2011年10月28日00時00分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(12)『昭和の記録 歌集八月十五日』の原爆短歌を読むぁ  嵌樟さ経てケロイドに汗噴けり何の異変か脱皮かこれは」(長谷川純子)  山崎芳彦 

 前回に引き続き『歌集八月十五日』所収の原爆短歌を読んでいきたい。 
 
  (青炎〈ひ〉の闇 被爆のうた)  長谷川純子 
検証もカルテも持たぬ亡骸を浚いつくして油照る海 
 
死なざりし証に拇印もとめられ被爆手帳の更新受くる 
 
冷房のバスを降りれば爛れたる千の手伸びきてただに水欲る 
 
引きとりてなき被爆者の骨壷がことりと動き道を問うなり 
 
半世紀経てケロイドに汗噴けり何の異変か脱皮かこれは 
 
 被爆者の忘れられない体験と生き延びている日々の思い、ふかい心情が詠われて心を打つ。最後の一首の表現には作者の生の真実があると読んだ。原爆は作者の中でいつまで弾け続けるのだろうか。これが核放射能なのだと、改めてその反人間の本質を思う。 
 
  (傷痕‐広島被爆‐)       平岩不二男 
 
灼け爛れし手を伸べ水を求むれば弱きこゑよりまず与へゆく 
 
水を欲しがる細きこゑは少女と思ひしが爛れし肉塊がうごめく 
 
壊死(ゑし)近き患者に群れて飛ぶ蝿と汗垂りて油塗りゆくわれと 
 
臨終のをとめに油塗りやるに恥じらふ如く泣くごとく見ゆ 
 
油塗るはかなき治療つづけ来て息絶ゆれば一纏めに油かけて焼く 
 
星群は光増しつつきらめきて露置く丘に死体焼きをり 
 
暑き日がしづかになりて暮るる草屍(しかばね)の臭ふなか出でて来つ 
 
幕舎出でて秋澄む水の泉あり或る夜は堪へがたく平和を恋ひき 
 
「放射能あり水飲むな」ビラを貼り行く吾も犯されてゐるかも知れぬ 
 
明日が判らぬは軍医も兵も同じにて六千体の骨を囲みて眠る 
 
 作者は、原爆が広島に投下された二日目に広島師団に公務出向で到着したが、「市街は一面瓦礫の町であった。その日から死臭のなかで一ヶ月間救助と治療を手伝った。軍人民間人の区別なく街路にも太田川にも火傷で腹のふくれた被爆者が溢れていた。・・・屍体を毎日河原で焼いた。 
 収容した無縁仏の骨は六千体を越えた。私が見た生地獄の中で詠んだ鎮魂歌である。」と記している。目の前で死んでいく被爆者になす術もなく死体処理に携わった作者は、鎮魂の歌を詠みつつ苦悶しただろう。「吾も犯されてゐるかも知れぬ」のである。体験を具体的に表現して的確であることに、作者の特徴があると思う。 
 
  (原爆の惨)           広兼忠司 
 
死臭すら放ち黄水を吐く妹よ原爆症とふ其のみじめさを 
 
産婆免許看護婦免許とり終へて死にゆく妹かくやしかるらむ 
 
妹の遺骨囲みて歎く夜を馬追虫の啼ききおふかも 
 
尖光にあらはなる背は皮むけて見る間にはげて垂れ下りたり 
 
背の火傷あらはに見せて広島の駅のホームを歩む人見ゆ 
 
 作者が妹さんの被爆死を見ている心情、死にゆく妹の口惜しさは作者の口惜しさ、当時としてはやり場のない怒りであったろう。このような情景が、被爆地のそこここにあった。 
 
  (八月六日)            深川宗俊 
幾筋か火煙立ちのぼる空を蔽い乱層雲西に移りゆく見ゆ 
 
べろべろと剥がれし皮膚をだぶつかせ火煙逃れくる裸形の男女 
 
耳をつきはじける音よ米麦の倉庫の外壁いま崩れ落つ 
 
焼けただれし裸体は少女よ日輪を抱くがごとく天に叫ぶも 
 
虚空つかみ熱いよ熱いよと少女のこえ呪いのごとし日陰なき街 
 
天を抱くがごとく両手をさしのべし死体の中にまだ生きるあり 
 
抵抗の声はひそめて流れゆく武器持たぬ貧しき群衆の輪は 
 
原爆の閃光を受けし壁をめぐり市庁舎の暗き階くだりゆく 
 
ひそかなる地熱よ燃えよ街上にビラ撒きて囚われ行く一人の少女 
 
骨髄を蝕ばまれ死にゆく少年の記憶になき一九四五年八月六日 
 
 歌人であり、詩人である作者の一連は、シンボリックなことばを効果的に用いながら、原爆被爆下の実相を表現して深い。深川さんの作品をまとめて読む機会を持ちたい。 
 
  (広島)            松岡多加笑 
 
被爆して火傷の乙女は生理日の血を流しをり恥ずるすべなく 
 
水をつけて包帯はがせば唸る人に背中の火傷の蛆は見せざりし 
 
腸(はらわた)を流して死にたる馬と共に繋がれたまま牛は焼けをり 
 
水槽に伏せて死にたる母と子を拝むことなく水をば汲みぬ 
 
棒切れの様に積み上げ荼毘にふす被爆の死者の魂鎮まるや 
 
一人ずつ焼けた瓦に盛られいし名の無き骨のその後は知らず 
 
 作者は「当時私は十七歳・・・軽い結核のため、病院の空病棟を借りた療養所で仲間と共に軽い作業をしていました。広島から7キロの所で、きのこ雲を見ました。その日の夕方、病院に運ばれる被爆患者が多いので急遽、看護婦として介護に当たることになり、三週間手伝ってから帰郷しました。」と記しているが、この体験を忘れることはなかったからこそ、悲劇を詠うのだろう。一首一首、具体的であり、言葉にはしない悲しみと、苦悩を背負う原爆体験者の嘆きのひびきが聞える。 
 
   (広島)          村瀬直躬 
辿り来し相生橋より見る川面裸の死者にて埋れをりたり 
 
閃光に灼かれし死者の肌一様に赤銅色に変りてゐたり 
 
爆風に欄干吹きとび平らなる橋を渡りて爆心地へ行く 
 
満員の市電は民家に飛び込みて形なきまで焼けただれゐし 
 
相生橋に並びて近き鉄橋に汽車は川面に垂直に落つ 
 
負傷せし人も交じりて広場より人を探してまたいづこへか行く 
 
広島に新型爆弾落ちたりと大本営の発表聞けり 
 
 作者は、昭和二十年六月に、旅順から在満部隊の兵とともに、本土決戦要員として九州に転属となって内地に帰り、肉親との別れのための外泊許可が出て、空襲によって寸断された鉄道を徒歩と汽車の乗り継ぎで八月七日の早朝に、被爆した広島に着いた・・・と付記している。帰りついた広島の惨状を詠った一連の作品、このように苛烈な体験に遭遇した人びとも多かったのだろう。原爆被爆の翌朝の被爆地は作者の故郷だったのだろう。中国で兵として戦い、原爆に破壊された故郷に兵として戻った作者の思いは、言葉でではなく、状況の描写で語られている。 
 
  (老いし被爆者)        村本節子 
貧血の文字十五も記入して被爆者調査の一日を終る 
 
二坪のバラックに生きる人調べ白血病と記入してくる 
 
熱線の火傷の跡はまざまざと瘢痕攣縮(はんこんれんしゅく)腕は動かず 
 
小頭症九年を病みし乳児なり核の恐怖を聞き書きてくる 
 
採血に素直なる娘(こ)よ赤血球急減の結果にたくましくあれ 
 
自爆テロを瞋(いか)るカナダのの中学生被爆証言を身じろがず聞く 
 
 「昭和二十年八月六日、広島女高四年生十五歳、学徒動員中原爆に被爆(1.8粁)。昭和二十七年、原爆治療対策協議会調査員で行政初の被爆者調査。」と作者は記している。当時、漸く原爆被害者対策を求める声が高まり、広島市は一月に調査員約千人による全市戸別の原爆障害者調査を初めて実施したのだったが、原爆障害で突然死亡する人があとを絶たず、障害を訴える被爆者も多数にのぼったが、外科的障害が多く、その後さらに放射能の晩発性障害の発現は続くことになる。自らも被爆者である作者はこの調査に従事したのだろう。そのときのことを詠った作品だが、政府の被爆者救護対策は、まだまだ緒についたともいえない頃であり、作品の中に作者のそのことへの思いが潜んでいる。 
 
 (長崎被爆)            最上孝子 
笑顔一つ残して幼き吾娘逝きぬ爆音高く小雪降る日に 
 
雑炊を亡き子と姑と食みて生きゐし今のうつつに恋ほしなつかし 
 
被爆せし子が持ちてゐし弁当箱焼けへこみし中に黒こげの飯(いひ) 
                  (長崎原爆資料館) 
 
瓦礫の中ゆ出でし民家の柱時計哀しき歴史の十一時二分を示す 
 
 (長崎被爆)            森 篤行 
真夏日の光を凌ぐ閃光にとつさに伏せし焼けたる土に 
 
強烈な爆風しのぎ駆け込みぬ防空壕へ二人の友と 
 
安堵して俄に襲ふ痛みあり右半身に負ひたる火傷 
 
壕出でて硝子や瓦電線の飛び散る町を友と逃れ来 
 
化膿せし火傷の跡にたかる蝿看取るはらから扇ぎてくれき 
 
「昭和二十年八月九日、当時私は爆心地に比較的近い旧制中学の一年生でした。・・・友人と三人連れで歩いて帰る所でした。桃色の閃光を浴びたのは爆心地から2・五キロの道路上でした。地に伏せ爆風に耐え、近くの防空壕へ駆け込みました。・・・気付かなかった顔や掌の甲に、火傷独特の激痛が襲いました。歯を喰いしばり医療班を待ちました。」と作者は付記している。米国の原爆投下は、文字通りの無差別爆撃、全市民の殺戮行為であったことを改めて思い知らされる。戦争は悪だ、原爆は悪魔の行いだ。作者のその後を思わないではいられない。原爆短歌を読み、そう思い続けている。それは原発への怒りにもつながるのだ。 
 
 (原爆に消ゆ)          森田好子 
凹む毬火に温めてふくらませ鈍く弾むを突きて遊べり 
 
藁草履と言へど少女ら華やげる布を鼻緒に巻きし遠き日 
 
金色の仏具は軍に差し出して鐘たたく音聞かずなりたり 
 
火を包み立ち上がる雲は目守るなか象変へたり生きもののごと 
 
茸状に象変へつつ長崎を覆ひゆく雲魔物のごとし 
 
原爆の落ちたる空はその夜を越えて朝なほ不気味に赤し 
 
明日帰ると送りし荷持届きつつ君は帰らず原爆に消ゆ 
 
「戦争が長引くと共に物不足となり子供たちも工夫して遊んだ。・・・食べるのに懸命で花など植える人はなく英霊の帰ります度に、庭の夾竹桃が供花となった。」と作者は記している。この一連の作品構成に、作者の深い思いが込められ、原爆のもたらした惨状を告発する力を読んだ。 
 
 (ヒロシマを生きる)        山本良雄 
ヒロシマの天守の一瞬飛び散るを見し公用兵も血を吐きて果つ 
 
川原にて老人(おい)も幼も女らも黒き雨降る中に呆然 
 
跨がんとよろめき触れし黒焦げの屍(かばね)のモンペ姿は孕みたるらし 
 
プツプツと髪抜くる朝心臓の早鐘うちしを今も忘れず 
 
 作者は「ヒロシマの時は、二十八歳第二総軍付の大本営通信隊の本部付陸軍中尉であった。B29が一機まだ上空に居るのに、なぜか警報解除であったから被害は一掃甚大であった。」と、記している。軍人にしてかくの如きであり、一般市民の衝撃を思わないではいられない。 
 
  (原爆症)            吉田三四子 
吾の血を共に献げし叔父叔母は原爆症に逝きぬ忌の日同じく 
 
広島の百米道路の凌霄花(のうぜんかつら)夏来れば思ほゆそのくれなゐを 
 
級友の家多かりし広島の中島町今は平和公園となる 
 
立泳ぎする背を肩を細魚(さより)らのつつける瀬戸内の海は美しかりき 
 
バラックの娼家まで行きて若き日の着物を売りき国敗れし年に 
 
 (被爆の身)            吉原香与子 
大量の死の灰秘めて大空は太古のままに青々と澄む 
 
囚はれてノルマに追はれし人思ふシベリアの空を我が機は西へ 
 
長崎の被爆後生れし末娘恋を得て嫁ぐ広島被爆者に 
 
今年も又夾竹桃の花咲けば長崎想ふ焼野原想ふ 
 
はや八月巡り来る被爆の日白光の一瞬まなうらにあらた 
 
被爆の身を生き永らへて半世紀病めばかすかに湧き来る不安 
 
 「私は被爆者です。長崎市内で被爆し二,三日後に島原へ疎開しました。それから六十年近く、姑も夫も癌で亡くなりました。いずれ、私もその道を行く事と思っています。」と作者は書く。原爆被爆はその人に原爆を背負わせる。最後の一首はかすかな不安と言いつつ作者を苦しめているのである。 
 
 『歌集八月十五日』の原爆短歌を読む、は今回で終わる。 
 
(続く) 


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