2011年01月22日13時24分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201101221324286

やさしい仏教経済学

(29)いのち・簡素尊重の循環型社会を 安原和雄

  ごみ列島ニッポンを大掃除するにはどうしたらいいのか。その答えとしてリサイクル(再生利用)を想い浮かべる人が多いにちがいないが、実はこのリサイクルはゴミなど廃棄物減らしへの貢献度では一番低い。追求すべき課題は廃棄物そのものの発生を少なくする循環型社会をどう構築していくかである。つまり大量生産 ― 大量消費 ― 大量廃棄の経済構造をいかに簡素化するかである。 
 資源・エネルギーの節約のためにも簡素化は重要であるが、ここでは日常の暮らしにとって魅力ある循環型社会とは何か、にまで視野を広げたい。そこにいのち尊重の循環型社会という新しいイメージが浮かび上がってくる。 
 
▽ 日本列島を尾瀬にできないか ― 循環型社会がめざす簡素 
 
さて循環型社会構築のためには何が必要なのか。まず問題を考えたい。 
<問い>日本列島全体を尾瀬にできないか? これだけでは質問の真意がつかみにくいかも知れないが、たまにはこういう突飛な発想も有効ではないか。 
<答え>尾瀬沼、尾瀬ヶ原を中心とする日本最大の高層湿原(群馬、福島、新潟三県にまたがる)として知られるあの尾瀬である。尾瀬の特徴はいくつかあるが、その一つが入山者はゴミをすべて持ち帰ることになっているため尾瀬にはゴミが無いに等しいことである。 
 問いの「日本列島全体を尾瀬にできないか」は、日本列島の隅々から生産・消費・廃棄がもたらすゴミを大掃除してきれいに片づけることができないかと問うている。「それ、無理」と急いで思考停止に陥るのは待ってもらいたい。 
 
 自然にはごみは存在しない。たとえば枯れ葉の場合、自然の土の上に落ちれば、やがて自然の循環の中に還(かえ)るのでごみにならない。ところが同じ枯れ葉が人工のコンクリート上に落ちれば、容易に自然に還らないのでごみとして扱われる。さらにコンクリートもやがて廃棄塊と化していく。要するに人間の活動が存続する限り、廃棄物、ごみは絶えず吐き出される。問題はその廃棄物を循環可能な範囲にどう抑えるかである。 
 わが国は2000年6月、循環型社会形成推進基本法を施行、これを機に環境保全と資源節約を目標とする循環型社会の構築に本格的に乗り出した。循環型社会とはどういう社会なのか。平成13年(2001年)版循環型社会白書は次のように解説している。 
 
 大量生産・大量消費・大量廃棄という社会経済活動や国民のライフスタイルが見直され、何よりもまず資源を効率的に利用してごみを出さないこと、出てしまったごみは資源として利用すること、どうしても利用できないごみは適正に処分することという考え方が社会経済の基本原則として定着し、持続的な発展を指向する社会である。 
 大量生産・大量消費・大量廃棄という社会からどのような社会に向かえばよいのか。たとえば、「最適生産、最適消費、最少廃棄」型の社会へ、という考え方が挙げられる。また天然資源の消費が抑制されることが、循環型社会の大きな条件である、と。 
 
 以上の説明でも分かるように循環型社会とは「持続可能な発展」の原理の応用であり、現世代にとどまらず子々孫々に至るまでの持続可能な社会のことである。そういう循環型社会の構築のためには以下の三つの条件が不可欠である。 
 第一は現在の大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済構造を生産・消費・廃棄の削減へと根本から変革しなければならない。つまり自然環境に本来備わっている再生・浄化・処理能力の範囲内に生産、消費、廃棄を抑えることが不可欠である。 
 第二はプラスの経済成長を追い求めることを放棄し、脱「成長経済」の方向で経済運営に努める必要がある。 
 第三に政府、企業はもちろん国民一人ひとりが以上の条件を自覚し、日常感覚として実践しなければならない。循環型社会の形成を唱えながら、同時にプラスの経済成長を追求するのは、ちょうどダイエットを目指しながら食欲のままに食べすぎるようなもので、自己矛盾というべきである。 
以上を要約すれば、仏教経済学が提示する八つのキーワードの一つ、簡素の追求にほかならない。 
 
 日本列島全体を尾瀬にするにはこの簡素の実現が不可欠である。これは明治維新、そして敗戦に伴う戦後改革に次ぐ現代史上三つ目の歴史的大事業といっても過言ではない。明治維新から富国強兵時代が始まり、敗戦とともに破綻した。戦後の経済成長時代もすでに行き詰まり、今地球環境保全優先時代にわれわれは生きており、その最大のテーマが簡素を旗印に掲げる循環型社会の構築である。 
 
▽ リサイクル中心方式をどう克服するか ― ドイツとの比較 
 
<問い>環境用語に「6R」があるが、これは何を意味しているのか? 
<答え>6RはReduce(リデュース=削減)、Reuse(リユース=再利用)、Repair(リペア=修理・修繕)、Rental(レンタル=有料借用)、Refuse(リフューズ=拒否)、Recycle(リサイクル=再生利用)の6つのRを意味している。 
 
 重要なことは、この6Rそれぞれの違いと優先順位を明瞭に認識することである。そうでなければ循環型社会の形成といっても、しょせん絵に描いた餅にすぎない。 
*削減=一番重要なのは、ごみ、廃棄物の発生そのものの削減。これには資源投入量の削減が不可欠であり、製品の開発・設計の段階から資源節約や製品の長期使用を志向しなければならない。 
*再利用=次は製品や部品の再利用、すなわち繰り返し利用すること。例えばビールの場合、アルミ缶入りよりも瓶入りを選んだ方がよい。瓶は洗浄によって何度も再利用できるし、そのコストも安い。一方アルミ缶は再生利用するほかないので、再生の過程で相当のエネルギーを必要とするからだ。 
*修理・修繕=古いもの、部品が壊れたものも「もったいない」精神でできるだけ使い捨てを避けて、修理・修繕によって長期間使うよう心掛けること。 
*有料借用=今後大きな流れになるとみられるのが自己所有にこだわらない有料借用。自分で購入し、所有する「モノ持ち」は時代遅れになりつつある。 
*拒否=資源浪費型や環境にやさしくないタイプの商品の購入・使用を拒否すること。 
*再生利用=一番望ましくないのが、このリサイクルで、処理にエネルギーの多消費を必要とする。 
 
 ドイツは「循環経済・廃棄物法」(1996年10月施行)をテコに「持続可能な発展」の思想に立って、先進国の中でいち早く循環型社会の構築に取り組んでいる。その特色は次の三点である。大事なのはリデュース(削減)を最重要視していることである。 
*廃棄物の発生を少なくすることについてメーカーの責任を明確にしていること。 
*三段階に分けて廃棄物の発生に対応すること。まず廃棄物の少ない製品の開発・設計や製造を促進する。次に廃棄物になったものはリサイクルする。最後にどうしてもリサイクルできない廃棄物は環境にやさしい方法で処分すること。 
*ドイツ連邦政府が必要な権限を持っていること。 
 
 以上のドイツ方式に比べると、日本の場合、6Rの最後のリサイクル中心方式である。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンの4種類の家電製品をリサイクルの対象とする家電リサイクル法(2001年4月施行)はその典型例の一つである。リサイクル中心方式では廃棄物の発生を抑えるのではなく、大量生産ー大量消費の構造を温存したまま、吐き出される大量の廃棄物のリサイクルに重点を置くことになる。これに経済成長主義が加わると、リサイクルをテコにして大量生産ー大量消費の拡大再生産という悪循環に陥る可能性も大きい。これではリサイクルは簡素とは無縁といえる。 
 
▽ 魅力ある循環型社会の必要条件は ― いのちの尊重 
 
 視点を変えて、循環型社会は果たして魅力あふれる社会だろうかと問うてみたい。毎日のようにリサイクルに精を出し、「人生とはリサイクルなり」というイメージさえ浮かんでくる。ごみ捨てに日夜精励する人生が幸せだろうかと問い直してみるのもよい。 
 循環型社会の目指すものが簡素で、それをテコに地球温暖化など地球環境問題の打開への糸口が見出され、大気や水がきれいになり、ごみが街から姿を消せば、それはそれで歓迎すべきことである。生活の質の向上、充実のためには簡素の追求が重要であることもちろんだが、それで十分なのか、を問い直してみることがここでのテーマである。 
 
 魅力ある循環型社会には簡素に加えて、いのちの尊重が不可欠だと考える。いのちの尊重とは何を意味しているのか。地球環境問題、すなわち地球環境の汚染・破壊は、近代工業文明の経済構造、すなわち大量生産ー大量流通ー大量消費ー資源・エネルギーの浪費ー大量廃棄の構造が必然的にもたらしたものである。注目すべきは、地球環境の汚染・破壊が地球上の「生きとし生けるもの」の生存基盤の汚染・破壊を進行させていることである。 
 ここでの生きとし生けるものとは、仏教思想でいうところの「いのちあるもの」すべてを指している。人類に限らない。動植物もすべて含まれる。仏教の「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の思想は、草木国土すべて、つまり山にも川にも草花にも、いのちが息づいており、人間と自然との共生がいかに価値あるものであるかをうたい上げている。これは仏教の「不殺生」、つまり人間だけではなく、動植物に対しても無益な殺生を厳に戒める思想につながっている。 
 
 以上のように自然環境にいのちが宿っていることを自覚することから「いただきます」、「もったいない」という感性が身につく。日本人が食事のとき、「いただきます」と祈るのは、食物の素材となる動植物の「いのちをいただきます」といういのちを慈しみ、感謝するこころの表現である。「もったいない」はいのちあるすべてのものを粗末に扱ってはならない、愛情を込めて接するという感覚、ライフスタイルにつながっている。 
 このことが資源・エネルギー浪費型から節約型への転換を促すことになる。こうして多様ないのちを尊重してこそ環境保全も可能となるだろう。いいかえれば、いのちが尊重されるからこそ生活の質の向上も期待できる。 
 
 いのちの尊重は、人間も含めて生き物のいのちを大切にすることだけを含意しているのではない。いのちを大切に思う心が共生、連帯、思いやり、やさしさなど仏教思想の慈悲の心につながっているところを重視したい。ここまで視野を広げて実践が伴えば、循環型社会は魅力度の高い社会だといえるのではないか。 
 
<参考資料> 
・安原和雄「ゼロ成長経済の構図 ― 循環・共生型社会をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第18号、平成十一年) 
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(『東洋文化』 第20号、平成十三年) 
・安原和雄「同(下)」(同 第21号、平成十四年) 
 
本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/ 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。