2011年01月15日15時41分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(28)「豊かさ」から「幸せ」の時代へ 安原和雄

  時代の雰囲気は「豊かさ」から「幸せ」へと変わりつつある。例えば最近のメディアには「幸せ」に関する記事が多くなっている。豊かさと幸せとは質的にどう異なるのか。平たく言えば、豊かさは「量の増大」であり、幸せは「質の充実」である。 
 そういう幸せの定式として「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を提案したい。この幸せの定式を実現させる必要条件として二つ挙げたい。一つは「ゆとり主導型経済」の推進で、これは従来の輸出主導型、内需主導型に代わる新しい構想である。もう一つは「生活者主権」の尊重で、従来の消費者主権に代わる新提言である。時代の変化は、それにふさわしい新しい構想、提言を求めている。 
 
▽「豊かさ」よりも「幸せ」に関心が高まってきた 
 
 最近、「幸せ」という発想、文言に出合う機会が多い。 
 ここ3か月間の新聞投書(趣旨)から具体例を拾ってみよう。氏名は省略。 
・<新聞の川柳や俳句が楽しみ>=主婦 34歳 福島県いわき市 
 何気なく新聞を見ていたら川柳が載っていた。その一つに朝から大笑いしてしまった。そこで、ふと思ったが、朝から笑えるのって、何て幸せなことだろう、と。川柳一つで自分も、伝えた誰かも、朝から笑える。小さな笑いのタネを見つけることで、自分も家族も他の誰かも幸せにできたら、すてきだな、と思った。 
 
・<「最小不幸」より「小さな幸せ」を>=主婦 57歳 山口県光市 
 菅首相は、「最小不幸社会」の実現を目指すと言ったが、この言葉に違和感を覚える。先日、追悼コンサートでみんなで「小さな幸せ」を歌った。亡くなった先生の作詞作曲で、小さな幸せが大きな希望や喜びにつながるという内容だった。みんなが明るく笑顔で過ごせる社会。そんな「小さな幸せ」こそが、今この国に求められている。 
 
・<生きるっていいよ>=主婦 54歳 茨城県日立市 
 毎日のように子供の自殺がニュースになっている。私もつらいこと、苦しいこともたくさんあったが、生きてきてよかったと思う。小さなことでも楽しみや幸せを見つけられるし、やる気があれば、夢がかなうこともある。すべての親は子供に幸せになってほしい、命を大切にして欲しいと思っている。自分一人の命じゃないことを分かってほしい。 
 
 さてフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥシュ氏(70歳)の説法「経済成長 人々を幸せにしない」(朝日新聞=2010年7月13日付夕刊・東京版)を紹介する。 
・私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長が続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ。 
・(「持続可能な成長」という考え方について)持続可能な成長は語義矛盾だ。地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ。 
・(「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのかについて)北の国々による従来の開発は、南の国々に低開発の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道をを作っていけるようにしなければならない。 
・(菅首相が経済成長と財政再建は両立できると訴えていることについて)欧州の政治家も同じようなことを言っているが、誰も成功していない。彼らは資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々のめざすのは、つましい、しかし幸福な社会だ。 
 
<安原の感想> 幸せの定式=幸福追求権の活用+精神的充実感 
 「僕は幸せだなー」という歌の文句ではないが、幸せとはなによりも精神的な喜び、潤い、充実感である。しかしこの精神的充実感を客観的に保障する枠組みが必要である。それを平和憲法の多面的な幸福追求権に求めたい。 
 まず憲法13条「幸福追求権」をどう活かすかが課題となる。幸せのためには何よりも平和=非暴力が不可欠である。だから憲法前文の平和的生存権、9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の理念を実効あるものにしなければならない。さらに生活に必要なモノ・サービスも欠かせない。そのためには憲法25条「生存権=健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、国の生存権保障義務」の活用も必要不可欠のテーマである。 
 以上のように憲法に定めてある多面的な幸福追求権を土台にして「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を新しい「幸せの定式」としてはどうか。 
 
 菅第2次改造内閣が1月14日発足した。その政策目標の目玉は「安心できる社会保障、財源としての消費税引き上げ」つまり増税路線である。これでは菅首相時論の「最小不幸社会」ではなく、「最大不幸社会」とはいえないか。 
 以下では上述の「幸せの定式」を実現していくための必要条件を考える。 
 
▽ 幸せの必要条件(1)― ゆとり主導型経済の構想 
 
 幸せの必要条件としてまず「ゆとり主導型経済」という構想を提案したい。 
 わが国におけるかつての高度成長時代の輸出主導型経済は、輸出拡大が経済の牽引力となった。それが対外摩擦を生み、批判を浴びて内需主導型経済に転じた。内需つまり国内需要とは、GDP(国内総生産)の需要項目(輸出、企業設備投資、在庫投資、公共投資を含む財政支出、住宅投資、個人消費)のうちの輸出(外需)を除く部分を指しているが、この内需の拡大が経済の牽引力を担う内需主導型も万能ではない。 
 1980年代後半のバブル経済とその崩壊が具体的な一例である。内需拡大策がバブルを増幅させ、その結末があのバブルの崩壊にほかならない。そこで仏教経済学としては「ゆとり主導型経済」という構想を練って、それへの転換を進めるときであると考える。 
 
 ゆとりとは、次の五つのゆとりを指している。 
*所得のゆとり=物価水準の安定ないしは引き下げ、憲法25条の活用に必要な実質所得と就業機会の確保など 
*空間のゆとり=社会資本ストックの質的充実、ゆったりした私的・公的空間、人間性尊重にふさわしい職場空間の確保など 
*環境のゆとり=地球環境と自然、土壌、生態系、きれいな大気・水、豊かな緑と森林と田園、美しい景観などの保全と創造 
*時間のゆとり=労働時間短縮と自由時間増大、年次休暇の充実、介護・育児休暇の増大など 
*精神のゆとり=こころの充実感、平和(=非暴力)、安らぎ、働きがい、生きがい、モラルの確立など 
 
 この五つのゆとりが経済発展(=経済の質的充実に重点がある。量的拡大しか意味しない経済成長とは異なる)の牽引力となり、またそのゆとりの確保を目標にして経済が循環していく。 
 ここでは一つだけ、精神のゆとりがなぜ経済発展の牽引力になるのかに触れておきたい。無気力、怠惰、モラルの崩壊による働きがいの喪失感が経済発展の制約条件であることはいうまでもない。働きがいも生きがいも無縁な社会はすでに崩壊状態にあることもまた自明のことであろう。精神のゆとりとは、こころの充実感であり、生きがいであり、それは働きがいと共に存在する性質のものである。そういう意味で精神のゆとりは経済発展の重要な支柱である。 
 
 指摘しておく必要があるのは、五つのゆとりのうち所得と空間のゆとりは主として市場価値、貨幣価値であるが、環境、時間、精神のゆとりは、いずれもお金に換算しにくい、従って市場で入手できない非市場価値、非貨幣価値であるということ。いいかえれば所得と空間のゆとりはGDPの構成要素となり得るが、環境、時間、精神のゆとりは構成要素にはなりにくい。 
 
 仏教経済学としては、非市場価値、非貨幣価値を重視する。なぜなら環境、時間、精神のゆとりを抜きにしては真の幸せを実感できないからである。また環境、時間、精神のゆとりの確保は、幸せを実感させてくれるが、GDPの構成要素ではないため、経済成長率の高低とは無関係である。こうしてゆとり主導型経済と脱経済成長主義とは、表裏一体の関係にある。 
 内需主導型経済の視点からすれば、以上のようなゆとり主導型経済が果たしてうまく循環していくのかという疑問が生じるかもしれない。ゆとり主導型といえども、もちろん外需(輸出)も内需(公共投資、民間設備投資、個人消費など)も存続する。そうでなければ経済は回らない。 
 大切な点は、内需主導型が経済成長至上主義、つまり成長率が高いほど好ましいと考える立場であるのに対し、ゆとり主導型では成長率を高めることを目標とするものではないし、ゼロ成長(経済規模の横ばい状態)でも一時的なマイナス成長(経済規模の縮小状態)でも構わないと達観する。なぜなら仏教経済学は成長率を高めることが必ずしも真の幸せにはつながらないという認識に立っているからである。 
 
▽ 幸せの必要条件(2)― 生活者主権の尊重 
 
 幸せの必要条件として生活者主権の尊重も大切である。 
 現代経済学では消費者主権を重視する。一方、仏教経済学では生活者主権の尊重を前面に掲げる。生活者主権という用語はまだ市民権を得ているとはいえないが、地球環境保全や幸せを重視する時代のキーワードになるべき新しい考え方である。生活者主権の確立のために次のような「生活者の四つの権利」を提案したい。 
 
*自立・拒否する権利=依存効果(注1)からの自立、環境破壊の拒否など真の自由・選択権 
 (注1)依存効果とは、アメリカの経済学者J・K・ガルブレイス(故人)が著書『豊かな社会』(岩波書店)で説いた経済用語で、まず企業による生産が行われ、それを消費させるために欲望を喚起すること、つまり欲望は生産に依存するという意。テレビのコマーシャルは「消費欲望の喚起」の日常的な光景といえる。本来なら欲望が先行して、それを満たすために生産が行われるが、この因果関係が逆転して、生産主導型になっている。 
*参加・参画する権利=財・サービスの生産・供給のあり方、政府レベルの政策決定などへの参加・参画権(注2) 
 (注2)参加は集会、会議などにそのメンバーの一員として加わることで、決定権は必ずしも持たない。参画は議決・決定権の行使に重点をおく参加のこと。 
*ゆとりを活かす権利=上述の五つのゆとりの創造・活用・享受権 
*自然・環境と共生する権利=経済成長至上主義に代わる「持続可能な発展」を追求する生存権 
 
 生活者主権は既存の消費者主権とどう違うのか。消費者主権とは、消費者が主役として、消費者の自由な選好と利益を最優先させて経済全体の資源配分を行うことを意味している。この消費者主権は市場価値、貨幣価値のみに視野を限定した消費者の欲望をどこまでも充足させていくことを前提に組み立てられており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とは両立しにくい。そこに消費者主権の限界がある。 
 一方、生活者主権は生活者が主役として、経済全体の資源配分を行うことを指している。生活者を主権者とする経済デモクラシーといってもいい。生活者とは、消費者と違って、お金で買える市場価値(=貨幣価値)だけではなく、むしろお金では買えない非市場価値(=非貨幣価値)を尊重し、双方のバランスをつねに考慮する。そこには知足、簡素の感覚が伏在しており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とも両立する。 
 
 誤解を避けるために補足すると、人によって消費者、生活者に分かれるわけではない。同じ人が消費者であったり、生活者になったりする。両者の違いは人によるのではなく、日常の行為として消費者主権、生活者主権のどちらを重視するかによる。仏教経済学としてはもちろん生活者しての生き方をすすめたい。 
 
<参考資料> 
・日野秀逸著『憲法がめざす幸せの条件 ― 9条、25条と13条』(新日本出版社、2010年) 
・市場価値(=貨幣価値)と非市場価値(=非貨幣価値)については「お金では買えない価値の大切さ 連載・やさしい仏教経済学(24)」を参照 
・安原和雄「知足とシンプルライフのすすめ ― <消費主義>病を克服する道」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号、平成十九年) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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