2010年08月06日11時32分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(10)米国人にみる「簡素と知足」の精神 安原和雄

  キリスト教徒でありながら、仏教思想に大きな関心を示し、それを日常生活の中で実践している米国人が増えつつある。その典型の一人は、米国兵器メーカーの核ミサイル技師を辞職して、平和活動家に転身し、広島での原水禁世界大会に出席した実績もある人物である。 
 彼らが心掛けていることは、仏教が説く「簡素と知足」の精神の実践であり、質素な暮らしである。「もっともっと」という限りない欲望、つまり貪欲を捨てることである。貪欲は戦争を招くが、簡素と知足、そして質素は「静かな平和」につながっていく。そういう暮らしと世界をつくっていくことに大きな生きがいを見出している人たちが米国でも存在感を広げつつある。 
 
▽ 核ミサイル技師の転身(1) ― 貪欲からシンプルライフへ 
 
 米国におけるシンプルライフ(質素あるいは簡素な生活)実践のはしりともいえる人物は、『核先制攻撃症候群 ― ミサイル設計技師の告発』(岩波新書、1978年)の著者、R・C・オルドリッジ(1926年生まれ)である。1973年米国最大の兵器メーカー、ロッキード社の弾道ミサイル設計技師から転じて、平和活動家となった。辞職の理由は、当時のペンタゴン(国防総省)の核政策が先制攻撃戦略(核攻撃を受ける前に相手の核ミサイル基地を叩く戦法)に転換したことにあった。その後広島で開かれた原水爆禁止世界大会などへの出席のため来日したこともある。 
 
 彼は当時を追想して書いている。 
 快適に暮らせる毎週のサラリーがなくなって、まず手がけたことは、今までより贅沢を切りつめた生活をすることだった。お金もかからず、それに環境保護にもかなう料理法による、さまざまな食事をやってみるようになった。それが次第に日常のパターンとして定着した。つまり質素に暮らすということ ― と。 
 
▽ 核ミサイル技師の転身(2) ― シンプルライフの今日的意味 
 
 さて今の時点で考えてみるべきことは、彼のシンプルライフがどういう意味をもっているのかである。彼自身、次の諸点を挙げている。 
(イ)資源や食糧の配分の不公正を改善するのに貢献すること 
 われわれ一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つ。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の94%に向かって、暴力を加えていたことを意味する。統計によれば、地球上の八人に一人が飢餓に直面している。今日の世界で死んでいく人びとのうち三人に一人は、飢えによるものである。(中略)世界の現実を見るならば、食糧が不足しているわけではない。問題は配分の不公正なのである。 
 
(ロ)平和をかき乱す貪欲を一掃することができること 
 必要としている物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。欲は富を得るにつれて高まるものだ。私はキリスト教徒だが、この場合、次のような仏陀の教えが実に説得力を持っている。 
 
欲求は利益の追求をうながす。 
利益の追求は欲情をうながす。 
欲情は執着をうながす。 
執着は貪欲とより大きな所有欲をうながす。 
貪欲とより多くの所有欲とは、所有物を見張り、監視する必要をうながす。 
所有物の見張りと監視から、多くの悪い、よこしまなことが起こる。殴り合い、けが、けんか、口論。中傷、うそ。 
これが、めぐる因果の鎖である。欲求がなければ、利益の追求や、欲情や執着や貪欲や、より大きな所有欲があり得ようか。 
己の所有欲というものがなかったとしたら、静かな平和がやってくるのではないか。 
 
以上の仏陀の教えを紹介した後、次のように述べている。 
 これこそ、われわれの家庭や社会や、さらには国際関係のありさまをよく描いているではないか。因果の鎖を自覚し、質素に生活することにすれば、われわれはいつかは、われわれの本性から貪欲を拭うことができるはずである ― と。 
 
(ハ)自分の生活様式を私利中心でないものに改めるよう努めていること 
以下のような諸点を挙げている。 
・日常の必要経費を切りつめたので、自分たちの時間のすべてを従来のように金稼ぎだけに費やす必要がなくなった。 
・既成の社会的な枠を変えるための非暴力的手段を模索し、かつ兵器こそ安全保障と雇用をもたらすという神話を追放するために活動している。 
・アメリカ政治のあり方には同意できないが、この国を愛している。この祖国愛があるからこそ、利潤や権力への飽くことのない渇望にかられた軍産複合体(注1)が、アメリカ国民に向けて繰り返し吐き続けている嘘(うそ)やごまかしを暴露しなければならない。 
 
 (注1)軍産複合体とは、巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体を指しており、アメリカの政治、外交、軍事を牛耳るほどの影響力を発揮している。軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、大統領の座を去るに当たって全国民に向けたテレビでの告別演説で警告を発してから、一躍その存在が浮かび上がった。 
 同大統領は次のように述べた。「この結合体は不当な影響力を発揮し、自由と民主主義を破綻させる可能性がある。これに対抗し、安全と自由を守ることができるのは、敏感で分別ある市民のみである」と。この警告はいまこそ傾聴すべきである。 
 
<安原の感想> 貪欲から転じて利他主義の実践へ 
 上記の(イ)、(ロ)、(ハ)のような行動こそ、貪欲の対極に位置する知足、簡素であり、非暴力の実践であろう。彼のシンプルライフは反戦、反核、反権力への志向と重なり合っている。特に注目すべき点はキリスト教徒であるにもかかわらず、なんと仏陀の教えが、その思考と行動の支えとなっていることである。 
彼の「自分の生活様式を私利中心でないものに改める」という決意は、いいかえれば利他主義実践への意欲であろう。シンプルライフの一つの柱として、この利他主義が位置づけられている。 
 NHKテレビの朝のドラマ「純情きらり」(2006年9月末で放映終了)の次のセリフが記憶に残っている。これは仏教思想の「自利利他の調和」であり、利他主義実践の一例であろう。 
 「自分が幸せになりたいと思っても幸せになれるわけではない。他人を幸せにしてあげることによって自分も幸せになれる」(2006年6月15日放映)。 
 
▽ 『地球白書』が説く知足のすすめ 
 
 注目したいのは米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004〜05』(家の光協会、2004年)が「消費者の選択」の再定義に関連して、東洋思想、「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように述べている。 
 
 消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味するものと定義されるべきである。 
 個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。すべての人は重要な問いの答えを見つけることを学ばなくてはならない。それは「どれだけあれば足りるのか」という問いである。 
 考慮に値する一つの指針は中国の哲学者、老子(注2)の「足るを知る者は富めり」という教えである。この昔の金言を受け容れる消費者は、今日の大量消費を動機づけている「人並みにという欲望」と「戦略的なマーケティング」の支配から脱却するために、大きく前進することになる ― と。 
 
(注2)老子(生没年は不詳だが、前4世紀といわれる)は、中国戦国時代の哲人で、彼が書き遺した『老子』は世界的な古典の一つである。孔子(前551〜前479、中国春秋時代の思想家。『論語』が有名)の儒教に反対し、無為自然の道を説いた。老子の「足るを知る者は富めり」とは「己の欲望に打ち克ち、ほどほどで足ることを自覚する者こそ真に豊かな人だ」という意である。 
 
 同『地球白書』は老子の「知足」には触れているが、釈尊への言及はない。しかし実は釈尊(注3)こそが老子に先がけて「知足の説法」を唱えた。仏教思想の根幹の一つが知足である。釈尊は知足について次のように述べている。 
 (注3)釈尊(前563〜前483)は、古代インドのシャカ族の出身で、仏教の開祖。仏陀とも称される。 
 
もろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。 
<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐れな人だと思われる。 
 
<安原の感想> 豊かな人々こそ知足の精神を 
 ここで指摘しておく必要があるのは、21世紀の今日的な知足とは何を意味するのかである。果たして富裕国も貧しい発展途上国も一様に知足の心が求められるのかというテーマである。解答として『地球白書2004〜05』の次の指摘が妥当だと考える。 
 
 発展途上国のすべての人々が平均的なアメリカ人、ヨーロッパ人、日本人と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えれば不可能である、としばしばいわれる。しかし世界の公正(global justice)と公平(equality)を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別)」による解決はありえない。豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境保護と社会的公正という二つの命題を満たすためには、豊かな国々の物質消費を大幅に削減する必要もある ― と。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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