2011年11月17日13時41分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(14)正田篠枝歌集『さんげ』(原文)を読む 「大き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり」  山崎芳彦

 平山郁夫画伯の作品に「広島生変図」(昭和五十四年作、広島県立美術館蔵)の大作がある。私は、まだ実物を見たことがなく、画集で知るのみである。「全面を炎上する広島の町と炎で埋めつくし、右上隅の天空に不動尊を配した」(平山郁夫著『群青の海へ わが青春譜』 中公文庫)と、平山氏は「第一章 ヒロシマの熱い日」のなかで、この絵の構想について、悩みに悩んだ上で到達したものであることを書いている。 
 
 平山さんはその中で「三十四年目の『広島原爆図』」として、昭和五十四年八月六日に、広島市の平和公園の慰霊碑に黙祷を捧げつつ、昭和二十年八月六日の「熱い日」が白日夢のように甦るなかで、〈とうとう、その時がきたようだ。今年こそはどうしても描こう。炎の絵を描かなければならない・・・〉という、天啓のような確信が宿ったことを記している。「“あの日”から三十四年、鮮烈な記憶を持ち続けながら描けなかった被爆体験が絵にできそうになったキッカケをつかんだ」という。 
 
 正田篠枝歌集『さんげ』を読みながら、私は平山さんがが自らの被爆体験について書き記していることを思い出していた。少し長くなるが紹介しておきたい。(以下、平山さんの引用は前掲書による。) 
 
 「――昭和二十年のその日、私は、燃え上がった広島の町から、どうにか脱出することができましたが、いつまでも私を追いかけてくるものは、巨大な炎でした。振り返り振り返り逃げまどう私の目に映るのは、天を焦がす巨大な炎の中で、のたうちまわる断末魔の広島の町の姿でした。 
 ・・・炎は歩いても歩いても追ってきます。人間が、石ころのように無造作に倒れています。じっとしている人、血だらけになってうめき声をあげている人、白い骨が露出している人、倒壊した家の下敷になっ ている人・・・・・・。いずれも瀕死の重傷を負った人が通りがかりの人をつかまえて手助けを請うています。でも私にはどうすることもできません。火がそばまで追いかけてきているのです。私はそんな人びとに手を合せるだけで、その場から必死に逃げ出そうとしているのです。・・・朝からもう何百人の、いや何千人の人をこうして見捨ててきたことでしょう。私が見過ごしてきたあの人たちは、今ごろ、あの炎のなかで灰になってしまったのでしょうか、業火(ごうか)――まさにそれは、地獄から燃え広がった炎に違いありません。」 
 
 この体験の記憶(当時平山さんは私立修道中学の三年生)を持ち続け、その被爆体験を大切な原体験として創作活動に生かすべきものと、何度も、被爆体験をモチーフとして絵を描こうと思いながらも、「“あの日”を想って目を閉じると、必ず真っ先に浮かんでくるクリクリ坊主頭の友たち、その友たちの顔を思うと、もう筆が動かなくなってしまうのです。」という平山さんの述懐を読みながら、私は、この連載のなかで読んだ長崎の被爆歌人・竹山広さんが被爆体験を短歌にするまでに十年余を要したといっていたことに重ねる。 
 
 平山さんはこうも書いている 
 「死と破壊の使者、『原子爆弾』の魔の手に奪われた友や幾多の犠牲者は、しかしその瞬間を生き延びたものの胸の中に、代わりの生を得たのでした。生き延びたものたちが生き続ける限り、友たちもまた生き続ける。いやむしろ、あの人類最大の過ちの犠牲となった者の生は、生き延びた私たちがいかに生き、いかに贖罪の生を生きるかということを通じてのみ、生き続けるという気がしてなりません。」 
 そして自分が描く絵は「この狂気の兵器を生み出した同時代の人びとの贖罪と救いを願う絵にならなければならない。」とも考えたという。 
 
 そして、三十四年後に描かれた原爆図「広島生変図」は、昭和五十四年秋の院展出品作品となったのだった。炎に巻かれながらも超然として立ち、憤怒の形相で下界を見下ろす不動明王は、「怒りと悲しみを超えて、人びとに『生きよ!』と叫ぶ姿」だと、平山さんは言う。 
 
 平山さんの語る被爆体験を、正田篠枝さんは被爆直後から短歌表現していた。芸術のジャンルが異なるし、その人の個性があるが、正田さんが昭和二十一年一月には、『さんげ』の元になる歌稿を持って短歌の師としていた広島の歌人、山隅衛(やまずみまもる、歌誌「晩鐘」主宰)のもとを訪ねていることから、被爆以来4ヶ月ほどで多くの作品をまとめていたことになり、当時の状況を思えば驚くべき精神力、歌人魂の持ち主であったと言えよう。山隅主宰からは「これは短歌ではない」と評され、正田さんは落胆したといわれるが、山隅さんにはそれなりの考えがあったのだろう。作品評価もあったろうが、正田さんの身を案じたということもあったかもしれない。後に、正田さんに謝したと正田さんが書いている。(『耳鳴り』)が、それ以前にも正田さんは『晩鐘』に出詠していて、交流はあったのだろう。 
 
  前文が長くなったが、前回に続いて『さんげ』の作品を読もう。 
 
 
  愛しき勤労奉仕學徒よ 
可憐なる 學徒はいとし 瀕死のきはに 名前を呼べば ハイッと答へぬ 
 
臨終を 勤労奉仕隊の 學徒は 教師にひたと だきつきて死にぬ 
 
大き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり 
 
焦土に うもれゐし 教師の鞄より 一冊の 學童成績表 いでくる 
 
焼け身ながら 家にかへり来て 大丈夫と 親に言ひしのち 息たへゆきぬ 
 
目玉飛びでて 盲目(めしひ)となりし 學童は かさなり死にぬ 
橋のたもとに 
 
 
 殉死學徒の母 
人見れば 聲泣きあげて 女訴ふ 首席の吾子(あこ)を もどしてくれと 
 
バンドの 名前で知りし 焼焦げし 児の死骸を 母抱きて泣く 
 
いづかたに 最期の悲惨を 問ふべきや 全滅の校舎に たほれて泣けり 
 
焼けへこみし 辦當箱に 入れし骨 これのみがただ 現實のもの 
 
食べたいと 言ひしトマトを 與へざりし 児のうつしゑに 母かこち泣く 
 
歸りて食べよと 見送りし 子は歸らず 佛壇にそなふ そのトマト紅く 
 
焼死せし児が 寫真の前に トマト置き 食べよ食べよと 母泣きくどく 
 
死骸も 白骨さへも なくなりし 児と夜毎夢に會ひ 語ると言ふ母 
 
亡き吾子の 姿に似たる 児を見れば 追ひて呼び止め 言葉をか 
けぬ 
 
首席の 吾子をもどせと 泣き狂ふ 母親あはれ 誰に訴ふる 
 
 
 罹災者(りさいしゃ)収容所 
亡き娘の ブローチ探しあて よろこびし親も 爆弾症の 重態にふす 
 
息をして 命はあれど 傷口に 蛆蟲わきて 這ひまわり居り 
 
罹災負傷の 臥床のわれに 持ち來る 話はただに 地獄のありさま 
 
 
 戦災孤児収容所 
原爆の 一瞬の後に 生れしとか 傷一つなく すこやかな赤ん坊 
 
よちよちと よろめき歩む 幼子が ひとり此の世に 生きて残れり 
 
二歳四歳(ふたつよっつ) 六歳八歳(むっつやっつ)の 四人の兄妹(きょうだい) べつべつとなりて 貰はれゆきぬ 
 
 
 血肉を裂かる嘆き 
七人の子と 夫とを 焔火の下に 置きて逃げ來し女 うつけとなりぬ 
 
ただひとり 命得たれど 今さらに 生くるをなげく 夫を 戀ひつつ 
 
紅おしろい 厚き五十女(いそおみな) 子が欲しい 結婚がしたいと ほほけて歩く 
 
炎天の 瓦礫(がれき)の原に つったてる 黒焦の木に 縊死の女(をみな)寄る 
 
五人(いつたり)の 家族(うから)亡くせし 悲のきはみ 義兄(あに)は夜ごと さまよふ瓦礫の原を 
 
在り経(ふ)しの 記憶を除く 手術なきや 痛む心の 施療を求む 
 
 正田さんは、被爆した親と子の生と死を詠ってやまない。ここに詠われているのは、正田さんの恩師であった母親、幼友達であった母親の嘆き悲しみの姿などが、具体的に、しかも心を込めて詠われている。正田さんは幼くして母親と死別し、義母も早く亡くしている。夫とは三十歳のときに死別した。その正田さんにとって、原爆に被爆して悲惨な死を遂げた子を思う母親の狂乱ぶり、親を亡くした子供たちのすがたを詠うのは、わが心を激しく痛め、自らを傷つけることであったと思う。それを越えて作歌した正田さんは「原子爆弾・・・に即死され、また後から亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残った人を慰めるつもりで歌集『さんげ』を作り・・・ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました。」(『耳鳴り』)と記している。 
 
 
 哀れ人身 
さあ避難だ 生命さへあれば 結構だ 船に來いとふ聲に 意識とりもどす 
 
慾さりて 親切心に みつる時間(とき) 長くつづかず 人間の我は 
 
避難船に 落ちつきてみれば 金庫の金 米櫃の米が 惜しまれてくる 
 
 
 滅亡(ほろ)ぶる世界 
まざまざと 滅亡(ほろ)ぶる世界と みさだめたり 悠遠の真理 したはしきかな 
 
このあたり バラック建たず 眼にいたき 秋陽のもとに 草生ひしげる 
 
秋風や 全滅焦土に 丈たかう 生ひしげりたる 草なびきつつ 
 
 
 復員兵 
鉄道草 おひしげるなかを 分けきたり 立ちて動かず 復員兵のかげ 
 
背に重き 荷物を負ひて 前かがむ 復員の兵は 還へり來しか今 
 
夕ぐれを 焼けし家あとの 石に座し じっと動かぬ 復員兵の顔 
 
あぢうりを 食べとわたせば 顔あげし 復員兵のま眼(み)は ぬれ居り 
 
 
 被爆直後の状況を写実的に詠った作品とは、語彙や詠いぶりに変化を感じる。寂しさの漂う作品と読んだ。『さんげ』も残り少ないがさらに読みつつけけたい。                    (続く) 


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