2010年07月17日11時12分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(7)人間は農業が滅びたら生きられない 安原和雄

  人間のいのちの源(みなもと)は農業であり、だから人間は農業が衰亡したら生きられない。この単純にして明快な真理がどれだけの人々に共有されているだろうか。むしろ工業が「主」で、農業は「従」だという見方が今では常識にさえなっている。日本の場合でいえば、第二次大戦後の高度成長期に急速に農業国から工業国へと変貌した。その結果、一人あたりの所得も増え、国全体のGDP(国内総生産)はアメリカに次いで世界第二位の地位にのし上がった。 
 しかしこの「経済大国ニッポン」という輝けるイメージは、アッという間に「貧困大国ニッポン」へと転落した。今では日本列島上にシューマッハー流にいえば、「暴力、疎外、環境破壊など現代のもっとも危険な傾向」が広がっている。その背景に何があるのか。「農業の軽視」が主因、というのがシューマッハーの診断であり、警告である。 
 
 シューマッハーの思想的遺産は少なくないが、ここでは農業についての主張、認識を紹介したい。それを受けて<安原の感想>を書き留める。 
 
▽農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい 
 
 農業の基本「原理」は、生命、つまりいのちのある物質を扱うということ。生産物は生命過程、すなわち生長の結果であり、生産のための手段は、これまた生きた土壌である。これに反し、現代工業の基本「原理」は、人間のつくり出した過程を対象とするという点である。この過程は人造の、生命のない材料を使ったときだけ信頼できるものとなる。天然の原料より人造の原料が好まれるのは、業者が好みの寸法につくることができ、完璧(かんぺき)な品質管理を施すことができるからである。人間がつくった機械は、生きもの、例えば人間よりも確実に、かつ予測通りに働く。工業の理想は、人間をも含め生命をもった要素を排除することであり、生産過程を機械に任せてしまうことである。 
 
 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者、1861〜1947年)が生命を定義して「宇宙の反復的機構に向けられた反逆」と言ったのにならって、現代工業を「人間をも含めた生きた自然界の予測のしにくさ、時間的不正確さ、移り気や強情といったものに対する反逆」と定義してもよいだろう。 
 言いかえれば農業の基本「原理」と工業の基本「原理」とは両立せず、相対立するものであることは疑問の余地がない。死のない生が無意味であるように工業なしでは農業は無意味になるだろう。とはいえ、農業が主、工業は従であることに変わりはない。人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられないからである。もっとも人類が文明生活を営めるようになると、二つの原理の間のバランスが必要になる。 
 農業と工業の基本的な違いは、生と死の違いほどに大きい。しかしこの違いを認識できなくなり、農業を工業の一種とみなすようになったとき、このバランスは必ず破れてしまう。 
 
<安原の感想> 農業と工業のバランスが崩れると・・・ 
 シューマッハーの主張には刺激的な表現が少なくない。ここでの「農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい」もその一例である。もちろん農業が「生」で、工業が「死」と言いたいのである。その本意は、工業が死滅していいというわけではない。農業が「主」で工業はあくまで「従」であるべきで、そのバランスの重要性を強調しているのである。 
 
 問題は、このバランスが崩れて、「農の工業化」が進むと、一体どうなるかである。生きた土地や自然の崩壊が進み、野生の生き物たちの生存領域が失われていく。例えば野生の熊が人家周辺に出没するようになってからすでに久しいし、最近ではスズメなどの減少も伝えられる。東京など大都会では自然の餌にありつけないカラスが人間が放出する廃棄物(残飯など)を食い荒らす事例が目立ってきた。 
 もう一つ、2010年4月から6月にかけて、家畜伝染病・口蹄疫(こうていえき)のため、宮崎県で残酷にも数え切れないほどの牛が殺処分となった。その背景に畜産の経済性重視の工業化、集約化、大規模化の進行がある。これは「農・畜産の工業化」が進むと、野生の生き物に限らず、人間自身にとっても甚大な悲劇をもたらす具体例といえないか。 
 
▽ 人間と自然界との和解が不可欠 
 
 土地はこの上なく貴重な資産であり、それを「おさめ、守る」のが人間の任務であり、幸福でもある。唯物主義的見方では農業は本質的に食糧生産を目的とするものだと考える。しかし広い視野からすると、農業の目的は次の三つである。 
 /祐屬叛犬た自然界との結びつきを保つこと。人間は自然界のごく脆(もろ)い一部である。 
 ⊃祐屬鮗茲蟯く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。 
 まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと。 
 
 の目的しか認めず、しかもこれを情け容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、´△量榲を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できない。 
 
 「人間が自然界と和解すること(reconciliation of man with the natural world)が、単に望ましいだけでなく、不可欠になったのだ」という某専門家の主張に私(シューマッハー)は賛成である。この和解は旅行、観光その他の余暇活動でできる性質のものではなく、農業の構造を変えることによって初めて達成できる。離農を促進することは止め、まず地方文化の再建を目指し、もっと多くの人たちがやり甲斐のある職業として農業に従事できるように土地を開放しなければならない。さらに大地の上での人間の営みのすべてが健康(health)、美(beauty)、永続性(permanance)の三大理想を目指すような政策を模索していく必要がある。 
 
 大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用からうまれた農業の社会的構造のもとでは人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、「暴力(violence)、疎外(alienation)、環境破壊(environmental destruction)など現代のもっとも危険な傾向」の後押しをしている。健康、美、永続性は、そもそも真面目に議論されることさえない。これでは「人間的な価値の無視」、すなわち「人間の無視」であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪である。 
 
<安原の感想> 「暴力、疎外、環境破壊」か、「健康、美、永続性」か 
 「人間が自然界と和解することが不可欠」という考え方にシューマッハーは賛意を明確にしている。我々日本人は通常、「自然界との和解」というヨーロッパ的感覚には馴染みが薄い。むしろ「自然を慈しむ」、「人間と自然との共生」という仏教的感覚だろう。その差異はさておいて、シューマッハーは何を言いたいのか。 
 
 ここでのテーマは、農業の工業化に伴う「暴力、疎外、環境破壊」路線の継続を容認するのか、それとも本来の望ましい農業に回帰して、「健康、美、永続性」路線を追求するのか、その選択である。シューマッハーはもちろん前者の路線を拒否し、後者の望ましい路線への転換をすすめる立場である。前者は大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用の農業だから、後者の「健康、美、永続性」に反する農業であることは間違いない。日本でもこの後者の農業を育てるのに奮闘している人たちが増えている。この流れは大切に育てたい。 
 
▽ 超経済的価値を再認識するとき 
 
 どんな社会でも自分の土地に手入れをし、長く健(すこ)やかに美しく保つゆとりがないはずはない。技術的な困難はないし、知識もふんだんにある。我々は十分にエコロジーの知識があるので、今日、土地管理、家畜管理、食糧の貯蔵と加工、無分別な都市化などの面で起こっている行き過ぎや乱用の言い訳をすることは許されない。 
 にもかかわらずそういうことが起こるのを許しているのは、貧しくてそれを防ぐ手だてがないからではない。その原因は、社会が「超経済的価値」(meta-economic values)への信念という確かな基盤を欠いているからである。 
 
 いったんこの強固な信念が失われると、すべては経済計算に支配されることになる。経済計算という形で合理化されている、卑しく打算的な生活態度がそれである。人間の次に大切な、土地という資源をどう取り扱うかという単純な問題の中に人間の生き方のすべてが含まれている。われわれが超経済的価値を再び認めるようになれば、土地は再び健やかに、景観は昔のように美しくなるだろう。 
 
<安原の感想> 卑しく打算的な生活態度を捨てること 
 「超経済的価値」を信じよう! その時、新しい時代を築くことができる ― がシューマッハーが21世紀に遺したメッセージである。超経済的価値とはどういうイメージなのか。大学で教えられている現代経済学にはこういう経済用語はない。上述の「健康、美、永続性」などはこの超経済的価値といえるのではないか。要するに貨幣価値(=市場価値)に換算しにくくて、市場取引の対象にならないため、いくらカネを積み上げても入手できないが、人間が生きていく上で重要な価値である。 
 
 私は仏教経済学の視点から、この価値を非貨幣価値(=非市場価値)と称している。例えばいのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがい ― など沢山ある。いずれも市場メカニズムには馴染まない。重要なことは、シューマッハーも示唆しているように「経済計算第一で、卑しく打算的な生活態度」、いいかえれば貪欲(=強欲)な生き方を捨てることである。そうでなければ、これらの超経済的価値の真価はみえてこない。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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