2010年09月09日20時44分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(13)日本における仏教経済研究の特質 安原和雄

  海外での仏教経済学の近況とその実像を紹介してきたが、ここで日本における仏教経済(学)研究の特質に視点を移したい。日本での研究はすでに40年余の歴史を刻んでいる。駒澤大学仏教経済研究所がその有力な拠点として貢献している。 
 ただ一口に仏教経済学といっても、提唱者によって多様な姿、理論、思想となっており、決定版が出来上がっているとは言いにくい。目指すものは、既存の現代経済学に取って代わる新しい経済思想としての仏教経済学をどのように構築していくかである。このことは間違いないとしても、そこに至る道筋は多様であるにちがいない。ここではまず先達が遺してくれた研究業績の一端を紹介したい。 
 
▽研究・提唱にみる四つの流れとその特質 
 
 駒澤大学仏教経済研究所(所長・吉津宜英仏教学部教授)の創立(1966年=昭和41年4月)当時から深くかかわってきた難波田春夫氏(1906〜1991年。早稲田大学教授、関東学園大学学長などを歴任)の論文「経済学と仏教の立場」(同仏教経済研究所編『仏教経済研究』創刊号、1968年7月)、さらに同研究所初代所長だった笠森傳繁氏(1970年没、元駒澤大学経済学部教授)の論文「仏教経済の特質」(1968年同研究所で発表)をはじめ、日本での研究業績は少なくない。 
 
 これまで日本の研究者たちが分析・提唱し、さらに模索しつつある仏教経済あるいは仏教経済学(思想)は大まかにいって、次のような四つの流れと特質に整理できる。 
(一)寺院(教団)の経営(経済)としての仏教経済 
(二)認識論としての仏教経済(学) 
(三)実践論としての仏教経済(学) 
(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学) 
 
 以上のうち(一)の寺院の経営あるいは経済は、ここでは一応除外して考えたい。寺院特有の経済あるいは出家僧呂の日常的な経済生活、特に禅寺での質素を旨とするそれは、それなりに今日において、大きな意味を持っていることは否定できない。しかしここでは狭い組織あるいは地域に限定された経済行為よりももっと広い社会、国あるいは地球規模の経済を考察の対象として取り上げてみたいからである。 
 
▽ 認識論としての仏教経済(学)― 「空(くう)の思想」に立って 
 
 まず(二)の「認識論としての仏教経済(学)」とはどういう性質のものなのか。その代表的存在として、難波田春夫氏の業績を挙げたい。 
 その特色は、仏教の「空(くう)の思想」に基づく経済認識論といっていいだろう。同氏は次のように指摘している。 
 「仏教的立場は、すべての経済学の説明について、これを空の原理によって、もっと深い根拠を与え、より深い意味を持たせる」と。 
 ここに出てくる「空の原理」(注)の見方に立てば、事物はすべて相互依存関係として実在するのであり、独自に単独で存在するものはあり得ないことになる。一個人を考えてみると、たしかにその個人は単独で存在しているわけではなく、他の人々、動植物、自然、地球、さらに太陽などのお陰で存在している。これは「Aは非Aに依(よ)り、非AはAをまってのみ、実在する」という相互依存の論理でもある。 
 
(注)「空の原理」とは、「空の思想=空観」あるいは「縁起観」ともいわれ、次の二本柱からなっている。 
・諸行無常=万物流転(すべてはつねに変化し、移り変わること) 
・諸法無我=相対依存(独自に存在しているものはなく、すべては他との相互依存関係にあること) 
上述の難波田氏の説明では二本柱の一つ、諸法無我観(=相互依存関係)が土台になっている。後述の「実践論としての仏教経済(学)」の「変転諦観の経済」では、もう一つの諸行無常観に立って説いている。 
 
 ところが「AはAであって、非Aではない」という独自性を強調し、相互依存関係を否定する論理がはびこってきたのが近代であり、その近代から相互依存関係を重視する新しい時代へ移行しつつある歴史的転換期がまさに現代にほかならない、と難波田氏は説く。 
 独自性を強調する近代は次の二つの過ちを犯した。 
・AはAであり、非Aではない。ということは俺は俺であるという認識につながる。さらに何をしようと、当人の勝手だということになり、放縦な自由社会礼賛論にならざるをえない。これでは煩悩からの解脱ではなく、逆に煩悩の気ままな解放、自由化ともいえるだろう。 
・俺は俺として気ままに生きるためには、先立つものとしてカネが必要になる。各人の自由競争はカネ儲けの能力の競争となり、否応なしに経済至上主義の路線上をひた走る。ここではカネという本来、手段であるものが目的に転じ、ひたすら経済の論理に従って欲望の充足を「もっともっと」と追い求めていく。 
 
以上の過ちの結果が、資源・エネルギーの浪費であり、廃棄物の大量発生、空気や水の汚染による環境破壊にほかならない。難波田氏はこれを適切にも「近代の敗北」と名づけている。 
 
<安原の感想> 「近代の敗北」に無関心な「自由社会礼賛論」 
 難波田氏が批判して止まない「放縦な自由社会礼賛論」の具体例が、1980年前後から始まった新自由主義(=自由市場原理主義)の横行で、環境汚染・破壊、格差、貧困、暴力、人権無視などを拡大させた。我が国では特に小泉純一郎政権時代(2001年4月発足)にその横暴振りは顕著になったが、2008年の世界金融危機、世界大不況とともに破綻(はたん)した。 
 たしかに破綻したとはいえ、消滅したわけではない。ここに要注目である。市場原理主義者たちの残党がその復活、再生を画策し続けている。難波田氏流の「近代の敗北」に無関心で、念頭にあるのは私利、我欲の追求のみであり、資源・エネルギーの浪費にも環境破壊にも無関心といえる。しかもそのことに気づこうともしない時代遅れの群像といえようか。 
 
▽ 実践論としての仏教経済(学) ― 「仏教経済の道」を追求 
 
 次に(三)の「実践論としての仏教経済(学)」の主張者として駒澤大学仏教経済研究所の初代所長だった笠森傳繁氏を取り上げたい。同氏によると、仏教と経済の結びつきあるいは一体化を考えつつ、仏教経済の特質として次の四つを挙げることができる。これは日常の仏教的経済生活のあり方、つまり「仏教経済の道」の追求であり、仏教経済の実践にほかならない。 
*物心一如の経済 
*自利利他一体の経済 
*変転諦観の経済 
*精進報恩の経済 
 
 まず「物心一如の経済」とは、仏教語の「身心不二」とか「身心一如」に通じるもので、物と心とが一体になって財物の生産、消費を行うという意である。 
 米(こめ)作りの例でいえば、自分または他人の食物として身体を養うことだけを目的にして単に物質としての米を作るのではなく、真心のこもった米作りとなる。いいかえれば、単に儲けんがために作るのではなく、国民の命をつなぐものであり、人のためにも、後世のためにもと真心をこめて作る。 
 一方、消費する場合、なるべく安く買って具合良く用いればいいということではなく、米作りには多くの人の労力やこころが加わっており、さかのぼれば大自然の力、例えば日光、空気、水などの働きが加わっており、いわば天地の恵みが包含されていることを考えて消費することを意味する。こうして米は精神のこもった物心一如の財となる。 
 
 二番目の「自利利他一体の経済」とは何か。 
 二宮尊徳(1787〜1856年、江戸後期の農政家。節倹、陰徳を説いた)の思想に「譲るに損なく、奪うに得なし」がある。湯舟に入って、湯を向こうに押せばすぐに手前に帰ってくるし、手前にかき込めば向こうへ逃げていくことを例に挙げて、「譲ること、貪らぬこと、他を利することによっておのずから自分も益する」と説明している。 
 いいかえれば、自分という我を立てないで、他の利益を先に考えれば、おのずから自分の利益にもつながっていくという考え方である。これは西洋流の「ギブ・アンド・テーク=give and take」の交換思想ではなく、東洋的な「ギブ・アンド・ギブン=give and given」(与えよ、されば与えられん)という思想にほかならない。こういう自利利他一体の精神こそが仏教経済の眼目とされている。 
 
 三番目の「変転諦観の経済」は、諸行無常観(人間も含め、すべての事物はつねに変化していくという仏教の見方)の経済面への表れを指している。 
 景気循環、構造変化さらに恐慌、インフレなどさまざまな経済変動は仏教でいう諸行無常の具体的な表れであり、これを人為では完全に防ぐことはむずかしい。そういう経済変動を諸行無常、変転流動の自然の姿として悟っておくこと、つまり諦観(ていかん)していれば、経済変動に柔軟に対応できて、その影響をやわらげることもできる。また普段の覚悟ができていれば、嘆き悲しむことも、恐れあわてることもしなくて済む。 
 そういう諦観に達していなければ、「泣きっ面に蜂」ということにもなりかねない。あのバブル経済崩壊にあわてふためいた経済界の姿はまさにその見本のような具体例といえよう。ここでの仏教用語としての諦観は通俗的な意味でのあきらめではなく、本質を見通し、達観するという意であることに注意したい。従って変転諦観の経済とは、消極的かつ受け身の姿勢ではなく、むしろ積極的かつ主体的な思考と態度で経済変動に対処していくことを指しているといえよう。 
 
 さて四番目の「精進報恩の経済」とは、どう理解したらいいのだろうか。 
 仏教が目指すものは涅槃(ねはん・煩悩を滅して苦がなくなった究極の悟りの境地)であり、安心立命である。経済生活の目指すべき理想もこれと変わらない。その理想に到達すべく自分の仕事に精進する。そういう精進が可能となるのも天地、社会そして他の多くの人々の恩恵によるものと感得する。 
 その恩に報いるようにさらに精進を重ねていく。恩という感覚は多くの現代文明人には無縁になってきているが、恩に感謝することがすなわち仏心を行ずることである。精進報恩の経済とは、いいかえれば仏心を日常的に実践していくことにほかならない。 
 
<安原の感想> 感謝の生活を続けること 
 笠森氏は以上の四つの視点を踏まえて、仏教経済の特質を平たく次のように表現している。これはまさしく経済分野での実践としての仏教経済論であるにちがいない。 
 「清い心をもととして(仏心)、一日一日を惜しみつつ(「諸行無常」観)、もちつもたれつ助け合い(「諸法無我」観)、よく働いて(生産・交易)、よく分かち(分配)、活かして物をよく用い(消費)、感謝の生活を続けるを仏教経済の道という」と。 
 
「(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学)」は次回から順次紹介したい。 


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