2011年05月06日11時41分掲載  無料記事
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文化

【演歌シリーズ】(16)「黒髪幻想」星野哲郎の情歌 ー至福の出会いー  佐藤禀一

◆『アンコ椿は恋の花』エピソード 
 
  歌謡曲・演歌の歌づくりは、曲より詩が先であったと、これまでたびたび書いてきた。それを物語る象徴的なエピソードがある。作曲家市川昭介が、一人の少女を伴って作詩家星野哲郎宅を訪れる。事情で星野は、日本クラウンに移籍を決めていた。もうコロムビアで詩を書かないと言うのもかまわず、その少女の歌声を聴かせた。星野は、その印象を、その声のすごさに、近所迷惑にならないかと、僕は女房に家の窓や戸を閉めさせましたね。破天荒な声でした。それまで出会った歌手のイメージを、すべて吹き飛ばしてしまうほどでした。」と語っている。市川は、少女が歌い終わると彼女を連れてさっさと家に帰ってしまった。星野は、 
 
「この出会いをおろそかにすると、自分の作詞家人生に大きな悔いを残すだろうと思いましてね。昭ちゃんが家に着く前に作詞してやろう」 
 
  そして、FAXの無い時代なので、深夜市川と少女が帰宅する時間に、電話送稿した。 
 
「三日おくれの 便りをのせて/船が行く行く 波浮(はぶ)港/いくら好きでも あなたは遠い/波の彼方へ 行ったきり/あんこ便りは あんこ便りは/ああ 片便り」 
 
  どよもすような唸り声にくるまれたこの歌は、1964年大ヒット。歌手は、都はるみ、曲は、『アンコ椿は恋の花』だ。有名なこの逸話に、当時のベーシックな歌づくりの姿がある。作詩家がまず、歌い手の声の表情・表現力・個性をつかみ、時代の匂い、情、ロマン、別離や恋のドラマなどを纏わせて詩を書き、作曲家は、その詩と歌手の個性が最大限に発揮されるような旋律をつくる。 
 
◆星野哲郎至福の作詞家、作曲家との出会い 
 
  星野哲郎は、海に憧れ高等商船学校を卒業してから、船乗りになるが、腎臓結核で海の生活を断念。故郷山口県東和町で病床生活をおくる。1952年27歳の時、コロムビアの歌謡コンクール課題歌詞募集に、商船学校実習生時代上海を訪れた時の印象を詩にして応募したところ入選。石本美由起補作、竹岡信幸作曲、若山彰・初代コロムビア・ローズ歌で『チャイナの波止場』と題されレコード化された。これが縁で石本主宰の「新歌謡界」の同人となり、石本を作詩の師と仰いだ。 
 
  作曲家船村徹との出会いは、1957年。船村は、すでに『別れの一本杉』(歌・春日八郎 詩・高野公男)『ご機嫌さんよ達者かね』(歌・三橋美智也 詩・同)『早く帰ってコ』(歌・青木光一 詩・同)など話題曲を書いている売れっこ作曲家であった。船村が審査委員の一人であった「横浜開港百周年記念歌詞募集」に応募、見事1、2等を独占、『浜っ子マドロス』『みなと踊り』と題し、船村が作曲、歌は、なんと『リンゴ追分』(詩・小沢不二夫 曲・米山正夫)など数々のヒット曲を持つ天才歌手美空ひばりであった。 
 
  それから、星野哲郎は、船村徹とのコンビで『夜が笑ってる』(歌・織井茂子)、『なみだ船』『風雪流れ旅』(歌・北島三郎)、『兄弟船』(歌・鳥羽一郎)などなどヒット曲をかっ飛ばすのである。美空ひばりの最後の演歌『みだれ髪』もそうだ。 
  出会いで忘れてならないのは、ディレクターの馬渕玄三である。楽譜を読めないことをはばからず、一風変わった一匹狼的なディレクターであった。五木寛之が描いた歌謡界が舞台の『艶歌』『海峡物語』に登場する名物ディレクター<高円寺竜三>は、馬渕をモデルにしたことは、良く知られている。<竜三>にちなんで馬渕は、<艶歌の竜>とささやかれもした。その仕事ぶりを覗いてみる。 
 
  まず『からたち日記』。『この世の花』で世に出た島倉千代子は、やや低迷していた。会社からの彼女を浮上させろ、「泣き節は駄目」という命に抗して、馬渕は、逆に泣き方がたりないと考える。「お千代に一番似合う花を見つけ」「詞に四季と台詞を入れろ」と新人の西沢爽に白羽の矢を立てて詩を書かせ、メロディを新進作曲家で泣き節の上手い遠藤実に依頼。『からたち日記』は、売れに売れた。馬渕は、勢いに乗り『浅草姉妹』(詩・石本美由起 曲・遠藤実)でこまどり姉妹をデビューさせ、日活のマイト・ガイ小林旭の『ギターを持った渡り鳥』(同名映画主題歌 詩・西沢爽 曲・狛林正一)をヒットさせる。<艶歌の竜>は、星野哲郎の詩心を高く評価、その動向を注目していた。『思い出さん今日は』(歌・島倉千代子 曲・万城目正)『黄色いさくらんぼ』(歌・スリー・キャッツ 曲・浜口庫之助)などいい詩を書いている。でも、これ以外ヒット曲にめぐまれなかった。馬渕は、そんな星野に新人作曲家市川昭介を会わせる。 
 
  馬渕は、レコーディングの際、市川を“代教”として重宝していた。代教とは、多忙な作曲家に代わって収録の時、歌手にその曲を指導する役である。市川は、歌手の評判も良く、島倉千代子などは、「昭ちゃん先生」と呼んで大変気に入っていた。市川昭介作曲家デビューは、その島倉の歌『恋しているんだもん』(詩・西沢爽)であった。島倉の口ぐせ「だもん」を詩にも曲にも生かせと指示したのは、言うまでもなく馬渕であった。この歌には、くすぐったいような初恋の風がそよぎ島倉のこれまでの少女的イメージを変えた。 
  市川昭介は、この曲で第3回レコード大賞作曲奨励賞を受賞。輝かしいデビューであったが、生活は、不安定であった。馬渕は、この市川と星野を組み合わせればヒット曲を生むだろう、それが二人の暮らしをバックアップすることにもなる、そう感じていた。 
 
「恋をしましょう 恋をして/浮いた浮いたで/暮らしましょう/熱い涙も 流しましょ/昔の人は 言いました/恋はするほど 艶(つや)がでる 恋はするほど艶がでる」 
 
  芸能誌のグラビアで、手に扇子、緋の袴、白い着物、まるで巫女さんのような出立ちのこの歌手を見て唖然としたのを憶えている。それにしても命じられて恋をする人などいるのか。しかしである。「恋をしましょう 恋をして」とまるで浪花節でも唸るようにこのフレーズを歌われると何故か心が踊ってしまうのだ。「浪曲と童謡をミックスした歌を」という馬渕玄三の求めに応じ当初『恋よ恋、なせよ恋』という題名で曲がつくられた。後の星野、市川の述懐によると、詩も曲も嫌になる程、何度も書きかえさせられたと言う。 
 
  馬渕によって『恋は神代の昔から』に改題されようやくレコーディング。畠山みどりのこの出世曲は、1962年6月わずか2千枚のプレスで細々と発売された。コロムビアは、売れることを期待していなかったようだ。それがじわじわと売れ9月に火がついたのだ。この曲は、星野哲郎応援歌詩のスタートでもあった。もうひとつの個性“海・船”は、やはりこの年、船村徹、北島三郎の後に黄金トリオと言われたコンビにより『なみだ船』で花開くのである。このふたつは、星野演歌の大きな特徴である。しかし、私は、星野演歌の最大の魅力は、情歌だと思っている。それを次回で考える。(参考資料『演歌 艶歌 援歌 わたしの生き方星野哲郎』(佐藤健著 毎日新聞社)『「艶歌の竜」と歌謡群像』(奥山弘著 三一書房) 


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