2011年09月04日14時11分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(5) 『昭和萬葉集』卷七・八の原爆短歌を読む  崚珪紊念鬼どもが毒槽をくつがへせしか黒き雨降る」(正田篠枝)  山崎芳彦

  『昭和萬葉集』は昭和元年から50年間に亘る激動し変転した時代に作られた短歌の一大アンソロジーで、1979年から1980年末にかけて講談社が刊行した全20巻・別館1の大全集である。編集顧問に土屋文明・土岐善麿・松村英一を置き、選者には太田青丘、鹿児島寿蔵、木俣修、窪田章一郎、五島茂、近藤芳美、佐藤佐太郎、前川佐美雄、宮柊二が揃い、さらに編集協力者として上田三四二、岡井隆、島田修二らが備えるという編集体制を組み、時代を追って分類し配列しているが、項目立て、脚注、巻末の年表、各巻ごとに収録の全作者を対象とした作者略歴・索引など読者にとって行き届いた編集がなされている。 
 
  注目されるのは、ある意味で当然というべきかも知れないが、第一回配本が卷六「太平洋戦争の記録 昭和16−20年」、第二回配本が卷七「山河慟哭 焦土と民衆 昭和20−22年」さらに続いて卷八「復興への槌音 昭和23−24年」とされ、第二次世界大戦への悪夢のような突入から、敗戦、占領下の日本という時代を、短歌はどう詠ったのか、人々はどう生きたのかを結社所属歌人のみでなく広く一般から集録歌を求めることから刊行を開始したことである。 
  日本歌壇を代表するといわれる歌人から無名の人々まで、そして天皇・皇后の「御製」までが収録され,全卷合せると6万首を超える作品が、昭和の半世紀の時代の変遷の実相、その中での人間の生の実態、生活の中から表現される思い・・・を記録した、まさに言論出版の責務を負う出版社の為した壮挙であったろうと思う。 
 
  私はこの昭和萬葉集全巻を精読したわけではないし、手元にもっているのも前記の三巻のみで、その他については図書館を利用しながら読んでいる。「核を詠む」をこれまで4回にわたり掲載してきたが、今回から、昭和萬葉集に収録された原爆短歌を抽いていきたいと思う。 
 
  広島、長崎への原爆投下による被災の実態を詠った作品は卷七・八に多く収録されているので、その歌を読んで生きたい。 
 
 卷七「山河慟哭 焦土と民衆」には、「敗戦前夜」の項に「広島」、「長崎」の項目を立てているが、当然のことながら原爆を投下された広島、長崎の悲惨な実態を短歌表現した作品が収録されている。「広島」の冒頭には正田篠枝さんの作品9首が並ぶ。正田さんの歌集『さんげ』からの収録であることが記されている。 
 
1 目の前をなにの実態か黄煙がクルクルクルと急速に過ぎる 
 
2 天上で悪鬼どもが毒槽をくつがへせしか黒き雨降る 
 
3 ズロースもつけず黒焦(くろこげ)の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめき行く 
 
4 石炭にあらず黒焦の人間なりうづとつみあげトラック過ぎぬ 
 
5 子と母か繋ぐ手の指離れざる二ツの死骸水槽より出ず 
 
6 酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る 
 
7 大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり 
 
8 目玉飛びでて盲(めしひ)となりし学童はかさなり死にぬ橋のたもとに 
 
9 焼けへこみし弁当箱に入れし骨これのみがただ現実のもの 
 
 
  歌集『さんげ』には序歌を含めて原爆投下の日からほぼ一年の間に詠まれた作品100首があるが、上記の収録作品はその中の9首にのぼり、さらにこの卷の「原爆の後遺症」の項目に 
 
10 よちよちとよろめき歩む幼な子がひとり此れの世に生きて残れり 
 
11 二歳四歳六歳八歳(ふたつよつむつやつ)四人の兄妹(きや 
うだい)べつべつとなりて貰はれゆきぬ 
 
  の二首が同じく『さんげ』から収録されているので、合せて11首の正田短歌が収録されたことになる。(注・作品の番号は筆者が付けたもの)詳しく全体を当たったわけではないが、個人歌集からこれほどの作品が入ったのは異例の多さであろう。 
 
  正田さんの歌集『さんげ』が原爆短歌の嚆矢をなすとされ、そ 
の作品が原爆投下による悲惨な実態、もたらした悲劇を、自らが被爆し、その現場にいた彼女が、ある歌人をして「これは短歌ではない」と言わしめたほどの、既成の短歌表現を超えた、このようにしか詠い得なかった原爆被爆の実を確かにとらえて、諸相を明らかに表現した作品として評価された故のことと言えるだろう。 
 
  収録された作品それぞれを読めば、「1」はまさに実体験した、その現場にいた人にしか表現し得ない原爆投下の直後の情景でありそれをこのように表現した「写実」の力は、鍛えられた短歌表現による、彼女ならではの詠いようであると思う。(被爆時、正田さんは35歳だったが、19歳ごろから歌誌への投稿をし、その後、地元、東京の短歌結社に所属し作歌を続けていた) 
 
  「2」の歌の独特な表現、原爆投下後の10時過ぎごろからはげしく「黒い雨」が降ったのを「天上で悪鬼どもが毒槽をくつがへせしか」と発想し詠いきるには、彼女が詩や文章にも浅からぬ鍛錬 
に励んだことと無縁ではないと感じさせられる。さらに、つづく一連の作品のリアルかつヒューマニティな感性に支えられた作品は、既成の短歌的な語彙には収まりきらない表現手段を創造して、かつて誰もが経験しなかった原爆被爆の現実世界の実態を、彼女自身の思いを短歌作品に背負わせて表現し得ていることに、感動せずにはいられない。自らの被爆体験はもとより、同じように被爆した人々の死と生きのびた苦しみにしっかりと思いを寄せた諸作品は、広島をヒロシマと化した原爆の本性、本質を暴き、人間世界にあってはならないものの一つである「核」利用のありようを訴える歌となった。 
 
  なお、脚注「正田篠枝」では次のとおりの紹介がされている。 
 
  広島市御幸橋近くの自宅で被爆した正田篠枝は、被爆から約半 
年後の21年3月、歌集『さんげ』を発行した。(奥付は22年12月)。「その当時はGHQの検閲が厳しく、見つかりましたなら、必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよいという決心で、身内のものが止めるのに、やむにやまれぬ気持で、秘密出版をいたしました。」(後述の『耳鳴り』)と自らいうように、『さんげ』は、原爆の悲惨きわまりない事実を、きわめて人間味あふれる視点でリアルに描出した、特異な歌集である。 
  また『耳鳴り』(昭和37年 平凡社)は、『さんげ』を再録するとともに、詩や散文なども収め、原爆後遺症に苦しむ著者の痛切な生活記録となっている。正田篠枝は34年原水爆禁止母の会の発起人となり40年6月、原爆症乳癌で逝去した。 
 
  きわめて行き届いた脚注であり、正田短歌、歌集『さんげ』へ 
の高い評価をうかがわせる。なお、正田篠枝研究が、関係者によって行なわれてきて、歌集『さんげ』の自家版の発行の時期については、現在では昭和22年10月が定説となっているが、『さんげ』の源ともいうべき短歌39首が正田さんが師事した杉浦翠子氏主宰の短歌雑誌『不死鳥』(ふしどり)7号、昭和21年8月発行に唉!原子爆弾」と題して掲載されていることからも、正田さんが、被爆直後から原爆短歌の作歌に取り組んでいたことは明らかである。(正田作品については、いずれ別稿を立てて読んで生きたいと思っている。 筆者) 
 
  昭和萬葉集卷七、八にはさらに多くの被爆者をはじめとする歌 
人、その他の人々の短歌が収録されている。引き続いてその短歌 
を読み続けることにしたい。いずれの作品も、この国の現実(原発問題、沖縄基地など平和に関する諸問題など)と将来を考えながら読み継ぎ、遺していかなければならないと思う。 
 
  福島原発の壊滅的な事故に喘ぐような思いをかかえ、あるいは 
核軍事大国の米国の軍事基地に侵され続けている沖縄への思いを抱きつづけるからでもある。 
(つづく) 


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