2010年07月05日22時40分掲載  無料記事
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テレビ制作者シリーズ13  中国庶民の生を伝える島直紀ディレクター    村上良太

7月、日本政府が中国人の個人観光客に与えるビザの発給要件を緩和したことがニュースになりました。中国政府が人民元のドルペッグ(固定)をやめてレートを切り上げる方針もニュースになったばかり。中国については軍事の増強ぶりや経済大国ぶりが伝えられる一方、中国人とは何かについてはまだまだ知られていません。 
 
そんな中国人について粘り強く報じてきたテレビ制作者が日本電波ニュース社の島直紀さんです。NHKハイビジョン特集「上海発ふるさと行きバス」(2007年4月4日放送)は中国人の素顔を描いた興味深いドキュメンタリーでした。旧正月に里帰りする上海在住の若者3組を追いかけた番組です。 
 
■上海バスターミナルに見る人生 
 
取材が行われた時はリーマンショック前。上海は空前の活況を呈していました。上海在住者1700万人のうち400万人が出稼ぎ労働者と言われていますが、そのうち60万人が上海のバスターミナルに押しかけたのです。人の流れは深夜まで絶える事がありません。 
 
怒涛の人波から取材班が目を向けたのは重慶行きの長距離バスに乗る人々でした。重慶は内陸部へ行く分岐点で重要なターミナルです。帰省客の多くは重慶でバスを乗り替え、その先に向います。そこで取材班も重慶行きのバスにのれば、重慶で乗り換える様々な目的地を持つ人々に会えるだろうと考えました。 
 
しかし、重慶までの走行距離はなんと2000キロ。休憩時間を除いても34時間かかります。3人の運転手が4時間交替でハンドルを握りますがバスの中にはトイレがありません。3時間ごとにトイレ休憩があるだけです。バスには寝台までついています。若者達は重慶で下車した後、さらにその先の目的地を目指してバスを乗り継ぎます。ここまでして帰る故郷とはいったい何なのか。 
 
番組が特にフォーカスしたのは上海に出稼ぎに来た青年と彼が上海で出会った恋人でした。女性は上海育ちで他の地方に行った事がありません。中国と一言で言っても内陸は食事の味付けから、食材、さらには言葉まで違います。バスも二日目に入ると彼女の不満も高まります。食堂も味付けが上海と違って辛口で彼女の舌に合いません。それでも青年は彼女をなだめ続けます。かつてはこの青年も上海行きのバスに乗って一人故郷から出てきたのです。淋しく不安になった彼女の気持ちがよくわかると、彼は取材班に説明します。 
 
二人の仲はバスの中で一度は危機に陥りましたが、バスを乗り継いでたどりついた四川省の家族は息子の恋人を心から歓迎してくれました。食事も暮らしも質素ですが、歓迎の気持ちが彼女に伝わったのです。旧正月を過ごした後、上海行きのバスに乗った青年の目に涙が浮かびます。彼女は今では青年の思いを理解し、受けとめることができるまでに成長しています。 
 
■不況の上海バスターミナルを再訪 
 
2年後、島さんのチームは再び上海のバスターミナルを取材しました。NHK・BSドキュメンタリー「上海バスターミナル〜不況下の帰省ラッシュ〜」(2009年2月19日放送)です。今度は、リーマンョック後の大不況で、バスターミナルも2年前とは打って変わって閑散としています。今回はバスの旅でなく、不況下の上海バスターミナルに密着して、そこに集まり、去っていく人たちを描いています。 
 
冒頭で給料がもらえなくて自殺したい、と思いをぶつける男が登場します。みな口々に窮状を語ります。出稼ぎで家族がばらばらになり妻からの連絡がとだえてしまった男性と幼い息子からなんとも言えない寂しさが伝わってきました。お金も底をついています。しかし、バスターミナルの職員が手を差し伸べ、故郷への切符と弁当を与えます。番組から巨大都市で生きる人々の人恋しさ、家族と過ごしたいという思いが立ち上ってきました。 
 
■中国報道の原点 
 
これらの番組を作った思いを島さんはこう語りました。 
 
「中国人と言うと、利にさといという印象を持つ人が多いですが、中国の庶民はもっと人情があります。そうした普通の中国人の姿を伝えたいと思いました」 
 
島さんが中国の取材を始めるようになったきっかけは1991年にインドシナ在住の華僑のドキュメンタリーを作ったことでした。移民で立場がいいわけではないのに、なぜ華僑はアジア各地で経済力を持っているのだろうか?そんな疑問を持ったのが始まりだったそうです。 
 
その後、中国に支局を置きたいと思ったそうですが、日本電波ニュース社は文化革命の時、批判的立場を取ったために支局閉鎖を余儀なくされていました。そこで95年にまず中国に近い香港に支局を開きます。98年には香港の対岸に位置する深センで、日本人が経営し中国人が寮に住み込みで働いている中小企業団地を取材しました。そこで島さんが目にしたのは中国人の果てしないエネルギーでした。 
 
「携帯電話のモーターを作っている工場団地で、1部屋に1企業が入居していました。中国人労働者の1日の食費は100円で、残業を進んで行い、コツコツ貯金していました。地方では50万円もあれば質素でも家が1軒建ち、親孝行できたのです。」 
 
90年代、日本はバブル崩壊後の「失われた10年」と言われ、町工場は次々と閉鎖を余儀なくされました。中国に工場が移転されていたからです。こうした中で中国脅威論が高まっていきました。しかし、島さんは広大な中国市場が開かれれば日本にとっても新たなチャンスが生まれると考えていました。そこでいち早く2001年にテレビ朝日「サンデープロジェクト」中国経済シリーズにディレクターとして参加します。第一弾は「中国企業の実力は?」というテーマで美的集団という中国のエアコンメーカーを追い、第二弾では「中国を市場に」というテーマでTOTOのウォシュレットやハウスのレトルトカレーなど、中国に製品を売り込む日本企業を取材しました。 
 
「現地進出した日本の企業人は中国の成長力に気づいていました。しかし大企業経営者を含めて、中国と大きな構想を持つことを積極的に提言してこなかったのです。97年にアジア通貨基金構想が浮上しましたが、これもたち消えになっていまします。アジア共同体構想を進めるのであれば中国が経済大国になる前にやっておいた方が日本にとって有利だったのは間違いないと思います」 
 
トヨタを含め、日本企業は軒並み中国進出に出遅れ、ワーゲンなど外国企業にシェアを握られてしまいます。サンデープロジェクトの中国経済シリーズは中国の経済成長とともに続編が次々と作られました。弾みをつけたのは2004年に島さんが上海事務所を立ち上げたことです。支局は金がかかるため、最初は事務所という位置づけにし、カメラマンと中国人コーディネーターだけをつけていました。政治を報じるのが難しい中国ですが、島さんは取材のしやすい経済という側面から中国人の生を追いかけたのです。 
 
■尖閣諸島〜抗議デモ中に死んだ香港人〜 
 
しかし、島さんには経済ばかりでなく、政治的なテーマで中国に切り込んだ番組もあります。非常にインパクトの強かったのが96年10月にサンデープロジェクトで放送した「反日の嵐 尖閣諸島〜リーダーはなぜ死んだ〜」です。日本の右翼が尖閣諸島に灯台を作った事が香港のナショナリストを刺激します。尖閣諸島は中国では「釣魚台」と呼ばれています。「釣魚台を守れ!日本軍国主義を打倒せよ!」と叫ぶ香港人活動家たちは9月23日、抗議船に乗って尖閣諸島を目指して出発します。 
 
島さんはたった一人日本人ジャーナリストとして、船に乗り込み活動家たちを小型カメラで取材しました。香港人活動家たちはライフジャケットも満足なものを着用しておらず、船乗りの本格的なロープの結び方も知りませんでした。それがやがて悲劇に結びつきます。 
 
9月24日、海が荒れ、活動家達は船酔いし、雨に降られ甲板で寝ることもままなりません。 
 
翌25日、国籍不明の軍艦4隻が接近した、と船内は大騒ぎになります。活動家の一人は「船に日の丸が掲げられていた。あれは確かに日本の駆逐艦だった」と言います。この時、島さんは海に放り込まれるかもしれない・・・と危険な空気すら感じたそうです。 
 
9月26日、日本の海上保安庁に警備され、尖閣諸島への上陸作戦は中止を余儀なくされます。しかしリーダーたちは海に飛び込んでデモを決行しました。この時、速度を落さず移動する船につながった命綱にデモ隊は海の中で10分間引きずられ、リーダーが溺死してしまいます。 
 
「9月25日に船内は日本の軍艦が現れたと大騒ぎになりましたが、後で調べた結果、日本の軍艦は出動していませんでした。しかし、香港の新聞は非常に感情的になって、事実を冷静に伝えていませんでした。自分も日本人スパイである、と報じられていました」 
 
その後、亡くなったリーダーは香港で英雄にまつり上げられていきます。彼が尖閣諸島上陸を目指した動機は将来の中国返還をにらんで中国指導部に向けて政治的なアピールを行い、好感を得ておきたかったことにあると島さんは分析しています。そのため上陸中止になったとき、彼は退路を断たれ政治的パフォーマンスを強行して命を失ってしまったのです。その時々の放送局や新聞社の政治的思惑から、報道も着色されたり、漂白されたりしますが、冷静に人間を見つめる地道な報道の大切さを考えさせられた番組です。 
 
■島直紀ディレクター・プロデューサー(1956〜)。 
1979年、日本電波ニュース社に入社。カンボジア支局長、ベトナム支局長、香港支局長などを歴任。中国以外にも東西ドイツ統合、ソ連崩壊、香港返還、スハルト政権崩壊、東チモール独立、イラク戦争など、数々の世界的事件を取材してきた。 
 
村上良太 


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