2011年04月10日23時26分掲載  無料記事
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文化

劇作家ニール・ラビュート(Neil Labute) 〜アメリカ再生への一歩〜村上良太

  数年前、ニューヨークの演劇専門書店に入ったとき、「80年代とそうかわり映えしないな」と感じた。米演劇人が聞いたら怒るかもしれないが、90年代以後に大物が出ていない印象を受けた。それでも店内で演劇人と思しき人に尋ねてみた。 
 
僕  「90年代以後のアメリカの劇作家で誰がお薦めですか?」 
演劇人(らしい人) 「ニール・ラビュートとトニー・クシュナーかな」 
 
  そこで勧めに従ってニール・ラビュート(Neil Labute)とトニー・クシュナー(Tony Kushner)という二人の劇作家の戯曲を買うことにした。ラビュートの「bash」(1999)とクシュナーの「Angels in America」(1991)である。 
 
  90年代といえば日本がバブル崩壊し、アメリカはハゲタカファンドに象徴されるような荒稼ぎをやっていた時代である。金融工学が盛んになって、後のアメリカンバブル崩壊への道も始まっていた。そんなアメリカは文化的なステイタスを失いつつあるように見えた。映画でも暴力やSFXが主流になっていた。そんな中、ニール・ラビュートという劇作家は何を描いていたのだろうか。そのとき買った戯曲集「bash(パーティ)」はいくつかの独白劇で構成されていた。その中から2つ簡単に紹介すると、 
 
1) 「オーレムのイピゲーニア」 
 
 場所はホテルの部屋で、男はグラスを手にしている。スーツを着たこざっぱりした30代始めの男だ。話し相手は下のラウンジで酒を飲んでいた赤の他人だが、この聞き手はつまり観客ということになる。 
 
「・・・この話は一度だけします。一度だけ。その価値があるからですよ。しかし、二度は話しません。いいですか。あなたがどう思おうが気にしません。ただ、私は・・・本当に・・・どうか聞いていただきたいのです。でも、結局のところ、あなたが私の話をどう思われるか、それは私にはどうでもいいのです。それは起こってしまったのですよ。」 
 
  男は誰かに話を聞いてもらいたい。そのためにラウンジにいた見ず知らずの人間を部屋に連れてきて酒を注ぐ。 
 
  男が話し始めたのは赤ちゃんが死んだ話だ。幸せな夫婦で、二人の子どもがいたところに、また赤ちゃんが生まれた。ある日、妻が出かける。赤ん坊の世話に来る姑も出かけ、男は赤ん坊と二人きりで残される。悲劇はその日起きる。夫婦のベッドで寝かしていた赤ん坊が毛布に絡まって窒息死するのだ。その間、男は居間で昼寝していた。警察は型どおりの調査を終え、夫婦はその日、ずっと互いの手を握り締めて悲劇を堪える。 
 
  男は聞き手に「実は話にはもっと先がある。」と言いだす。「グラスに酒を注ぎますよ。あなたがくつろいで下さるなら私も話しやすいですから」と言う。 
 
  男は自分が赤ん坊をいかに殺すことになったのかを話し始める。その状況、ふと芽生えた殺意、そうなった理由を話す。男以外、妻も、周りの誰も真実を知らない。夫婦は悲劇を越えて、再び赤ちゃんを作り、再生した。男だけが1人隠された真実とともに生きている。男は聞き手がどう思ってもいい、誰かに真実を話したかったのだ。 
 
  タイトルの「オーレム」はユタ州の地名であり、「イピゲーニア」はギリシア神話から。ギリシア軍勢の総大将アガメムノンがトロイア戦争の出陣の際に、生贄に捧げた娘の名前がイピゲーニアである。作者がそうしたタイトルを選んだのは家族のために娘を犠牲にした父親を描いているからだ。劇の背景には80年代のアメリカで盛んだった厳しいリストラがある。不要な人材は容赦なく切り捨てる。それがいかに、人を追い込んだか。そうしたアメリカ社会が背後にある。男はリストラの危機にさらされ、同僚の女との仁義なき競争を余儀なくされた。その不安と恐怖の中で、これ以上家族を増やせないと殺意が芽生えた。 
 
  「もしあなたに子どもがいたら、よくしてあげるんです、いいですか?子どもくらいいいものはないんですから」と男は聞き手に告げて、力なく微笑む。この話をしたことで男は救われたのだろうか。 
 
  この芝居はリストラの苦しみを描いたのだろうか。いや、僕には別の面が見えた。この芝居は男が殺人を犯す経済的・社会的な動機よりも、人は罪をいつまで1人でしょっていられるかという苦しみをむしろ描いているように見えた。だから、これまで見聞した中で、これくらい孤独な劇はなかった。通常、劇は人と人の対立葛藤をベースにしている。しかし、この劇は聞き手に「あなたがこの話をどう思おうとそれはかまわない」と告げているのだ。劇は男の胸の中で繰り広げられてきたものなのである。しかし、だからこそ、一歩踏み越えて、あえて他者に語ろうとするこの語りは感動的なのである。 
 
2) 「メディア 第二の物語」 
 
  若い娘がタバコを吸い終わる。火をもみ消して、ゆっくりと話し始める。 
 
  「・・・では話していいですか?OK?私がこれから話すのは・・・私は話しなれていないので、リラックスしなくてはならなかったんです。私は自分の胸の中にしまっておくようなタイプなんです」 
 
  娘が話すのは13歳の中学生の時に出あった若い新任教師と恋をして子どもを作ってしまった話だ。この話は彼女が15年以上、親にも明かさず、自分の胸にしまっていたものである。しかし、今、彼女はいかに教師と出会ったか、話し始める。 
 
  その教師は大学を2つも出た勉強家で、生徒をよく遠足に連れて行ってくれた。職業教育の時間に彼女が「海洋生物学者になりたい」と書いたら、水族館に連れて行ってくれた。彼女はサメが好きで、水槽の中のシュモクザメを見ていた。すると、後ろにいた教師から、もっと近づくようにと身体で押された。シュモクザメが間近に迫ってきた。そのとき、教師は「海の生き物の悲劇的な気高さ」とだけぽつりと語った。 
 
  「私は先生のペットではなく、先生はただ私にオープンだったんです。ジョークを話してくれたり、科学雑誌の写真を見せてくれたりしました」 
 
  娘が旺盛な好奇心の持ち主と知って教師は車で送り迎えもしてくれるようになる。プジョーでいつも聞いていたのは「ビリー・ホリデイ」だった。「君はビリー・ホリデイを思い出させる」と教師は言った。「どこか悲しげだ」 
 
  休日は遠くまでドライブに連れて行ってくれた。彼女は翌年、妊娠する。それを聞いて「僕は子供が好きなんだ」と喜んでくれた教師はすぐに学校を辞めて大学に戻り、遠い学校に赴任してしまった。音信も途絶えてしまう。それから独白は14年後。彼女は息子を連れて彼に会いに行くのだ・・・。 
 
  この劇も独白である。「父親が誰かは誰にも言わないから」と教師に約束した通り彼女はその言葉を守り通した。しかし、今、彼女は話し始める。 
 
  「メディア」も、「イピゲーニア」と同様、ギリシア神話から取ったタイトルだ。夫が浮気をしたために二人の子どもを殺す女の名前である。しかし、「メディア 第二の物語」は娘が復讐をするわけではない。ただ、教師がその後結婚した女性は子どもができない体だった。彼は14年後、モーテルで息子を見て涙を流す。そのとき、彼女は「子どもが好きなんだ」と言ったあの言葉は本当だったんだな、と思う。この話も誰にも話せない秘密をしょって生きてきた女性の物語である。 
 
  独白だから、と言ってしまえばそうだろうが、この劇も孤独な空気に満ちている。社会が崩れつつある気配がある。90年代といえばビル・クリントンの時代である。その後、2000年代には9・11同時多発テロ、イラク戦争、金融崩壊が待ち受けていた。下り坂に向うアメリカ人をラビュートは秘密を抱えた孤独な人々の群として描いている。しかし、この劇は再び人間に向って歩き出そうとしているアメリカでもあるように僕には感じられた。 
 
■ニール・ラビュート(1963−) 
劇作家、映画監督、脚本家。映画監督としては「ベティ・サイズモア」「ウィッカーマン」「抱擁」などがある。当代、アメリカ一の劇作家という評価もある。 


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