2011年09月09日02時40分掲載  無料記事
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文化

語学に再挑戦 7 聾者の取材から見えた語学の心  村上良太

 語学というと、英語やフランス語などがすぐに頭に浮かぶが、手話もまた語学だと思う。1996年に聾者の映画監督とその妻を取材した時、口幅ったい言いかたになるが語学というものの本質に触れた気がした。監督はオーストラリアから来日して東京・両国で暮らしていたロバート・ホスキンさんである。妻の土屋靖子さんも聾者で、ホスキンさんの映画に女優として出演していた。 
 
  ホスキンさんに出会ったのはホスキンさんの短編映画上映会の場だった。この時見た20分ほどの喜劇「ちぎりあい」に図らずも胸を打たれた。主人公は聾者の男で、会社の同僚や上司である聴者たちとの意思疎通がうまくいかず、ストレスをためこんでいる。そのことが聾者同志の夫婦生活をも危機にさらしている。主人公はアルコールに浸り、聾者の妻とのコミュニケーションすらうまくいかなくなっている。そんな二人が大喧嘩を経て再出発する話なのだが、この映画の特徴は喜劇になっていたことである。 
 
  喜劇かつ短編でまず思い出されるのはチャップリンだろう。言葉を使わず、体の動きと表情ですべてを語る。手話も手の動きだけでなく、表情が重要なのである。だから嬉しいと基本的に嬉しい表情になる。手話とパントマイム、手話と喜劇の間には体をフルに使ったビジュアル表現としての親和性がある。このことにホスキンさんは気づいた。 
 
  聾者は手話という言語を用いる文化圏の人間なのだとホスキンさんは常々考えていた。単に身体的能力が欠損した言葉が不自由な人間ではないのだ。そのことを言わんがために、ホスキンさんは特に笑いにこだわった。なぜなら、笑いは聾者、聴者が壁を作らずともに理解できる高度な表現だからである。僕は聾者の映画に映画の1つの可能性を見た気がした。それはイタリア映画が今面白い、とか、日本映画が今面白い、というのと同じ意味合いにおいてである。 
 
  映画の中で夫は妻を振り向かせようと床を強く足踏みする。聴者の僕らも感情を害すると床を踏みつけたりするが、聾者の場合は足を踏み鳴らすのは相手を振り向かせるという絶対的必要からである。なぜなら聾者同志の会話は対面して相手の姿を見なくては絶対に成立しないからだ。耳が聞こえなくても、床を通して振動が伝わるから振り向くのである。しかし、夫婦関係が険悪になっていれば向き合うことがとても難しい。足を乱暴に踏み鳴らす夫に妻は怒る。「そんなにどんどんやらなくてもいいでしょ!」聾者は互いに向き合わないと喧嘩もまた成立しない。ホスキンさんの映画は基本的に人間のコミュニケーションをテーマにした映画といえる。そのことは制作現場にも表れている。 
 
  夫婦の映画作りをドキュメンタリーにする過程で、夫婦には4つの言語が関係していることに気づいた。オーストラリアの手話、英語、日本の手話、日本語である。オーストラリアの手話と日本の手話は違っていた。だから妻の靖子さんが来日したホスキンさんに一から日本の手話を教えたのだった。 
 
  ホスキンさんがオーストラリア人やアメリカ人の脚本家たちと共同作業する時はパソコンを使って英語でチャットをしていた。豪州では聾者の子供はまず手話を習得し、それから英語を習得する。だから、英語が聴者にとって母語であるというのとは少し事情が違っている。ホスキンさんにとって英語は半分自国語であり、半分外国語みたいなところがある。 
 
  一方、靖子さんの少女時代、日本ではまず日本語を習得し、手話は積極的に教えてもらえなかった。というのも、手話を教えたら、聾者同志で固まってしまって日本の社会に溶け込めなくなると日本の聾学校が考えていたからである。そのため、聴者の口の動きを見ることで話を「聞き取る」訓練を受け、さらに「聞こえない言葉を話す」訓練をさせられていた。靖子さんの受けた教育はそのようなものだった。それ自体を否定するものではないが、手話を覚えて使うことで仲間と無理のない話ができる。それは人間として生きるうえでとても貴重な感覚ではないだろうか。 
 
  ホスキンさんは10年以上日本で暮らしたこともあって、コツコツ漢字も学習していた。僕宛に来る郵便物のあて名には直筆の漢字が書かれていた。聾者と言えば一見、単に耳の不自由な人たち、言葉も不自由な人たちと見てしまいそうだ。しかし、その裏で彼らがどれほど真摯に言葉に対して努力をしてきたか。どれだけ人と触れ合うために苦労してきたか。そのことを取材で深く考えさせられた。 
 
  今の時代、携帯電話があればどこでもいつでも簡単に話ができる。携帯で連絡を取りながら、スーパーの買い物の相談をする人もいる。しかし、コミュニケーションの強さや深さはその便利さとか手軽さとは別のものである。むしろ、伝えるのが難しいほど、コミュニケーションは深まるのではなかろうか。相手に伝えるために費やした努力や思いの強さがコミュニケーションの強さや深さを決めるように思えるのである。それはまた語学にも通じるように思えてならない。この取材を通して僕はそんなことを思うようになった。 
 
■映画監督ロバート・ホスキン(Robert Hoskin)さん 
現在、夫婦はメルボルンで映画作りを続けている。 
「ちぎりあい」の英語のタイトルは「chance for love」である。 
http://www.innersense.com.au/mif/hoskin.html 


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