2011年01月08日14時25分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(27)経済成長至上主義よ、さようなら 安原和雄

  毎日新聞の「万能川柳2010年」(12月27日付夕刊・東京版)に「GDP抜かれて3位 だからなに」(東京 寂淋)があった。文字通り「経済成長至上主義よ、さようなら」でいいではないかという心情を詠(よ)んだ一句と理解したい。これまでGDP(国内総生産)総額では米国1位、日本2位、中国3位だったが、日本が中国に抜かれて3位に転落したため自称・経済専門家たちが大騒ぎしていることへの皮肉めいた感想になっている。 
 若干解説すれば、GDP総額ではたしかに中国に逆転負けしているが、1人当たりGDPでみれば中国人口は日本の約10倍だから、中国の1人当たりGDPは日本の約10分の1にすぎない。ただこういう数字にこだわること自体、脱「成長主義」からほど遠い。ともかく成長率論議にぎやかな経済成長至上主義の時代は過去のものとなったことを自覚して出直したい。 
 
▽ 40年前のシューマッハーから21世紀の地球白書へ 
 
 脱「経済成長」をめぐって時代はどう推移したかに触れておきたい。 
 「貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない」 
 これは40年も昔の仏教経済思想家、シューマッハーの経済成長批判の言である。 
 
 さて21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008〜09』はつぎのように指摘している。 
 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。 
 
 さらに次のようにも記している。 
 今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。 
 
 以上の認識、記述は大局的に観て正しいと私(安原)は考える。要するに経済成長は豊かさをもたらすものではなくなっており、「経済成長至上主義よ、さようなら」が合い言葉ともいえる時代なのである。ところが昨今のテレビや新聞などメディアには経済成長のすすめ、待望論が静まる気配はない。政治の世界も同様である。2010年6月発足した菅民主党政権は新成長戦略を前面に掲げてまっしぐらという構えである。一体これは何を意味しているのか。「経済成長=豊かさ」という定式に今なお執着しているためだろう。 
 
 なるほど第二次大戦後の日本の経済発展史をふり返ってみれば、「経済成長=豊かさ」がそれなりに成立した時期もあった。1956年度(昭和31年度)から1973年度までの高度成長期(年度平均9.1%の実質経済成長率を達成)である。高度成長を支えたのが池田内閣時代に策定(1960年12月閣議決定)された所得倍増計画(「10年間で月給倍増、雇用拡大、生活水準引き上げ」がスローガン)であった。当時はモノ不足時代で、それを満たす消費の増加によって豊かさ感を味わった。しかし当時すでに高度成長の陰で公害や格差などのひずみもひろがりつつあったことは見逃せない。 
 
▽ 「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てよう 
 
 40年も前の昔話にこれ以上お付き合いする必要はないだろう。2010年前後の目下の現状はどうか。「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てて、 ― そういえば最近思い込み、執着心を投げ捨てる「断捨離」(だんしゃり)という行為が流行となってきているようで、いいかえれば「諸行無常=すべては変化する」という真理を尊重して、 ― 日本や世界を観察し直すと、異質の光景を目にすることができる。 
 その具体例として以下の主張、提案を紹介したい。 
 
(1)経済成長で貧困は解消しない 
 経済成長で貧困は解消せず ― 貧困それ自体を政策課題に(湯浅 誠・反貧困ネットワーク事務局長)=2010年6月11日付毎日新聞。その大要は以下の通り。 
 
 低所得と貧困は完全にイコールではない。貧乏でも家族や友人、地域の人に囲まれ、幸せに暮らしている人はいる。貧困とはそうした人間関係も失った状態を指す。<貧困=貧乏+孤立>だ。 
 単身高齢世帯が463万世帯と、高齢者世帯全体の23%に達した。貧乏でも孤立していなければ、孤立していても貧乏でなければ、何とかなるかもしれない。しかし両方が重なる世帯が増えてしまっている。 
 「経済成長さえすれば貧困は改善する」という人たちがいるが、それが決定的な処方せんになるとは思えない。02年から07年までは「戦後最長の好景気」だったが、低所得世帯は増え続け、貧困も広がった。経済成長しても、その果実の分かち合い(再分配)を間違えれば、貧困は解消しない。経済成長が「主」で、貧困はそれに従属する「従」の要因だという発想そのものを転換する必要がある。 
 イギリスでは今年、児童貧困対策法が成立した。20年までに子どもの貧困を解消すると法律で宣言し、改善状況を毎年国会に報告する義務を負った。そこにあるのは貧困それ自体を政策のターゲットにする発想である。貧困をどうやって減らすかを真剣に考えなければ、たとえ経済成長しても、減らない。 
 
<安原の感想> 貧困打開には「果実の再分配」の変革を 
湯浅氏の指摘を評価できるのは、「経済成長=貧困の改善」という定式を否定していることである。貧困を改善するためには経済成長が先行しなければならないという主張は、現代経済学の決まり文句ともいえるが、こういう迷妄を打破しなければ、貧困問題の打開策は見つからない。 
 なぜか。そもそも経済成長とは何を意味するのか。それは経済活動によって生み出される付加価値(大まかにいえば企業利潤と賃金の総計)が増えることを指している。つまり付加価値の量的増加を意味するにすぎない。この付加価値が企業利潤にほとんどが配分されて、賃金への配分が少なければ、働く人々の暮らしは改善されず、貧困は解消しない。これが今日の日本経済が直面している現実である。だから貧困を改善するためには湯浅氏の表現を借りると、「果実の再分配」を働く人々中心へと変革する必要がある。 
 こういう単純な真理が必ずしも理解されていないのは、真理への眼(まなこ)が曇っているからだ。もう一つ、競争力強化の名目をかざして巨額の内部留保(企業利潤)を貯め込んでいる大企業を優遇(法人税減税など)する経済運営が行われているからだろう。政権担当者の責任はとても大きい。 
 
(2)持続可能で公正な「脱成長社会」をめざして 
 バルセロナ(スペイン)会議の「脱成長宣言」(経済的脱成長に関する第2回国際会議・2010年3月採択)=食政策センター‘ビジョン21’発行「いのちの講座」・2010年8月25日号。その大要は次の通り。 
 
 2010年3月脱成長に関する第2回国際会議に40カ国から400人の研究者、実践家、市民社会のメンバーが集まった。2008年パリで開かれた第1回国際会議の宣言は、財政・金融の危機であり、同時に経済、社会、文化、エネルギー、政治さらに地球生態環境の危機でもあることを指摘した。この危機の原因は、成長にもとづく経済モデルの失敗にある。 
 さて経済成長を促進しようとする「危機対策」は、長期的には様々な不平等と環境条件を悪化させるだろう。「借金を燃料としてくべる成長」という幻想、すなわち借金を返すために経済を無理矢理成長させるという妄想は、結局のところ社会的な災厄を招き、経済的な負債と地球環境への負債を将来世代と貧しい人々に押しつけ、たらい回しにすることになるだろう。 
 世界経済の脱成長プロセスは不可避である。問題はこのプロセスをナショナル、グローバル双方の視点から社会的公正を軸にしてどうコントロールするかである。これこそ脱成長運動が解決すべき課題である。まずは豊かな国々が脱成長に向けての変化を開始しなければならない。 
 
 バルセロナに集まったのは、現在のシステムとは根本的に異なる代替策、つまり地球生態環境からみて持続可能で社会的に公正な「脱成長社会」をめざす様々な提案を組織化するためであった。 
 会議では次のような新しい提案が出された。 
・地域通貨の促進普及 
・小規模な自己管理型で、利潤追求を重視しない企業の促進普及 
・ローカルなコモンズ(共同体による共有財産管理システム)の防衛と拡大 
・労働時間削減などワークシェアリング(仕事の分かち合い)とベーシックインカム(一定の所得を無条件で保障すること)の導入 
・原子力発電所、ダム、ゴミ焼却炉、高速輸送などの大規模インフラ(社会的経済的基盤施設)の放棄 
・クルマ中心のインフラを徒歩、自転車、オープンコモンスペース(自由利用公共空間)に転換すること 
・資源搾取に反対する、南の環境正義をめざす運動を支持すること 
・政治の脱商業化と政策決定に対する直接参加の強化拡大 
 これらの諸提案の実現に取り組むことによって人々の良い暮らし(well-being)が増大するだろう。経済成長の愚かさに終止符を打たなければならない。現在の課題は「いかにして変えるか」ということだ。 
 
<安原の感想> 資本主義そのものの改革案 
 バルセロナ会議の「脱成長宣言」は、経済分野での脱成長をめざすにとどまらないで、むしろ資本主義そのものをどう変革していくかに主眼があるといえる。その変革のめざす目標が<持続可能で公正な「脱成長社会」>である。 
 これは2008年のアメリカの金融危機に始まる世界金融危機とともにいったん破綻はしたが、消滅はしていないあの市場原理主義(=新自由主義)との決別をも意味している。いいかえれば経済成長推進か、それとも脱経済成長か、という経済に視野を局限した従来の日本的発想を超える政策提言といえよう。 
 その具体的な政策提言が地域通貨の普及、利潤追求を重視しない企業の促進普及、労働時間削減を含むワークシェアリングの導入、原子力発電所の放棄、車中心のインフラからの転換 ― などである。もちろんワークシェリング、脱原発、脱車社会にしても、アイデアとしては日本にもあるが、これを<持続可能で公正な「脱成長社会」>への提案と展望の中に位置づける姿勢は乏しい。バルセロナ会議の「脱成長宣言」に学ぶところは少なくない。 
 
<参考資料> 
安原和雄「持続可能な経済(学)を求めて―『地球白書』に観る二一世紀の世界」(駒澤大学仏教経済研究所編「仏教経済研究」第三十九号、平成二十二年) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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