2010年04月02日02時38分掲載  無料記事
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文化

サリンジャーよ、永遠に!  フランスの作家ル・クレジオによる追悼の一文  村上良太

1月27日、アメリカの作家J.D.サリンジャー(1919-2010)が亡くなりました。享年91。「ライ麦畑でつかまえて」や短編集「ナイン・ストーリーズ」など、その作品は社会からドロップアウトしていく若者の心情を描いています。フランスの作家ル・クレジオはサリンジャーの死から10日ほど後のルモンド紙(2月8日)に「サリンジャーよ、永遠に」と題する一文を載せました。 
 
ル・クレジオがサリンジャーの小説に出会ったのはアルジェリア独立戦争の真っ只中でした。サリンジャーの読まれ方は太平洋を越えた日本と大西洋を越えたフランスとでは大きく違っていた事がわかります。 
 
「1950年代末に僕の世代がどうサリンジャーを発見したか、それを伝えるのは中々難しい。サリンジャーといえばカルト作家と思われがちだけれど、僕はその言葉が嫌いだし、きっとサリンジャーも嫌いだったんじゃないか」 
 
1940年生まれのル・クレジオはサリンジャーの小説が次々と発表されていた50年代に、思春期を過ごしていたことになります。当時、フランスでは実存主義が流行していました。 
しかし、ル・クレジオはこんなことを言っています。 
 
「ボリス・ヴィアンを別にすると、当時のフランス文学は面白いものではなかった」 
 
その後アラン・ロブ=グリエやナタリー・サロートらによって書かれたヌーボーロマンも、その文学的な意義は認めても、正直なところ読みづらいものだった、と言います。そんな時サリンジャーが海を越えて紹介されました。 
 
「「エズミに捧ぐ −愛と汚辱のうちに」(For Esme with Love and Squalor)を読んだ時、目くるめく感じを受け、それは恍惚と言っていいものだった。海の向うに未知の作家が存在し、僕が抱いていた感覚を、僕が言いたかった思いを表現していた。」 
 
短篇「エズミに捧ぐ」は1944年のノルマンディ上陸作戦の直前、英国に駐留しているアメリカの若い兵士がふと入った教会で聖歌隊の幼い姉弟に出会う話です。もうじき、とてつもない侵攻作戦に参加しなくてはならない。生きて帰れる保証もない。英国でひとり孤独でもある。そんな時、ふと入った教会の聖歌隊の中で一番声の通る13歳ぐらいの娘に目が行きます。隣の喫茶店に入ったら偶然またその娘さんが隣の席に座った。ちょっとした会話が交わされ、個性的で無垢な姉弟に主人公の淋しい心は一時救われます。 
 
「いつでもよろしいのですけど、わたしだけのために、短編をひとつ書いてくださったら、とてもうれしいんですけれど。わたし、ご本が大好きなんです」 
私は、できれば、本当にそうしたいと答えた。が、あまり多作じゃないともつけ加えた。 
「そんなに多作じゃなくて結構よ!子供っぽいたわいのないものでなければいいの」といって、彼女はちょっと考えていたが「どちらかと言えば、汚辱の話が好き」と言った。 
「何の話ですって?」私は、身を乗り出して言った。 
「汚辱。わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」 
(野崎孝訳「ナイン・ストーリーズ」収録より) 
 
ちなみにこの「汚辱」はsqualorの訳ですが、学研の辞書ANCHORによると、「きたなさ、むさ苦しさ、みじめさ」と出ています。一体、なんでこんな幼い聖歌隊の娘が「汚辱」の話を書いて欲しい、と言うのか。主人公は驚きます。会話の中で、このエズミという名の娘の父親は北アフリカの戦線で死亡したことが明かされます。こんなに幼い娘が「汚辱」について洞察を持っていて、しかも、主人公がもうじき侵攻作戦に参加するであろうこともうすうす感づいているのです。そして別れ際、「さよなら」と言ってから、彼女はこうつけ加えます。 
 
「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」 
 
1945年、ドイツ降伏の数週間後、主人公はドイツに駐留しています。戦争の後遺症で神経衰弱に陥っていました。歯茎からは血が流れ、指が震え、ゴミ箱に嘔吐しています。そんな時、ふとエズミから届いた手紙があったことに気づきます。消印は1944年で、転送を繰り返されてきたことがわかります。主人公は封を開けて読みはじめました。 
 
「・・・ノルマンディ上陸作戦開始のことで、わたしたちはみなすごく興奮するとともに粛然とした気持ちになり、これによって戦争がすみやかに終結し、どう見ても愚劣としか言いようのない現在の生活に終止符が打たれることをひたすら望んでおります。チャールズも私もあなたのことを案じ申しております。そして、コタンタン半島に最初の先制攻撃をかけた人々の中にあなたが入っていないようにと願っています。・・・」 
 
思いがけなく、陶然とひきこまれていく快い眠気を覚え、主人公に生きる希望が蘇えります。本当の眠気を覚える人間は無傷のままの人間に戻る可能性があると考えたからです。 
 
1944年、25歳だったサリンジャーはノルマンディ上陸作戦に参加しています。サリンジャーの描く無垢な存在の後ろにはおびただしい屍が横たわっていました。初期の一編を読めばカルト的小説などではなく、堂々たる反戦小説であることがわかります。 
 
「若者は人生の模範となる人間を必要とします。僕にとってそれがサリンジャーでした。その生き方もその作品もともにです。「バナナフィッシュにうってつけの日」(A Perfect Day for Banana Fish )や「テディ」(Teddy)などです。とりわけ最初の短編集に収録されていた「エズミに捧ぐ」を読むと、第二次大戦中の兵士たちの食堂に大作家が音を立てて現れたような印象がありました。」 
 
ル・クレジオがサリンジャーを発見した1950年代、フランスはアルジェリアの独立を阻止しようと汚い戦いを繰り広げていました。ル・クレジオが最初の小説「調書」を書き上げたのは1963年、アルジェリア独立戦争終結の翌年でした。「調書」の中で通俗的な生き方を拒否して彷徨する青年の姿は「ライ麦畑でつかまえて」の中で放校処分となって放浪する少年ホールデンと通底します。ル・クレジオは処女作を書いた動機を、破滅に向う文明を変えるために新しい文学を創ろうとしたと以前、語っていました。 
 
短編集「ナイン・ストーリーズ」の一篇「バナナフィッシュにうってつけの日」では戦後の繁栄と自由を謳歌しているはずの青年が銃で自分の頭を撃ちぬきます。彼も戦争の傷を心に持っていました。しかし、妻や周囲の人間は彼の懊悩や傷をまったく理解していないことが描かれています。サリンジャーはそれを深刻にでなく、軽いタッチで描写しました。 
 
サリンジャーは1960年代を境に発表をやめ、沈黙を守りました。 
 
「サリンジャーにはずっと書き続けて欲しかった。しかし、彼がもう出版しないという事が明らかになり、「ニューハンプシャーで妻と飼い犬と」の中でいつか彼が語っていたように、書く事を続けるより、バラを育てて暮らす生活を彼が取ったという伝説が定着した。そのとき、ちょっと悲しかったが、作家というものは自ら作り上げた登場人物に近づいていくものであり、一度語ったら後は沈黙するものだと僕は考え、ある種の安心感も抱いた。」 
 
今、出版業界はサリンジャーリバイバルというブームにあります。書店で見る本には「永遠に輝き続けるサリンジャーの小説世界 人生の孤独を理解した後に読み返すべき、青春文学の金字塔」(新潮文庫)、「発表から半世紀、いまなお世界中の若者たちの心をとらえつづける名作の名訳」(白水uブックス)などと書かれた帯がつけられていました。村上春樹や柴田元幸による新しい翻訳も出ています。読み方は様々でしょうが、ル・クレジオにとっては戦争という巨大な悪に文学がどう向き合うか。それを考える小説となったのだろうと思います。 
 
村上良太 


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