2011年10月12日12時35分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(10)『昭和の記録 歌集八月十五日』の原爆短歌を読む◆ 峺暁ドームの窓枠錆びてつらなるに洩れくるは何 風か呻きか」(伊藤雅子) 山崎芳彦 

 前回に続いて『歌集八月十五日』に収録された原爆短歌を読んでいきたい。原爆にかかわる短歌は、原爆の被爆者による作品だけではない。戦地にいて家族や縁ある人を原爆で失った人が読んだ短歌も少なくないし、友人知己が原爆死した歌人が詠った作品も多い。この歌集にはそうした作品も収録されている。思いのこもった、詠わずにはいられない作者が少なくない。広島、長崎の原爆被災は、被爆者だけでなく多くの人々にかかわって、その生きようを深め、高くしているのではないだろうか。広島、長崎の被爆者に思いを寄せ、全国各地に暮らす被爆者とつながり、共に原爆について、日本の戦争の歴史について考え、学び、行動する人々がいることを、私も知っている。 
 
 歌人である伊藤雅子さんの、次のようなヒロシマ体験を踏まえた作品が、この歌集に収録されている。 
 
 
(ヒロシマ)       伊藤雅子 
 
原爆ドームの窓枠錆びてつらなるに洩れくるは何 風か呻きか 
 
「ちちをかえせ ははをかえせ」と仮名のみの文字生動す詩碑の面(おもて)に 
 
とびこみて戦火逃れし元安川にふりそそぎゐる真夏のひかり 
 
学徒疎開する弟をひろしまに訪ひしは原爆二日前にして 
 
ひろしまに学びゐし少年弟のつね持ちゐたる被爆者手帳 
 
半世紀越えたる夏のヒロシマに夾竹桃が赤々と咲く 
 
健やかにわが生き延びて為したるは何 原爆忌今日の呼吸(いき)する 
 
 作者は次のように記している。「私がヒロシマを訪れたのは二回。初回は昭和二十年八月四日。広島幼年学校の生徒であった弟が学徒疎開をするというので、あるいは最後の別れになるかとの悲壮な思いで、母と二人で逢いに行き、広島郊外に疎開する弟を見送った。ところがその翌々日、原爆が投下されたのだ。二日の差で死をまぬがれた弟であり母と私であった。二度目に訪れたのは半世紀経た夏の日。」このようなヒロシマ体験があって作者はヒロシマを詠うのである。 
 
 「わが生き延びて為したるは何」半世紀を経た原爆忌に「今日の呼吸する」作者の思いの深さは、その半世紀をどのように生きてきたかを語っている。「弟のつね持ちゐたる原爆手帳」、疎開した弟さんは放射能を浴びたのだろう。 
 
 このように、自身が直接の被爆を免れても半世紀を経て原爆を詠い、再びの惨禍がないことを願っているのに対し、読売新聞の9月7日付朝刊の社説はまことにおぞましいことを書いて、対極にある。 
 
私は同新聞を購読していないから気が付かなかったが、ある友人からのファクスでそれを読んだ。戦後間もなく米国の原子力政策の国際的な展開と結び、CIAとも絡みながら日本における原子力「平和利用推進」トップリーダーとなり、政界への野望を持って暗躍し、総理大臣をさえ夢見たという、かつての社主・正力松太郎の系譜が脈々と同紙に生き続けていると思わないではいられなかった。いま同社の最高権力者である渡辺恒雄氏の言動も、後継にふさわしいものだ。 
 
 その社説は「展望なき『脱原発』と決別を」と題するもので、野田新首相の「安全が確認された原発を再稼動する」方針を、菅前首相の「脱原発依存」と一線を画す現実的な対応と評価し、原発は絶対必要と論じただけでなく、その最後を「原子力技術の衰退防げ」の小見出しのもとに、(1)高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきでない、(2)中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画しており、日本が原発を輸出し安全操業の技術を供与することは原発事故のリスク軽減に役立つ、(3)日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、プルトニウムの利用を認められている現状が、外交的には、潜在的な抑止力として機能していることも事実だ、(4)(野田)首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析してエネルギー政策を推進すべきだ、と結論付けている。プルトニウムの利用が認められている・・・外交的には潜在的抑止力として機能している・・・ 
 
 原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して原発の存続新設、反脱原発のエネルギー政策の推進、という文脈に透けて見えるのは、原発と核兵器が切り離せないということではないか。わが国で最大部数の発行を誇る読売新聞が、その社説で、まさに白昼堂々、核兵器の原料になるプルトニウムと原発を結び付けて原発推進論を説く異常さ。同紙はかつて憲法改正試案を発表したこともあった。 
 
 原爆短歌を読む私にとって、黙過しえない読売新聞社説なので、また本筋から外れたが、福島原発事故によってもたらされた災厄のさなかのことであるから、触れないではいられなかった。原爆短歌に戻る。 
 
 
 (原子雲)         奥村孝子 
 
荒るる田を見兼ねて農婦となりし母天候不順に愚痴言はざりき 
 
息詰めて共に見上げし原子雲姉は癌にて若く逝きたり 
 
中天まで黒く覆ひし原子塵赤き陽仰ぎ竦みて居たり 
 
原子雲に驚き永く佇ちし橋今西空に夕雲赤し 
 
 
  (熱)          香取 清 
 
爆心の猿楽町は一瞬に壊滅したり四五年八月六日午前八時十五分 
 
空まさに落ちて来しかと轟音の驚愕一瞬に身は灼かれたり 
 
爆心地は四千度なる熱線ぞ人間蒸発せしにあらずや 
 
熱線に溶けたる皮膚の垂れ下がり腕をかかげて幽鬼のごとし 
 
復元せし爆心地域の戸別地図墓標の如く戸の名の記さる 
 
「過ちは繰り返しません」現実を思へば慰霊碑の言葉そらぞらし 
 
核戦争「先に撃つ者も次には死ぬ」核に依るもの核にて滅ぶ 
 
 
(被爆)        桂 功三 
 
戦友ら営庭にゐて爆死せり整列終へし楠の木の下 
 
住職も檀家の多くも被爆死し荒れ果てし寺に墓を捜しぬ 
 
戦ひは勝つと信じて励みにきわれ兵器廠に妻被服廠に 
 
子らがみな結婚するまでわが妻は原爆手帳貰はぬと言へり 
 
わが兄はレイテ島にて玉砕しその許婚者は原爆死せり 
 
母の忌に被爆せしうから集まりて原爆のことに触れず別れぬ 
 
 
  (被爆)        河原幸子 
 
出撃の前夜にアリラン歌いたる卓君も散りぬ日本兵として 
 
四歳の弟を荼毘に付しし被爆者の話に涙す五十六年を経て 
 
 
  (長崎原爆)      草野源一郎 
 
焼け跡のそこここに余燼けぶりゐる八月十日瓦礫踏みゆく 
 
方位感失ひしまま従ひて巨木倒れし焼原を越ゆ 
 
瓦礫積み立木くすぶる浦上の人掻き消えし静寂ををゆく 
 
夾竹桃焼けて燻る道の辺に馬の屍は煮えたぎりゐつ 
 
壊滅の医学部をめぐり呼びつづけ眼科地下室に生きて逢ひ得たり 
 
原爆を逃れて生きし五十年世に生き生きと励みしならず 
 
生き延びて原爆管理診断書わが書くことは思ひみざりき 
 
無蓋車に被爆者あまた運ばれし駅舎やけふの茜ひろがる 
 
原爆を逃れしものは世の隅に隠ろふごとく身を狭く棲む 
 
おほかたの友死に果てぬ原爆を浴びたるものも浴びざるものも 
 
 草野さんは「昭和二十年八月八日、長崎医大学生だった私は病気休学を命ぜられ、一日違いのことで・・・諫早の自宅に帰った。それと逆に大学に出掛け受講中に被爆即死した者も多く思いは複雑だ。八月十日、諫早からの救護隊に加わり、長崎浦上方面の工場、大学構内、下宿の跡など探し歩いたが、死の街と化した瓦礫の原野は人通りもなく、何かひんやりとしていた。生きのびたものも放射能のため一週間のうちに殆ど死に絶えた。」と体験を記していて、作品の背景がより明らかにされる。6首目からの作品は、生き延びた人が、そのことを幸いと思い得ない心情を詠って深い。 
 
 桂功三さんの4首目、「子らがみな・・・」には、被爆者である母のこの思いが原爆被爆の被害の深刻さを、改めて思い知らされるし、いま福島原発事故が撒き散らした放射能に対する、特に若い母親たちの恐怖感と原発に対する怒りとも重なる。 
 
 
 (原爆死没者公開名簿)      河野千代子 
 
川土手の衛戌病院の跡に建つ慰霊の塔に義母の名はあり 
 
原爆忌の平和大橋渡るとき人ら自づと川をのぞきをり 
 
教へ子ら十七人の名の載れる原爆死没者公開名簿 
 
公開の名簿を繰れば教へ子ら八月六日に爆死とありぬ 
 
 
 (ひろしまの鶴)         桜井幸子 
 
襤褸まとう人らヒロシマを離る刻(とき)爆心地へとわれら急ぎき 
 
被災地の無気味なる昼トラックに救護班われらかけつけにけり 
 
肌脱ぐにしぐさ羞(やさ)しき女(ひと)なりき焼けこげし背に眼をそむけたり 
 
剥がれたる頭皮指差す少女にて痛みを越えてしめやかに笑む 
 
死体越え死体を踏みて治療所のテントへ走りき八月六日 
 
旅に折りしわれの一羽も焼かれしか放火されにきひろしまの鶴 
 
 桜井さんは、「八月六日、広島に原爆投下された日の午後に、日赤救護班として呉海軍病院にいた私たち四十名に広島への救護命令が下りました。」と記しているが、赴いた広島の惨状は具体的に作品に表現されたように、悲惨の極みであった。最後の一首を読むのは辛く悲しい。桜井さんの祈りが届かない心もあったのだろう。 
 
 
  (広島)           櫻尾道子 
 
広島の原爆敗戦母の忌と暑き八月又めぐりくる 
 
学校の焼跡は平和大通りとなりて静けく慰霊碑のたつ 
 
八時十五分唯手を合はす広島の空に向かひてただ手を合はす 
 
今生きてゐる幸せ原爆を受けて五十年病むこともなく 
 
原爆に逝きにし友と同じ名を短歌雑誌にゆくりなく見つ 
 
 
 (友、原爆に死す)      大悟法 喬 
 
広島は新型爆弾に壊滅と噂聞くのみ戦地にわれは 
 
安否問ふすべとてもなし台湾に兵なるわれはただ祈るのみ 
 
教へ子らの編みし遺歌集われを呼び辿りつかせぬ友の墓処に 
 
原爆より四十年余やうやうに尋ね得て詣づ友の奥津城 
 
うつしみは影もとどめず懐中時計の焼け殻わづかに残りゐしのみ 
 
懐中時計の焼け殻まつる友の墓爆死三十三歳と記しとどめて 
 
死処を得し君と思はむ原爆に教育者君教室に果つ 
 
 台湾に兵としてあり、教師である友人のいる広島が新型爆弾により壊滅したとの噂を聞き、友の安否を気遣う友情の深さを偲ばせる作品、さらに原爆死したその親友の墓を探し、懐中時計の焼け殻をまつる墓に詣り、三十三歳の友の死を、「死処を得し君と思はむ」と詠う作者の真情、これも原爆短歌である。作者の戦場での兵としての日々にも、私は思いをひろげる。             (続く) 


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