2010年09月23日02時06分掲載  無料記事
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二極化社会を問う

淀川長治氏と「中流」

  映画評論家の淀川長治氏は晩年、こんなことを映画青年に説いていた。 
 
  「映画監督に向いているのは極貧とか、大富豪の出身者です。自分がその中間だと思う人は、意識して自分を中流から外してみる努力が必要です」 
 
  その実例として、淀川さんはフランスの映画監督のフランソワ・トリュフォーとルイ・マルをそれぞれ挙げた。 
  トリュフォーは極貧ではなかっただろうが、愛に飢えた少年時代を過ごし、鑑別所にも収容されている。トリュフォーはそれらの体験をモチーフに、映画「大人は判ってくれない」でデビューを果たした。一方、ルイ・マルはフランスの大ブルジョワの家に生まれた。マルぐらいの富豪になると、それはそれでまた違った孤独があると言うのである。 
 
  世界的に貧富の差が広がりを見せる昨今、淀川さんの発言は一見貧富の差を容認する発言のように誤解を受けかねない。しかし、淀川さんが若者に伝えようとしたことは、そうした社会問題とは位相が異なったことだった。 
 
  ものを表現する人間は個から出発するほかない。しかし、「中流」に浸っていると周りと一緒であることに安住してしまう。普通の生を営む人々にとっては望ましいことかもしれないが、芸術や映画を志す者にとっては最悪の環境である。人と違った世界を描くためには人と同じモノの見方をしていてはダメだ。淀川さんが言っていたのはそんなことだった。しかし、淀川さんの話を聞いていた日本の青年の多くは中間の出だった。そこで淀川さんは最後にこんなアドバイスをした。 
 
  「一ヶ月に一度、一流のレストランに行って食事を取りなさい。そのために残りの30日の食事代を倹約してもいいんです。」 
 
  毎日は無理でも、月に一度は自分の属する階層から外れた世界を垣間見ることで想像力が生まれる。それが感性や思考を鍛える、と言うのだ。しかし、それは容易ではなかった。誰しも自分が生まれ育った生活の外に出ることには抵抗があるのである。 
 
村上良太 


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