2008年11月08日15時43分掲載  無料記事
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世界経済

自由競争と自由放任を混同するな スミスが今生きていたら異議を 安原和雄 

  米国大統領選で圧勝した民主党のバラク・オバマ氏が直面する最大の課題は、ブッシュ政権時代に特に顕著となった新自由主義(=新保守主義)路線を根本的に転換させることである。貪欲な自由放任経済の推進によって米国を「貧困大国」へと転落させ、しかも米国発の世界金融危機を発生させたからである。一方、ヨーロッパ、特にドイツではカール・マルクスの資本主義批判の著作『資本論』が学生たち若者の間で飛ぶように売れている。その背景としてやはり世界金融危機さらに新自由主義の破綻を挙げることができる。 
 マルクスが復活すること自体は、興味深い現象だが、あえていえば、『国富論』の著者、アダム・スミスこそが正しく復活して欲しいときといえる。なぜならスミスは新自由主義が説く「自由放任」の元締めとしてしばしば誤解されてきたからである。 
 いまスミスが生きていたら、「私は自由競争と倫理の重要性を力説したが、自由放任を主張したことはない。自由競争と自由放任を混同しないで欲しい」と異議申し立てをするにちがいない。自由競争と自由放任の違いを正しく認識することは、破綻した新自由主義のつぎの市場経済、さらに資本主義そのものをどう改革していくかを考える上できわめて重要である。 
 
 「スミスの国富論は、聖書とマルクスの資本論と並んで、いい加減な読者が読みもしないくせに引用することが許されると思ってい3冊の本のうちの一つである。スミスの場合、これは全く惜しいことである」 
 以上は米国の経済学者、ジョン・K・ガルブレイス(故人)の著作『経済学の歴史』の一節である。スミスの真意が理解されないで、しばしば誤解されているという意味だろう。 
 
▽誤解の中のアダム・スミス 
 
 スミス(注)はどのように誤解されているのか。典型例は、スミスといえば自由放任、自由放任といえばスミスというイメージがかなり定着していることで、これは日本に限らない。例えばスミスの母国イギリスで編纂された『岩波・ケンブリッジ 世界人名辞典』(岩波書店、1997年)は、スミスについて「『国富論』の中で、分業、市場機能、自由放任主義経済の国際的な意味など、経済活動の自由を生み出すものを考察した」と書いている。 
 自由放任主義という表現を使っていることからも分かるように、スミスすなわち自由放任という理解が世界に広がっているといっても過言ではない。しかしこれは大いなる誤解である。 
 (注)アダム・スミス(Adam Smith 1723〜90年)は「経済学の父」とうたわれたイギリス(スコットランド生まれ)の経済学者であり、同時に道徳哲学者であった。主著として『道徳感情論』(初版・1759年)と『国富論』(または『諸国民の富』初版・1776年)が著名。 
 
 「自由放任は誤解」という意見を紹介しよう。 
 イギリスの著名な経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883〜1946年、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』)は論文「自由放任の終焉」で「自由放任という言葉はスミスの著作の中には見当たらない」と述べている。 
 日本におけるアダム・スミス研究家として知られる高島善哉一橋大学名誉教授(故人)も「スミスの書物のどこを探しても、自然的自由、自由競争という言葉はいたるところでお目にかかるが、自由放任という言葉はついに出てこない。スミスの社会哲学原理からいって当然のこと」(高島善哉著『アダム・スミス』、岩波新書)と指摘している。 
 
▽「正義の法」の下での利己心と自由競争 
 
 スミスは私的利益(=利己心)の追求と自由競争の必要性は繰り返し強調している。しかし「スミスすなわち自由放任」という捉え方が誤解だとすれば、なぜそういう誤解が生じたのか。自由競争と自由放任とはどう違うのか。ここが問題である。 
 日本での誤解の一因になっていると思われる岩波文庫『諸国民の富』(大内兵衛・松川七郎訳、第一刷1965年)のつぎの一節(〈三〉502頁)を紹介したい。 
 「あらゆる人は、正義の法を犯さぬかぎり、各人各様の方法で自分の利益を追求し、(中略)完全に自由に放任される」 
 
『諸国民の富』の中で「完全に自由に放任される」つまり「自由放任」と受け取ることができる訳語はここ一カ所である。私的利益と自由競争を強調するスミスのイメージと重なって、スミスすなわち「laissez faire レッセ・フェール(自由放任)の主張者」というイメージが定着したのは、この日本語訳にも一因があるのではないか。 
 
 参考までにこの一節の原文・英文を紹介すると、つぎのようである。 
 Every man , as long as he does not violate the laws of justice , is left perfectly free to pursue his own interest his own way , ・・・・・ 
 
 旧訳から36年振りに新訳として出版された岩波文庫『国富論』(水田洋監訳 杉山忠平訳、第一刷2001年)によると、上記の部分はつぎの日本語訳(『国富論』3・339頁)となっている。 
 「だれでも、正義の法を犯さないかぎり、自分自身のやり方で自分の利益を追求し、(中略)完全に自由にゆだねられる」 
 旧訳の「完全に自由に放任される」から新訳では「完全に自由にゆだねられる」に修正されている。これなら「自由放任」という誤解は生じないのではないか。 
 
 これで「自由放任」に関する誤解は解消するが、もう一つ重要なことは、上記の同じ一節から分かるようにスミスは無制限なしかも勝手気ままな利己心=私的利益の追求のすすめを説いたわけではないという点である。「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。これは単に法律を犯さなければよいという意味ではなく、倫理、道徳上の制約とも理解できる。いいかえれば利己心の発揮には「正義の法」の遵守が前提であり、不可欠であることを強調している。この一点を見逃してはならない。 
 
▽スミスに還ることの今日的意義 
 
 重要なことは、スミスは無制限の自由放任を説いたのではなく、「正義の法」の範囲内での自由競争を説いたという事実を適正に理解することである。これを今日、スミスに還って確認することはどういう意義を持つだろうか。 
 
 第一に米国発の世界金融危機をもたらしたのは、「市場は万能」という旗を掲げて、一切の規制も倫理もモラルも排除し、自由放任路線を暴走した新自由主義(=市場原理主義)であるが、スミスの経済・道徳思想はその新自由主義=自由放任主義とは縁もゆかりもないということである。スミスを新自由主義=自由放任主義の元祖だと考えるとしたら、それはとんでもない誤解である。いいかえれば今回の世界金融危機の責任は新自由主義者たちにあるのであり、スミスの経済・道徳思想にその責任はない。 
 
 第二に、このことは新自由主義破綻後の市場経済のあり方に深くかかわってくる。ここで2つの路線選択が考えられる。一つは自由放任(レッセ・フェール)型市場経済の復活であり、もう一つは「正義の法」型市場経済の構築である。 
 前者の性懲りもない復活の可能性が消えたわけではないが、もはやこれは望ましい選択ではない。望ましいのは後者の路線である。ご苦労だが、スミスに21世紀の世界に再登場してもらうべき時である。つまり21世紀にふさわしい「正義の法」型市場経済をどう構築していくか、それが今後最大の課題となるだろう。 
 
▽21世紀版「正義の法」のイメージは? 
 
 仮にスミスが現代に生き返るとすれば、どういうイメージで市場経済のあるべき姿を構想するだろうか。18世紀のスミスではなく、21世紀のスミスとしてよみがえるのである。それは新しい21世紀版「正義の法」として説くのではないだろうか。それがスミスを21世紀に生かす道ともいえる。 
 
 その第一の柱は同感(sympathy)である。 
 これはスミスの『国富論』と並ぶもう一つの主著、『道徳感情論』に出てくるキーワードである。自分あるいは他人の行為の是非を判断するときの原理となるのが同感で、これは「中立的かつ公平無私な見物人あるいは観察者」の立場からなされる。 
 例えば高い地位をめざす競争で、競争相手を追い抜くために力走していいが、もし競争相手を踏みつけたり、引き倒したりすれば、同感の原理に反し、フェア・プレーの侵犯として「公平無私の見物人」は許さない、とスミスは述べている。 
 この同感は、野放図な新自由主義路線のために乱れきった企業モラルを是正する原理として、そのまま21世紀の今にこそふさわしい。 
 
 第二は地球環境の汚染・破壊を食い止めるための社会的規制など市場をコントロールするための新しい枠組みである。これは21世紀最大の課題である「持続可能な経済社会」づくりに不可欠である。新自由主義者たちには自己利益への関心は異常なほど強いが、地球環境への関心は皆無に等しい。その意味でも、新自由主義者はもはや21世紀の経済を担う資格はない。 
 
 最近の「ニューズウィーク」誌(英語版、08年11月3日号)は特集「A Green New Deal」を組んでいる。その趣旨は大恐慌発生後の1933年に就任したフランクリン・ルーズベルト米大統領が実施した「ニューディール」(大規模な公共投資など)に「グリーン」、すなわち地球環境保全策を組み入れた現代版が今の米国には不可欠というものである。 
 具体的には「クリーンエネルギー経済」(投資額は10年間で1500億ドル=約15兆円)を発展させ、500万の新規雇用を創出し、同時に地球を汚染、破壊から救出する ― という構想である。これには次期米大統領のオバマ氏も参画している。 
 
 第三は「脱・経済成長主義」をめざす「知足の精神」も必要なときではないか。資本主義的市場経済下での経済成長主義がもたらす資源・エネルギーの過剰浪費と過剰廃棄をどう抑制するかが大きな課題となってきた。経済成長すなわち生産・消費・廃棄の「量的拡大」ではなく、国民生活の「質的充実」をめざすときである。質的充実は知足の精神と両立しうる。 
 
 第四は経済のグローバル化にともなう巨大な「負の影響」の是正策である。例えば証券・為替市場における投機化と暴力化すなわちカジノ資本主義化を封じ込めるための規制、さらに地球規模で広がる飢餓、失業、貧困、疾病、水不足などへの対策も不可欠である。これは地球規模での生存権をどう保障するかという課題である。 
 
▽社会的規制と共存できる「自由競争」、「市場経済」を 
 
 以上の「21世紀版正義の法」のうち第二から第四まではスミスの視野にはない。それはスミスの時代が求めていなかったからである。スミスの責任ではない。だから今日、スミスに学び、生かすためにはスミスに還り、そしてスミスを超えなければならない。どう超えればよいのか。 
 
 スミスが私的利益の追求と自由競争をすすめたのは、市場経済の「見えざる手」に導かれて「社会的利益=公共の利益」の実現に貢献できると考えたからである。しかし今日、経済の寡占化、多国籍企業型巨大企業による支配力の強化などのため、私的利益の追求が「見えざる手」の働きによって社会的利益につながるとは限らない。これが「市場の失敗」といわれるものである。その結果、生じたのがカジノ資本主義であり、地球環境の汚染・破壊であり、資源・エネルギーの浪費であり、飢餓、失業、貧困、格差、人間疎外などであり、資本主義体制そのものの限界も問われることになった。 
 
 21世紀の社会的利益とは、いうまでもなくカジノ資本主義の是正であり、地球環境保全であり、資源・エネルギーの節約であり、さらに飢餓、失業、貧困、格差、人間疎外の解決 ― などである。これらの「社会的利益=公共の利益」を実現するためには「市場の失敗」を補正する必要がある。その有力な手だてとなるのが金融規制であり、さらに社会的規制(自然環境、土地、都市、医療・福祉、教育、労働などの分野での公的規制)である。 
 金融規制や社会的規制を剥ぎ取って、貪欲な資本を暴走させる「自由放任経済」はもはや百害あって一利なし、である。新自由主義破綻後の「自由競争」、「市場経済」は以上のような金融規制、社会的規制と共存できるものでなければならない。 
 
(付記:この記事は安原和雄の論文「アダム・スミスを今日に読み直す―経営倫理を求めて〈�供咫弑鞏径膤慂�教経済研究所編『仏教経済研究』第28号、1999年5月=が下敷きになっている) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/ 


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