2008年09月16日11時52分掲載  無料記事
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利害の相違より共通の脅威が重要 ロシア・グルジア戦争後の世界  レイン・ミュラーソン

openDemocracy  【openDemocracy特約】「それは、悪に対する善の戦いではない。それは、力の均衡のために戦っている勢力同士の戦争である。この種の戦いが始まると、それは、他の戦いより長く続く。なぜなら、神はどちらの側にもいるからだ」−パウロ・コエーリョ  『アルケミスト』(訳注1) 
 
 2008年8月8日は北京五輪の開幕日としてよりも、ソ連の崩壊やベルリンの壁の崩壊と同じくらい重要で、9・11をも影を薄くさせるくらいの国際社会の発展でのより重要な節目を表すものになるであろう。姿を表しつつあるものは新しい冷戦ではないかもしれないが、新しい分断の線が最も重要な安全保障の問題上に出現しつつあり、その結果、さまざまな国際機関の役割が変わらざるをえないというのは確かなようだ。「龍」はまだ静かに、かつ賢明に力をつけつつあり、2008年8月8日の勝利を楽しんでいるが、その歯と爪をみせたのは、猟師と猟犬に囲まれた「熊」であった。 
 
 2008年8月8-12日のグルジアとロシアの間の戦争と、それが議論になり、いまだ暴力的な余波があるという状況を踏まえて、コーカサスの出来事を理解するためには、その地域の歴史を掘り下げてみるばかりではなく(それが助けになることはあるが)、より広い背景で歴史と進行中の紛争を見ることが必要である。つまり、エネルギー資源へのアクセスなど世界秩序の将来をめぐる新しい地政学的争いという背景である。 
 
 そうしたアプローチにより、コーカサスでの紛争に、多少は恒久的で、満足のいく解決策があるのかどうかが明らかになるかもしれない。確かなことは、手っ取り早い解決策はないということである。また、すべての外部のパワー(ワシントン、ブリュッセル、モスクワを含む)が一つの方向に進むことに真摯に同意するというシナリオはありそうもないが、仮にそうなっても、密接に、個人的に、感情的に関与した人たちの怒りや認識、誤解があるため、予見できる将来において、すべてに等しく受け入れられるような成果は生まれないであろう。 
 
 グルジア・ロシア紛争の主因は、ノール・アチャーソン、ジョージ・ヒューイット、ドナルド・レイフィールドらのopenDemocracyの筆者たちが探ったように、同地域の近代史にある。それには、ヨシフ・スターリン(南オセチアとアブハジアが「問題」となる政治的状況を作り出した)とズビアド・ガムサフルディア(ソ連後の初代大統領で、彼の民族主義的な政策は、それらの地域をグルジアの支配から離れさせることになった)などの指導者の政策が含まれる。 
 
 しかし、今日の状況で最も重要な要素は、外部の国が(主に米国とロシアが)対立した世界的、地域的利害を有しー法律用語を使うとー依頼人として行動しているということである。一方、グルジア、アブハジア、オセチアの指導者たちは、自分たち自身の課題を抱え、依頼人たちを操ろうとさえしているのに、依頼人の代理人として見なされざるを得ないということである。openDemocracyでのフレッド・ハリディの議論に関して言えば、時には実際、しっぽが犬を振るかもしれない。もっともそれは、二次的な事柄に関してだけであって、通常、犬自身が振られていることを大して気にしない時だけである。 
 
 グルジアのミハイル・サーカシビル大統領は、テレビ番組で恐らくうっかりと、問題なのはグルジアでもその領土保全でもないと言った。ロシアはグルジアとではなく、西側と戦争状態にあると彼は言った。ある意味では、そうである。けれども、これは、コーカサスでロシアに対して戦争をしているのは西側であることも意味する。 
 
変化する世界秩序 
 
 9・11以後、多くの米国とその他の西側の指導者たちは、西側とその他に対する最も重大な安全保障上の挑戦は、イスラム過激主義とテロリズムであると真剣に信じた。今日、そのような認識は、かなり過去に属するものである。 
 
 1998年に出された影響力のある報告書は、「グレート・ゲーム」、「文明の衝突」、「来るべき無政府状態」、「歴史の終わり」(訳注2)の4つのシナリオを示している。(Zalmay Khalilzad & Ian Lesser, Sources of Conflict in the 21st Century: Regional Futures and U.S. Strategy , RAND Corporation) 著者らは最後の2つのシナリオは、前の2つのシナリオよりありそうもないと考えた。彼らはグレート・ゲーム説を支持しているように見えた。新しいグレートパワー・ゲームでは、西側(まず第一にワシントン)対中国とロシアという構図である。イスラムの脅威は、米国に対する最も重大な挑戦とは見なされていなかった。9・11はそうした優先度を変えたかもしれないが、一時的なものであったのかもしれない。 
 
 この点に関して、ロバート・ケーガン(訳注3)が2007年9月にした議論は示唆的である。「近代化、資本主義、グローバリゼーションという強力で、時に非人間的な力に対するイスラム主義者の戦いは、現代世界における紛れもない重大な事実である。だが、奇妙なことに、近代化と伝統主義の間のこの戦いは、主に国際舞台における前座の出し物である。将来は、過激イスラム主義者の想像上の敬けんな過去を回復するための活動ではなく、グレートパワーの間のイデオロギー的戦いで支配されそうだ」("The world divides....and democracy is at bay", Times, 2 September 2007)。 
 
 このシナリオでは、異なった社会・政治体制、文化を持った国々が、共通の脅威に―地球温暖化、エネルギー資源の不足、大量破壊兵器の拡散、テロにー緊密に協力できるのか、相互関係より国内制度における相違のほうを優越させるのかどうか重大なジレンマになっている。 
 
 ケーガンは次のように書いている。「将来は、過激なイスラム主義者の想像上の敬けんな過去を回復するための活動ではなく、グレートパワーの間のイデオロギー的戦いで支配されそうだ」。彼は米国に対し、次のように助言している。「他の民主主義国とともに、共有する原則と目標を反映し、強化するための新しい国際的な機関を作るべきである。恐らく、民主主義国家の新しい連盟は、今日の問題につい定期的な会議と協議をする」。そのような世界政治の形態の兆しが見え始めているという点で、ケーガンは正しいのかもしれない。実際、もしこれが現在起きつつあるものならば、ケーガンの処方箋に従っている人々の政策の結果、世界の新たな敵対的陣営への分裂はかなり実現しつつある。 
 
 Laurence Jarvikは、主に中央アジアでの西側NGOの役割についての鋭い記事の中で、ザルメイ・ハリルザド(訳注4)とイアン・レッサー(訳注5)が描いた2つの最もありそうなシナリオについて述べている。彼は次のように考える。もし米国が、国内制度が自由民主主義の基準と合致しない国々の安定を損なう勢力(一部のNGOを含む)を鼓舞するのではなく、そうした国々の能力向上を助けるならば、米国と国際社会全体はより利益を受ける。(Laurence Jarvik,"NGOs: A ‘New Class' in International Relations", Orbis, 51/2, Spring 2007)。 
 
 中国やロシアのような国に対する新しいグレートパワー・ゲ-ムの中で、同盟国にしようと、その国の安定を損なうことは、不安定とテロの新しい紛争地域を作ることになるであろう。マイケル・ショワー(訳注6)は「国民国家と戦い、打ち負かすことを好んだブッシュ政権の冷戦的特性は、スンニ派イスラム主義者による一層危険な国境を越えた脅威を計り知れないほど強めた」と言う。(Marching Toward Hell: America and Islam after Iraq, Free Press, 2008)。 
 
 問題なのは、中国とロシアが専制的であり、従って西側民主主義国のように行動しないということではない。アウグスト・ピノチェトのチリは、ワシントンの助言にまったくしっかりと従った。問題は、中国とロシア、台頭しつつあるインドやブラジル、その他の新興国が発言権を持っていないか、ほとんど持たない既存の国際権力構造に同化されることを拒否していることである。それらの国は、彼らの思うままにではないにしろ(それは無理な話である)、少なくとも、ほぼ対等なパートナーの間で交渉するという条件であれば、ロバート・ゼーリック前国務副長官の言葉を借りると、国際社会で「責任ある利害共有者」になるかもしれない。 
 
 リチャード・サクワ(訳注7)は「(ロシアの)国際体制への制約された形の適応は、戦略的方向がはっきりしていたところで現れた。つまり、(長期的には加盟は排除されていないものの)加盟(accession)なき統合(integration)である。だが、統合のペースと形式はロシアの裁量のままに残されている」と書いている。わたしは「加盟」という言葉ではなく、「同化」(assimilation)という言葉を使う。西側の自由民主主義国のようになろうとしている小さな東中欧諸国とは対照的に、中国と同様ロシアは、既存の体制に同化されることを拒否している。 
 
 ボリス・エリツィンのロシアは、西側の助言者に促されて、そのような同化政策をとろうとしたが、国民にとっては悲惨な結果をもたらした。問題は例えば、東中欧の小さな諸国の場合うまくいくことが、より大きな問題を持った大きな国には、まったく性質が異なるかもしれないということである。 
 
 さらに、サクワは「今日の国際体制は、台頭しつつあるグレートパワーの統合のためのメカニズムを持っていない」と言う。その統合の条件は、ワシントンやブリュッセルから指図されるのではなく、協議されるべきである。新しい台頭しつつある現実の中で、ロシアは重要な問題も、それほど重要でない問題でも、不平を言い過ぎてきた。一方、中国は同化の試みに静かに抵抗するという、より賢明でより効果的な戦略を用いてきた(それがチベット、ダルフール、人民元の為替レート、表現の自由をめぐってあれ)。ポール・ロジャーズが示しているように、これは中国が世界に、代償を払うことなしに、商業的影響力、恐らく将来には、政治的影響力を及ぼすことを可能にしている。 
 
 外の世界に対する、このような異なった対応は、さまざまな国民政治の性格によるものかもしれない。しかし、それはロシアと西側の利害が、中国と西側の利害よりも厳しく衝突したという事実を反映しているのかもしれない。もっとも、主要な競争相手が誰になるのか(あるいはすでに誰なのか)は疑いないが。ジェフ・ ダイヤーが指摘するように、サワクの言う「台頭しつつあるグレートパワー」の一つの行動が、世界制度全体に影響力を及ぼすような形で、お互いに影響を及ぼす余地もある(Geoff Dyer, "Russia could push China closer to the west", Financial Times, 27 August 2008)。 
 
 
 ワシントンとその同盟国は、ロシアを同化させる、言い換えれば、ワシントン・コンセンサスに従い、米国が主導する自由世界の秩序に加わる自由民主主義市場国家に変換させることに失敗した。今や、NATOをグルジアとウクライナに拡大し、ロシア国境近くに弾道ミサイル防衛を建設し、エネルギー・パイプラインのルートをめぐってロシアと対抗することによって、ロシアを封じ込めようとしている。 
 
 そうしたグレート(むしろささいな)ゲームでは、アブハズ人、グルジア人、オセチア人や一部の小さな国は(より多数のウクライナ人もまた)、主として歩兵である。彼らの生活と幸せが、将来の政治的世界秩序のために犠牲にされることはあり得る。こうしたゲームは、米国の指導者が主張するような、コーカサスでの民主主義についてでも、グルジアの主権と領土保全についてでもない。また、ロシアが主張するような、南オセチア人を「保護する責任」についてでもない。もっとも、欺まんと自己欺まんの間の線はしばしば非常に細く、そうした主張をする人々の多くは本当に誠実であるかもしれない。こうした見方は、1920年代にそうであったのと同じように真実であり、コーカサスの紛争に関与している主要な国に示されなければならない。 
 
 今世紀の最も素晴らしい音楽家の一人、ワレリー・ゲルギエフがグルジアによって破壊されたツヒンバリの廃墟の中でコンサートを開いた理由をわたしは理解する。それは彼がウラジーミル・プーチンの友人であるからではなく、彼がオセチア人であるからである。(ロシアとグルジアで)人気のある俳優・歌手のヴァフタング・キカビーゼがロシアの政策だけに過ちを見る理由をわたしは理解する。それは、彼がグルジア人であるからである。 
 
 アーネスト・ゲルナー(訳注8)は次のように書いている。「民族主義者が自分たちの国に対する不正へ持つ感受性と同じように素晴らしい感受性を、自分たちの国が行う不正へ持つなら、国民感情の政治的な効果は大いに損なわれるであろう」(『民族とナショナリズム』)。そうした自分のグループしか考えられない考え方(tribal mentality)から自由になれる人々が多くないことは残念なことである。物事を別の面を見るには、しばしば多くの知的努力、勇気と感情面の成熟が必要である。しかしながら、個人的にも感情的にも関与していない人々は、ゲルギエフやシェワルナゼなどの人々を含め双方から、彼らが話し、売り込もうとしていることを額面で受け取ることなく、聞くことが必要である。 
 
強い非対称 
 
 民主主義と人権、さらに主権と領土保全の原則は重要である。だが、それらの価値を侵害しているとして反対者や敵対者を非難する時には、スローガンとしてそれらを繰り返さないことで、それらは促進され保護される。今日の世界では、より静かで安定していた時代以上に、こうした価値は、政治主体の矛盾した言葉や行動を暴露することによって守ることができる。 
 
 コソボ・アルバニア人がセルビア人に迫害されている時に、クレムリンは彼らを保護するために駆けつけることはなかった。ホワイトハウスは、セルビアの領土保全を気に掛けることはなかった。反対に、ワシントンは事実上の独立につながったコソボ州の政権を支持した。モスクワは、トビリシが友人であり、NATO加盟を望んでいなければ、アブハズ人や南オセチア人の独立の願望に対して、そのような理解を持つことはなかったであろう。ワシントンは、グルジアが再興したロシアと戦略的にそのように近くなければ、パプアニューギニアではなくグルジアにおける民主主義の方を気遣うことはなかったであろう。さらに、バクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)パイプラインは、ロシアを迂回して、グルジア領土を曲がりくねって通っている。 
 
 オセチア人とアブハズ人に対するクレムリンの関心は、主に道具としてである。それは、「グルジア人のためのグルジア」というスローガンを使った、ソ連後の初代大統領、ズビアド・ガムサフルディアの近視眼的で性急な政策であった。それは、3代目の大統領、ミハイル・サーカシビルであり、彼の領土に対する強硬策は、地政学的ゲームの本気なプレーヤーなら滅多に見逃すことがない機会をロシアに与えた。小さな国は、世界的なパワーゲームで利用されるというのは事実である。 
 
力の議論 
 
 ロシアやNNATOの指導者も、そうした分析を受け入れないことは明白である。前者は、彼らの動機が不誠実なアングロサクソンの動機とほんの僅かでも似ていると考えられることに対し、聖なる怒りでいっぱいである。一方、後者はヨシフ・スターリン(グルジアでもロシアでも、その独裁者を崇拝する人たちは実際、たくさんいる)の信用できない後継者と比べられることに怒っている。 
 
 しかしながら、そうしたマキャベリ的なアプローチへの代替案は、往々にしてホッブスの世界で行動しなければならないことになる。だが、それはまるでロックの世界にいるかのようである。(ハンス・モーゲンソーによって十分分析されたように)ケーガンは、世界の人々は「国々が変わらずパワーによって定義された利益を追求している」世界に住んでおり、住み続けるであろうということを認めている。もっとも、ケーガンは(モーゲンソーとは対照的に)、西側民主主義国、特に米国は国際政治に道徳を持ち込み、イデオロギーと政権の型が重要である主張して、見事な知的な180度の転換をしているのだが。(Robert Kagan, "Power Play", Wall Street Journal, 30 August)。 
 
 確かに、それらは重要である。特に、西欧のいわゆる「ポストモダン」、ウェストファリア後の国際関係との関連では。クリストファー マイヤー(訳注9)は、現実主義者の伝統により正直に従っている。彼はこう書いている、「仮にロシアが、われわれが世界で広まってほしいと思っている種類の完全に機能した民主主義だったとしても、その外交政策は少しも違わないであろう。そのことにわたしはルーブルの大金を賭ける」。(Christopher Meyer, "A return to 1815 is the way forward for Europe", Times, 2 September 2008)。 
 
 成熟した自由民主主義国は、これまでのところ、互いに戦ったことはない。だが、それらは(特にワシントンンは)他のどの国よりも他に対して武力を行使してきた。(Stephen Kinzer, Overthrow: America's Century of Regime Change from Hawaii to Iraq, Times Books, 2007)。そのような武力の行使は、常に国際法や道徳と合致していた訳ではない。1920年代末にカール・シュミットは、「ある国が人道の名目でその政治的敵と戦う場合、それは人道のための戦争ではない。特定の国が軍事的敵に対して、普遍的な概念を侵害しようとするための戦争である。・・・人道という概念は、帝国主義的拡張の特別に便利なイデオロギー的道具である。倫理的人道的な形では、それは経済的帝国主義の特別の道具である。ここで、プルードンのやや変形した表現を思い起こすかもしれない。人道を呼び覚ませるものは誰でも、だましたいのである」。(Carl Schmitt, The Concept of the Political, University of Chicago Press, 2007)。 
 
現実的反転 
 
コーカサスにおいてどのような種類の措置が取られるのかは、大国、特にワシントンがどのような世界を望むのか次第である。もし米国が、ロシアは西側にとって信頼できるパートナーではなく、従って封じ込める必要があると思うなら、グルジアもウクライナも現実的な限り早くNATOに加盟させるべきである。ロシアをG8から追放し、世界貿易機関への加盟の見通しを閉じること(その他の措置)は有効であろう。欧州は、意味ある経済的制裁が現実的になるには、ロシアの石油とガスに依存し過ぎている。 
 
 そのような場合、ロシアは恐らく正当に、グルジアの離脱した領土をロシアに組み入れ、ウクライナの親ロシア地区で騒乱を起こそうとするである。クリミア半島の将来は重大な紛争の場になるであろう。2017年に20年の貸与期間が切れる時、ロシアがその艦隊をセバストポリから退去させるか疑問である。ウクライナがNATOに加盟すれば、必ずクリミア半島、特にセバストポリをめぐって危機を引き起こすであろう。 
 
 ロシアはワシントン・コンセンサスに従おうとしないし、その経済的・安全保障の利益を守ろうと積極的に主張する。 ( Rein Müllerson, "The New Cold War: How the Kremlin Menaces both Russia and the West", Chinese Journal of International Law, 7/2 [May 2008]) しかし、それにもかかわらず、もし西側(米国を含む)が、宗教が動機のテロや大量破壊兵器の拡散、地球温暖化、エネルギーと食糧の不足などの地球規模の懸念を解決するうえで、ロシアが有益な(時には不可欠な)パートナーであると信じるなら、違ったアプローチを追求する必要がある。確かに、政治家は窮地から後戻りしている時でも、Uターンしているとは決して認めない。しかしながら、それがコーカサス紛争や世界全体での緊張が、予測不能なまでに拡大するのを防ぐために必要なことである。 
 
忍耐の時 
 
 アブハジアと南オセチアの独立を正式に承認することで、ロシアはコソボを承認した西側諸国と同じように軽率に行動した。両者はこうして領土紛争というパンドラの箱をさらに開けてしまった。クレムリンの決定には、2つの大きな間違いがある。 
 
 第1にモスクワは、そうでなければロシアのNATOに対するスタンドプレーを理解するか、歓迎さえもしたかもしれない国々の多くからの支持を今や期待できないでいる。中国やインド、多くの国々は、「自国自身」の少数民族が持つかもしれない独立要求への励みになることに極めて神経質になっている。 
 
 この点では、一部の政治家が新しい国家、例えば、コソボ、アブハジア、南オセチアの承認はそれぞれのケースでまったく異なり、前例とならないと空疎な主張をしているのは、コーカサスもバルカンでも同様に間違いである。このことについての相違や類似点は、見る人によって違ってくる。もし証明が必要なら、ビシュケク(ドゥシャンベが正しいー訳者)での上海協力機構の首脳会議でロシアに与えられた熱意に欠けた支持がそれを証明している。 
 
 第2に、それらを承認して、クレムリンは奥の手を使ってしまった。手の内を見せずに、それを使うと脅し、実際にはテーブルの上に投げないことの方が、クレムリンの利益であったであろう。これはマキャベリ的に聞こえるかもしれないが、オセチア人やアブハズ人の苦境にクレムリンが流している嘘泣きの涙や、グルジア人やウクライナ人の運命にワシントンが流している嘘泣きの涙を信じるよりは、より良く、より正直な事態の評価である。 
 
 今必要なことは、両者とも修辞を抑えることである。その後で、小さな実際的な措置が有益であるかもしれない。ロシアの行動には、西側は行動でお返しをしなくてはならない。NATOは、グルジアとウクライナへ拡張するという方針を直ちには取り消すことはできない。しかしながら、このプロセスを促進するのではなく、ブレーキを掛けることは賢明であろう。ロシアは、これらの離脱共和国を必要としていないことを理解している。必要なのは、友好的なグルジアである。しかしながら、そうしたグルジアになるためには、米国はロシアの囲い込みと封じ込めの目的で同国を使うことをやめなければならない。 
 
 ロシアは。時に不可避的に西側の選ぶものとは異なる自己の利益を追求するが、世界的規模の難題に直面した中で、西側にとってグルジアよりも重要なパートナーである。もし、世界的な「テロとの戦い」が実際に最も重要な問題の一つであるなら、これはとりわけ、本当のことである。ついでに言えば、もし、ロシアが敵(あるいは少なくとも、潜在的な敵として)として、あるいは、パートナー(少なくとも潜在的なものとして)見られない場合にのみ、グルジアやウクライナは、ロシアよりもっと重要なパートナーとなる。 
 
 これは、西側はロシアとの協調関係のために、こうした小さな国を犠牲にするべきであると言っている訳ではない。これらの国は、ロシアと西側民主主義国の間の協力関係からも、彼ら自身のロシアと西側との協力からも利益を得るであろう。ロシアの周辺にある小さな国に対して、どちらか一方を支持するように強制したり、後押しすることーわれわれの側につくのか敵なのかーということはそのような国にとって、極めて不利益である。さらに問題の原因が、ロシア(いわゆる親ロシアの政治家を積極的に支持している)なのか、西側(親西側指導者を支援している)なのかは問題ではない。どちらの場合も、指導者が栄えても、国民は苦しむ。 
 
 当面の措置の一つとして、グルジアは離脱した地域と「武力不行使」の協定を結ぶように説得されるべきである。その後に、他の協力的措置が可能になるかもしれない。仮にグルジアがそれらの領土を奪還できたとしても、ロシアとの永続的友好関係が樹立されてのみ可能である。とちらも、すぐにはそうならないであろう。従って、忍耐が必要である。ここでもう一度、グルジアやロシア、米国よりも中国から学ぶことの方が多いようだ。 
 
欺まんのベール 
 
 わたしは国際法の教授として、国際法の観点から状況を評価することが期待されるかもしれない。わたしはそれができるが、わたしと読者の貴重な時間を浪費することになる。なぜか?コーカサス紛争に直接関与している人々、どちらかの側に強く共感している人たちが、国際法の専門用語を使っている状況のためである。(侵略、占領、ジェノサイド、人種差別、領土保全、平和執行、人道的任務、条約の神聖)という言葉が、何の制約もなく、嬉々として、独善的な怒りで、ジャーナリストばかりでなく詩人もうらやむ自信でもって使われている。 
 
 このような状態で、地味な専門家の私見としては、国際法の学者の一つの任務は、法律の専門用語が隠そうとしている利害を垣間見るために、その悪用されたベールをはぐことである。超大国が新しい対立に向かっているという危険な動向を逆転させることが可能なのは、欺まんと自己欺まんを暴露することによってだけである。その対立は、以前のものとは対照的に、イデオロギー的原因がなく、実利的な利害の相違よりも、共通の脅威と挑戦の方がより重要となっているようだ。 
 
*レイン・ミュラーソン(Rein Müllerson) キングズ・カレッジ・ロンドンの国際法教授。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員教授、国連人権委員会委員。エストニア第一副外相(1991−92年)。 
 
訳注1 ブラジルの作詞家、小説家。 
訳注2 「グレート・ゲーム」は、「中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国の敵対関係と戦略的抗争を指す。アーサー・コノリーが命名した言葉といわれる」(ウィキペディア) 
「文明の衝突」は米国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンの著書の題名。冷戦が終わった現代世界においては、文明と文明との衝突が対立の主要な軸であると主張する。 
「来るべき無政府状態」はジャーナリストのロバート・カプランの著書の題名。冷戦後の世界は、民族紛争が頻発する世界となると主張。 
「歴史の終わり」は米国の政治経済学者フランシス・フクヤマ著書の題名。「『歴史の終わり』とは、国際社会においてリベラルな民主主義と資本主義が最終的な勝利をおさめ、それ以上の社会制度の発展が終わり、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという、将来における仮説である」(ウィキペディア)。 
訳注3 米国政治評論家、ネオコンの代表的論者。 
訳注4 米国連大使。アフガニスタン駐在大使、イラク駐在大使を務めた。 
訳注5 ワシントンのシンクタンク、米国ドイツ・マーシャル基金の上級研究員。 
訳注6 前CIA職員、ビンラディン班長。 
訳注7 ケント大学ロシア欧州政治学教授 
訳注8 歴史学者、哲学者、社会人類学者。『民族とナショナリズム』岩波書店刊 
訳注9 英国の前駐米大使 
 
 
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原文 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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