2008年11月13日10時56分掲載  無料記事
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世界経済

相次ぐ新自由主義者たちの変節 新しい時代への転換を察知して 安原和雄 

  新自由主義者たちの変節が相次いでいる。その筆頭は新自由主義路線を最初に導入した中曽根元首相である。同氏は米国発の世界金融危機の背景に「モラルなき拝金主義」を見てとり、打開策としてモラルの重要性を説きはじめた。1980年代前半の首相現役時代には倫理、モラルについて揶揄(やゆ)することはあっても、その重要性には見向きもしなかった。その人物がモラルを強調するに至ったのは、なぜか。世界金融危機とともに破綻した「モラルなき新自由主義」のつぎの新しい時代への転換を察知してのことであるにちがいない。新時代はモラルなしには築くことはできないという思案のゆえであろうか。しかし新自由主義がもたらした大きな災厄への責任と自己反省はどこまで期待できるのか。 
 
▽モラルの重要性説く中曽根元首相 ― 「世界中に病原菌ばらまいた米国」 
 
 朝日新聞(08年11月8日付)は中曽根康弘元首相とのインタビュー記事を載せている。題して「経済危機の行方 世界は」である。その要点を見出しとともに以下に紹介する。「モラルの重要性」を力説しているのが印象に残る。同時に「米国は証券の名において世界中に病原菌をばらまいた」との認識を語っている。 
 
*背景にモラルなき拝金主義 
 これまで米国は経済や金融の世界を牛耳ってきた。しかし先端を行く経済、社会が、実は内部にこれだけの病菌を抱えていた。証券の名において世界中に病原菌をばらまき、発病に至って大騒ぎになったわけだ。米国の経済、国家のあり方について歴史が厳正な批判を要求してきている。 
 何を改めていくべきなのか。世界中でこの難問を解いていかなくてはならない。まず言えることは、富にはモラルが付着していなければならないということだ。今回の異変は、モラルなき拝金主義から起きている。人類の堕落を防ぐにはモラルがますます不可避のものとなる。 
 政治、経済、社会、あらゆる面でモラルがもっと深く食い込んでこなければ、人類自体が危うい。そういう時代に入りつつある。 
 
*米国に代わりG20を司令部に 
 現代においては、環境や資源など地球的規模の課題が、かつてのソ連の脅威に匹敵する切迫さをもって迫ってきている。 
 米国による一極支配から転換し、新しい時代における世界協調のあり方を検討し直すべき時を迎えた。 
 地球規模の環境や資源などの人類的課題について、もっと具体的に、真剣に、対策を講じていかなければならない。いまG7だけでなくG20(主要国に新興国を加えた20カ国)が接近し、同じ方向に動こうとしている。このG20を恒常化し、基本戦略司令部とすることが望ましい。 
 自由と民主主義と資本主義の3者連携の時代はまだ続くだろうが、その資本主義の内容自体は、新しい情報社会の出現によって再点検されるべき要素がかなりある。 
 
*日本主導でアジアの声上げよ 
 麻生政権は総選挙の時期や国会対策などをめぐって忙殺され、いま起きている問題の歴史的意味や、今後日本が世界に示すべき政策にまでは思いが至っていない。 
 本来なら日本が主導して、アジアの総意、いわばアジアの「連合意思」といったものを形成し、欧米に説いていくということがあってよい。 
 アジア人が立脚している基本思想、基本哲学は欧米的なものとは違う。アジアでは自然主義的な観点から出発する思想が普遍的だ。米国発の病に苦しむ世界でアジアが声を上げることは、歴史的な意義を持つ。 
 日本が、たとえば2020年を目標とする10年計画で、アジア的発想を世界に生かすための方策を、アジアの総意として具現化していければ、大きな意味がある。もちろんそこにはモラルが一貫して付随していることが基本だ。モラルから物事を考えれば、偏狭なナショナリズムは排斥される。 
 
〈安原のコメント〉― 「リンリ」を揶揄(やゆ)した中曽根氏の変節 
 中曽根元首相が世界金融危機の背景に「モラルなき拝金主義」の存在を指摘したのは正しい。その通りである。ただ繰り返し「モラルの重要性」を説く発言を読みながら、いささか唖然とせざるを得なかった。多くの人にとってはほとんど忘却の彼方へと消え失せているかも知れないが、元首相は首相現役時代(1982〜87年)にこう発言したことがある。 
 「リンリ、リンリと鈴虫でもあるまい」と。 
 構造汚職と政治倫理が総選挙の争点に浮かび上がった時のことである。政治倫理を求める民の声に「リンリ」すなわち「倫理」を揶揄(やゆ)したのである。私はこの発言に触れてつぎのように評した。 
 
 「一国の政治指導者の倫理観がこの程度の国柄だから、道義、倫理、モラルが喪失したからといっても、一向に不思議ではない。(中略)経済の低迷自体はさして悲観するに足りない。不況によって日本という国が沈没すると考えるのは、錯覚である。道義、倫理、モラルの喪失こそが社会を、国を破綻に導く。(中略)道義、倫理、モラルなき市場経済は、貪欲な私利追求のあまり、そのまま弱肉強食の熾烈な闘い、対立抗争の拡大へと暴走する恐れが多分にある」と。 
 
 この評論は、2001年に小泉政権が誕生し、構造改革の旗を掲げた新自由主義路線が暴走する以前のことである。とはいえ、すでに中曽根政権時代から新自由主義は始まっており、弱肉強食をごり押しする新自由主義への批判と同時に、一国の政治指導者の倫理観欠如を批判することに狙いがあった。その元首相がいま、モラルの重要性に言及するとは「おや、おや」という印象であり、その見事な変節ぶりにはむしろ感嘆するほかない。 
 
▽経済同友会シンポジウムを聴いて ― 新自由主義への反省も 
 
 08年11月7日、東京都内で開かれた経済同友会(代表幹事・桜井正光リコー会長)主催シンポジウム「新・日本流経営の創造」を聴く機会があった。参加したパネリストは氏家純一氏(野村ホールディングス会長)、リシャール・コラス氏(シャネル社長、欧州ビジネス協会会長)、中谷巌氏(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長)、長谷川閑史氏(経済同友会 副代表幹事・企業経営委員会委員長、武田薬品工業社長)の4氏で、司会は西岡幸一氏(日本経済新聞社客員コラムニスト、専修大学経済学部教授)。 
 
 シンポジウム開催の意図は以下の通りである。 
 世界での日本の地盤沈下に歯止めをかけ、再浮揚させる方策が求められる。2008年7月、経済同友会は今後の企業経営のあるべき姿を「新・日本流経営」として提言書をまとめた。企業が自らの強みをさらに強化し、一方、日本の歴史的背景から起因する弱みを変革、あるいはコントロールすることによって成長の持続可能性を探らなければならない。シンポジウムでは、本提言を出発点として21世紀における日本企業のあるべき姿をどう実現させるかを探る ― と。 
 
パネリストの発言で特に印象に残ったのが中谷氏の「新自由主義への反省の弁」である。その趣旨はつぎのようである。 
 
 日本企業の現場主義の強みがなくなりつつあるのではないか。その背景として、信じていた新自由主義は果たして正しかったのかという反省がある。新自由主義の結果、貧困、格差が広がってきた。 
 例えば一国の貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者層の割合を指す)をみると、先進国の中で何と米国が第1位、日本が第2位となっている。また非正規雇用も増えて職場内での自由な対話・交流が成立しなくなっている。職場の分断ともいえる状況で、これではかつての現場主義の強みがなくなるのは当然ともいえる。 
 国際競争力の国際比較をみると、日本は20位で、上位5位には北欧諸国がランクされている ― と。 
 
〈安原のコメント〉― 新時代への転換の始まり 
 中谷氏は1973年ハーバード大学経済学博士。その後一橋大学教授(後に名誉教授)、細川内閣の首相諮問機関「経済改革研究会」委員、小渕内閣首相諮問機関「経済戦略会議」議長代理、ソニー取締役(後に取締役会議長)などを歴任した。現在は三菱UFJリサーチ&コンサルティング(前三和総合研究所)理事長のほか、多摩大学教授・ルネッサンスセンター長、数社の取締役などを務める。 
 
 この経歴から分かるように経済学者として、政府がすすめる規制緩和、自由化、民営化の推進にかかわってきた。小泉構造改革という名の新自由主義を小泉首相とのコンビで積極的に推進した竹中平蔵氏(小泉政権の経済財政担当相、現在慶応大学教授)ほどではないにせよ、中谷氏も新自由主義推進の一役を果たした。 
 その彼が「新自由主義への反省」の弁を語るのを聴きながら、「新自由主義破綻後の新時代への転換が始まりつつある」と感じないわけにはいかなかった。 
 
▽新自由主義者たちに、その心底を問う ― 罪悪感はないのか 
 
 中曽根氏はいうまでもなく新自由主義路線を1980年代初頭、首相として最初に日本導入を図り、そのレールを敷いた人物である。日本独自の構想ではなく、当時の米国のレーガノミックス(レーガン大統領による新自由主義)、英国のサッチャリズム(サッチャー首相による新自由主義)を模倣したものである。 
 新自由主義は、道義、倫理、モラルを排除する市場原理主義すなわち市場万能主義であり、無慈悲な弱肉強食の競争を強要し、「誰でもよかった」などとうそぶく殺人、自殺、失業、貧困、長時間労働、人権無視、格差拡大 ― など多様な暴力を日本列島上に広げた。武力行使による戦争だけが拒否すべき暴力なのではない。今、日本列島は戦争に劣らない暴力が荒れ狂う事実上の「戦場」と化している。その元凶が新自由主義である。 
 
 そういう新自由主義推進の一番手が今やモラルを説くに至った。新自由主義の先導者として、多少なりとも罪悪感はないのだろうか。 
 しかも「証券の名において世界中に病原菌をばらまいた米国のあり方について歴史が厳正な批判を要求している」とまで言い切った。さらに今後の世界や日本のあり方について「米国に代わりG20を司令部に」、「日本主導でアジアの声上げよ」と新たなビジョンを描いて見せた。 
 
 これでは「米国中心の時代は終わった」と明言したに等しい。もちろんこの認識自体には賛同できる。ただ首相現役時代に「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」などの発言で日米同盟一体感に固執した頃からみると、見事な変節といってもいい。 
 変節とは、信念・主義・主張を変えることを意味し、良い意味には使われないが、新自由主義破綻後の新しい時代への転換を察知したうえでの変節であるなら、意味のないことではない。「過ちを改むるに憚(はばか)ることなかれ」である。「君子豹変す」ともいう。しかし気づくのがいかにも遅すぎるのではないか。 
 
 これからも周囲の状況変化を見て、都合良く立ち回る風見鶏(かざみどり)よろしく「前・元・新自由主義者」と名乗る輩(やから)が続出するにちがいない。新自由主義を暴走させた、その悪しき産物として日本列島上に広がる眼前の無惨な現実、そして今後長期間続くであろうその後遺症を彼らはどう眺めるのか、その心底を問うてみたい。 
 
(付記:この記事は安原和雄の論文「武士道を今日に読み直す ― 「経営倫理」を求めて」駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第27号、1998年5月=が下敷きになっている) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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