2011年02月04日22時21分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(31)企業の社会的責任とお布施型経営 安原和雄

  企業の人減らし、賃下げはもはや珍しくない風景となった。企業の社会的責任が問われるようになって久しいが、これではその社会的責任を放棄するに等しい。現代経済学で言う「合成の誤謬」説によれば、企業にとって目先、小利、好都合にみえても、結局不都合な結果を招く。どう打開したらよいのか。 
 21世紀における望ましい企業経営のあり方として、お布施型経営のすすめを提唱したい。仏教のお布施の正しい理念を応用、実践するもので、環境、倫理、雇用、賃金を重視する企業経営を指している。「世のため人のため」の経営でもあり、これこそが企業の信用と発展につながる。 
 
▽ 「大企業は雇用拡大・賃上げを」の声 
 
 まず「大企業は雇用拡大・賃上げを」と題する投書(無職 須合邦夫 秋田市 71歳=1月27日付朝日新聞)の紹介(大要)から始めたい。 
 
 法人優遇税制に関する富岡幸雄・中央大名誉教授の「私の視点」(19日)を読んだ。それによると、(中略)資本金10億円以上の大企業から合計で年2兆円近い税金を取り損ねているという。 
 菅首相はそこにメスを入れず、法人税率引き下げを決めた。首相の雇用拡大の要請に対し、日本経団連会長は約束はしなかった。経団連は1%の賃上げも拒否している。 
 こうした大企業優遇税制や派遣切りなどの人件費削減が、244兆円ともいわれる大企業の空前の「内部留保」を可能にしたといわれる。(中略)対極にあるのは国民の窮乏だ。大企業は、内部留保の一部を還元し、景気回復のために雇用の拡大と賃上げを実現すべきだ。 
 国家公務員労組連合会の試算によれば、大企業20社の内部留保の1%を取り崩すだけで、雇用(年収300万円)を24万人拡大できるという。財界は内部留保は設備や研究開発に投資するので取り崩せないと主張するが、日銀調査でも企業資産のうち206兆円は現金・預金だという。1%を取り崩せない根拠はないと思う。 
 
<安原の感想> 横行する大企業の私利私欲と「合成の誤謬」 
 昨今の大企業の無責任振りは目に余るものがある。上記の投書もそれを衝いている。具体例は以下の点である。 
・首相の雇用拡大の要請に対し、日本経団連会長は約束はしなかった。 
・経団連は1%の賃上げも拒否している。 
 
 大手企業側のにべもない拒否の姿勢である。菅首相が「法人税率引き下げ」(首相は施政方針演説で「法人実効税率の5%引き下げを決断した」と述べた)というサービス(減税規模は1兆5000億円ともいわれる)に努めているにもかかわらずである。大企業の内部留保が投書の指摘にあるように244兆円にものぼっているのであれば、その貯め込みに執着する大企業は私利私欲に走り、貪欲に過ぎる。「グローバル競争に打ち勝つため」がその理由らしいが、この言い訳は安易で、陳腐すぎるし、経営能力そのものが疑問視されるだろう。 
 
 このような大企業の姿勢は現代経済学の唱える「合成の誤謬」(ごうせいのごびゅう)に相当する。合成の誤謬とは、例えば個々の企業の立場では正しいこと、あるいは好都合と思える行為でも経済全体にとっては正しくないこと、あるいは不都合な結果を招くことを意味する。 
 上述の例でいえば、日本経団連メンバーの大企業が雇用拡大にも、わずか1%の賃上げにも応じていないことは、なるほどそれら大企業にとっては雇用拡大や賃上げに伴う支払賃金増を抑えるわけだから目先では好都合に見える。しかし雇用拡大や賃上げ要求に応じなければ、支払い賃金は増えないだけでなく、減る可能性もある。現実に民間労働者の賃金は数年来減り続けている。その結果、個人消費も増えず、それが回り回って大企業の売上減に結びつく可能性がある。つまり不況になって大企業にとっても不都合な結果を招くことになるわけで、目先の小利にこだわることは決して得策とはいえない。経済界のリーダー達よ、「合成の誤謬」を学習し直してみてはいかがだろうか。 
 
▽ 東の渋沢栄一、西の伊庭貞剛に学ぶこと 
 
 21世紀に発展を続けて、尊敬を受ける企業とは、どういう企業だろうか。私利しか視野にない企業に発展はない。ここでは「東の渋沢栄一、西の伊庭貞剛」とうたわれた明治・大正時代の財界指導者に学ぶことは何か、を考えてみたい。 
 
(1)東の渋沢栄一 
 渋沢栄一(1840〜1931年)は、日本資本主義の父ともいうべき存在で、明治・大正の財界巨頭。日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設し、頭取に就任したほか、引退するまでに500余の企業の設立に関係、さらに東京商工会議所(1878年設立)の初代会頭に就任。一橋大学の創立と発展にも貢献した。著書は『論語講義』(全7巻・講談社学術文庫)、『論語と算盤』(大和出版)など。 
 渋沢は必要な事業を盛んにするために多くの企業を設立したが、株が騰貴することを目的に株を持ったことはない、と『論語講義』で語っている。 
 
 渋沢は経済・経営観として「論語・算盤」説(=「道徳経済合一」説、「利義合一」説)つまり利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だと説いた。その指針としたのが論語の次の名句である。 
 
*「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」 
<大意> 君子(立派な人)は正しいか正しくないかという道義、道理中心に考え、行動するが、小人(つまらない人間)は利にさとく損得を中心に考え、行動する。 
*「利によりて行えば、怨(うら)み多し」 
<大意> 治者はもちろん、一個人にしても自己の利益のみを図る者は、他の怨みを取ることが多い。 
*「不義にして富み、かつ貴(たっと)きは我において浮雲(ふうん)のごとし」 
<大意> 道義、道理に反して得た富貴はまさに浮雲に等しく、いいかえればバブルにほかならない。 
 
 「経済学の父」と讃(たた)えられるイギリスの経済学者、道徳哲学者アダム・スミス(1723 〜90年)は主著『国富論』の中で「各人は、正義の法を破らない限り、自由に利益を追求し、(中略)競争することができる」と述べて、利益の追求と自由競争の促進に「正義の法」という厳しい枠をはめている。つまり貪欲な私利追求を戒めている。渋沢はスミスのこの主張を高く評価し、「利義合一は東洋、西洋を問わず、不易の原理」と指摘した。 
 
(2)西の伊庭貞剛 
 伊庭貞剛(1847〜1926年)は渋沢と同時代に生きて「東の渋沢、西の伊庭」ともうたわれた存在で、住友財閥の2代目総理事として活躍、環境との調和、従業員との和を重視した。 
座右の銘としたのが次の禅の言葉である。 
*「君子財を愛し、これをとるに道あり」 
<大意> 立派な人物は財を尊重して、手に入れるにも道に沿って行う、つまり道義に反していないかどうかをまず考える。 
 
 伊庭の口癖に「金(かね)というものは儲けられるもんじゃない。授かるものだ」、「武力、財力、智力、意力など<力>は貴いが、所詮手段じゃ。<力>を導くものは、<道>の外にない」があった。住友グループの経営理念、「浮利を追うなかれ」はここから生まれた。 
 
 2人の大先達の経済・経営観を今日風に翻訳すれば、「企業人たちよ、私利私欲に執着し、カネの奴隷に転落することのないよう自らを戒めよ」ということだろう。 
 
▽ お布施型経営のすすめ ― 求められる「企業の社会的責任」 
 
 企業経営の望ましいあり方としてCSR(Corporate Social Responsibility・企業の社会的責任)が求められるようになって久しい。最近では企業とNPO(非営利組織)との協働事業も盛んである。経済同友会(経済団体の一つ、企業経営者個人の集まり)主催のシンポジウム<テーマ「企業とNPOの協働〜CSRで企業は強く、社会はより良く〜」>が2010年12月東京都内で開催された。基調講演は「善意や志が循環する社会をめざして〜新しい時代の企業とNPOの戦略的連携〜」で、大企業とNPOとの協働事業に関する現状報告もあった。このシンポジウムは21世紀の今日における企業の社会的責任とは何か、を問い直す試みであった。 
 
 一口に「企業の社会的責任」といっても、その試みは多様であるが、私(安原)は21世紀における企業の社会的責任の望ましいあり方として、「お布施型経営」(注)をすすめたい。企業でいえば、現状では環境の汚染・破壊、倫理の軽視・無視、人員整理、賃金引き下げを辞さない私利優先型経営が少なくない。これを環境、倫理、雇用、賃金を重視するお布施型経営へと転換していく。 
 低迷経済下ではマクロの経済規模は横ばいに推移するとしても、個別企業は企業仕事人の器量によって成長企業になり得るだろう。 
(注)仏教が説くお布施は大別して、法施(法=真理の施しをすること)、財施(モノ、カネを施すこと)、無畏施(笑顔で接する<顔施=がんせ>など、不安感や恐怖心を取り除き、安心感を与えること)の三つがある。このお布施の理念、精神を企業経営に応用、実践するのがお布施型経営である。 
 
 私利を貪(むさぼ)り、生き残れる時代は終わった。お布施型経営に反する企業の末路は哀れであり、昨今の事例では消費者金融・武富士の経営破綻が一つの典型といえる。 
ただ仏教は欲望すべてを否定しているのではない。欲望には望ましい欲(求道の精神、歴史の大道に沿った改革への志、世のため人のために尽くしたいという利他の精神など)と望ましくない欲(物欲、金欲、権力欲、名誉欲など)の二つがあると教える。前者(望ましい欲)は「大欲」、後者(望ましくない欲)は「小欲」(=小さな低次元の欲望で、少欲すなわち知足とは異なる)といわれる。小欲への執着は見苦しく、自己破綻を招くことも多い、大欲は試練を伴うとしても、夢や希望につながるのだから持続させたい。この大欲まで失ってしまっては生き甲斐、働き甲斐も消えていく。 
 もちろん金(かね)は現下の市場経済、貨幣経済の下では必要であるが、あくまでも生活、経済活動の手段にすぎないし、飽くなき増殖を目的とすべきものではないと仏教経済学は考える。 
 
<参考資料> 
・佐々井秀嶺著『必生 闘う仏教』(集英社新書、2010年) 
・「企業の社会的責任」を改めて問う ― 経済同友会主催シンポジウムを聴いて(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」2010年12月18日掲載) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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