族籍をグルジア人とするが、実際にはこの地方のグルジア人の多くがアジャール人と呼ばれるイスラームを信仰するグルジア系のエスニック・グループであるため、グルジア国内で自治共和国を形成している」(ウィキペディア) 
 
訳注3 ソ連解体以前からアジャリアの自治共和国最高会議議長。グルジア独立後、ロシアを後ろ盾とし、シェワルナゼ政権に対して、譲歩を引き出させた。独自の軍事力を持ち、事実上の独立国家となった。国土統一を公約にしたサーカシビリが2004年に大統領に就任すると、中央政府とアジャリアとの関係は一触即発の危機に陥った。サーカシビリ政権はアジャリアに対して武装解除を要求する最後通告を発した。アバシゼはロシアに亡命、アジャリアは中央政府の支配下に入った。 
 
訳注4 20004年1月に首相に就任。2005年2月、ガス漏れ事故でトビリシの友人宅で死去。 
 
訳注5 ベリヤはグルジアのミングレル人で秘密警察長官。アルジンバは1990年、アブハジア最高会議議長に選出。1994年―2005年、アブハジア共和国大統領。 
 
訳注6 2002年に国書刊行会から邦訳が出ている。 
 
 
原文は8月13日に掲載された。 
原文 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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