2011年11月22日00時24分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(15)正田篠枝歌集『さんげ』(原文)を読む  「武器持たぬ 我等国民(くにたみ) 大懺悔の 心を持して 深信 に生きむ」 山崎芳彦

 前回に続いて正田篠枝歌集『さんげ』の作品を読んでいくが、中国新聞が、同歌集の実物を広島市内在住の作家小久保均さん(81歳)が保管していた一冊が見つかったと報じている(9月23日)ことを知って、改めて、正田さんのこの歌集出版がいかに貴重なことであったかを知らされた。その報道によると、『さんげ』の実物はヒロシマ市立中央図書館や原爆資料館も所蔵していないとのことで、このほど「占領期の広島の文芸」をテーマに広島市文化協会文芸部会が企画展を計画(11月開催)し、市内に残る文学資料の掘り起こしを進める中で、母親が正田さんのいとこである小久保さんが保管していた一冊を見つけ出した、という。 
 
 実物の写真(見開きに原爆ドームを描いたカットと、その下に序歌が添えられている部分)が掲載されている。原爆ドームの絵は、正田さんが広島郊外に居住していた洋画家の吉岡一氏に願って描いてもらったものと伝えられている。(この経緯については水田九八二郎著『目をあけば修羅―被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社刊 に詳しい。) 
 貴重な資料として大切に保存されるとともに、『さんげ』の作品が多くの人に読まれる契機になることを願う。 
 
 ところで、この連載の(13)の最後の部分で筆者は、歌集名の『さんげ』について、今回の冒頭に揚げている作品と関って「戦争放棄を明記した憲法はまだなかったときである。」と書く誤りを犯した。新憲法は昭和21年11月3日公布、翌22年5月3日実施であるから、明らかな間違いである。この部分を、お詫びして削除させていただく。 
 
  静かなる自然 
丘に立てば 瓦礫焼土を 一筋に 流るる川の 秋陽に光る 
 
焼け瓦 つみ重ねたる その上に 頭(こうべ)とれたる 地蔵たたします 
 
瓦礫踏み たどり來れば 夫の墓 蔭なすものなく 秋陽に白し 
 
 
   餓鬼の相 
いたるところ バラック食堂が 目につけり みすぼらしき 人かげうごき 
 
丈高く 焼土に生ひし 鉄道草 新芽を食用に つまれてつっ立つ 
 
敗惨に われらなげくとき 食料を むさぼり集む 奴ら鬼畜か 
 
 
   省みる原爆前日 
ふはふはの 莢をひらけば 豌豆のみどり生き生きと まるきがならぶ 
 
哀れかも 豆がさかさに つきたれば 戦ひ勝つと 流言たてしが 
 
今は哀れ 原子爆弾うけし 前日なり 勝つとふ流言に われら依りしが 
 
 
   原子爆弾症臨床記 
内臓を 破壊せし 毒素散失を 真剣に問ふ いまはの男(ひと) 
が 
 
無言のまま 枕カバーに もぶれつく 抜毛示せし 男(ひと)の 
臨終 
 
生きたさに アメリカ兵に 注射藥 貰った夢見たと 語る眼のうつろ 
 
斑點が 出づれば死すと 言ふを聞き 腕いだしては 痣気に掛けしが 
 
死にたくなく 視力失せたれど 無意識に 指で頭の 毛を抜きては見る 
 
看病に 疲れて眠る 老母の顔 皺ふかく見ゆ 電燈の灯かげに 
 
誰も彼も 好きな人さへ 嫌ひになったと 言ひてのち 臨終となりし男(ひと) 
 
臨終 まぢかい男(ひと)の 耳もとに 後生の大事 老母は話す 
 
看護婦 姉妹つひに 疲れし母も眠りぬ 臨終間近の 男(ひと)のかたへに 
 
お浄土に 参ればとても 忙がしく なるよと語り 大空を見ぬ 
 
還相(げんそう)の 濟度(さいど)を言ひて 死にゆきし ひとのくちもと ゑみをとどめぬ 
 
忙がしく なるよと告げし 男(ひと)はいま 何の生にか 還相しにけむ 
 
 
 原爆被爆者の死が詠われている。全く理不尽に、原子爆弾の直撃を受けて、即死は免れたが次々と命を失っていく、その姿の、呻きや言葉、しぐさを、歌にしている正田さん自身も被爆した身体であり、心である。 
 これらの、まことにリアルに詠われている死に逝く人は、正田さんの縁者であるのだが、その姿をかくのごとく詠い切っている正田さんは、このような死が、ここでだけではなくあることを知っていたのだろうし、わが事になることをも覚悟していたのだろうと思う。それでも短歌作品として詠ったのだ。 
 
 被爆後の状況を、広島平和記念資料館の諸資料に当たってまとめた叙述も含む『人類の記憶、ヒロシマ』という論文(2008年3月、神奈川大学COE研究員・大西万知子氏)のなかから、「被爆した身体」の項で記している内容の一部を引用させていただくと「原子爆弾投下地のもとに生きていた人々と、彼らの街は、一度に消されてしまい、多くの人々は熱線、火、爆風、放射線の複雑な組み合わせによる多大な身体的な苦しみを受け、今もそれらは彼らに影響し続けている(広島平和記念資料館2002:21)。身体的影響の場合、1945年(昭和20年)12月末までに、爆心地2キロメートル以内の死の原因は、熱線と火によるもの60%、爆風20%、放射線20%と報告されている(同2002:23)。・・・ 
 爆心地から約1.2キロメートル以内で、遮る物がないまま直接熱線を受けたものは、皮膚が焼き尽くされ体内の組織や臓器まで傷害をうけ、ほとんどが即死あるいは数日以内に死亡した。・・・また急性期の放射線による損傷は、被爆直後から短期間に現れた病状で、発時から約5ヵ月後にほぼ終息したものと考えられる。その病状は、吐き気、食欲不振、下痢などの消化器症状、頭痛、うわごと、不眠などの神経症状、脱毛、脱力、けだるさなどの無力症状、吐血や血尿、血便、皮膚出血斑点などの出血症状、発熱、口内炎、皮膚炎などの炎症症状、白血球減少や赤血球減少などの血液症状・・・などである。」そして、さらに白血病、癌、体内被曝(小頭症)、遺伝的障害は2年から3年、あるいは数十年の年月を経て現れる(同2002:22-24)としている。 
 
 正田さんの『さんげ』の作品は被爆直後からほぼ2年間までに詠われたものだが、以上に記された原爆被爆による被害の実相を正田さんは直接に体験し見て短歌表現したのである。今、『さんげ』の作品を読んだわけだが、大西さんの論文からの引用部分と照応していることに驚き、かつ原子爆弾の物理的破壊力に加えての核放射能の底知れない害悪、危険性を改めて思い知らされる。この大西論文については、別の機会に触れることになるかもしれないし、これまで読んできた原爆短歌が詠ったことを考える上でも貴重な内容であると思う。 
 
 アメリカは原爆を投下する前に、既に、たとえば、1943年5月に「放射能毒性小委員会」を発足させ研究して、放射性物質の毒性を認識し、ごく少量でも人体に深刻な影響を及ぼすことを承知していた上で、原爆の投下を行なった。その非道は許されるものではないし、そのような原子力・核放射能であることを知りながら「平和利用」を標榜して原発を稼働させ、さらに原発の輸出を推進するこの国、日本の政府・財界を中心とする現在の動きを許すことは出来ない。 
 
『さんげ』の作品の最後の五首には、正田さんの祈りが込められているが、その歌を読み「『さんげ』を読む」を終る。次回からは、正田さんの『耳鳴り 被爆歌人の手記』の中の短歌作品を読んでいきたい。 
 
混沌の中より生るるもの 
混沌の さなかにありて 敗因に 思ひをいたし ざんげに痛む 
 
みあぐれば 山おごそかに しづもりぬ 混沌の世を はろかに遠 
く 
 
史の上に この混沌の 今の世が 昭和改新と 呼ばるる時ぞあ 
れ 
 
人類に 貢献する人を 勵まして 布施愛敬せん この残生捧げ 
 
武器持たぬ 我等国民(くにたみ) 大懺悔の 心を持して 深信 
に生きむ 
 
 最後の一首について、正田さんは『耳鳴り』に再録した『さんげ』で「原子爆弾に、踏みにじられました、わたくしは知らず知らずの間に、踏みにじった過去を思い、懺悔(ざんげ)の思いで、武器を持たない国民として、立ち上がり、謙遜な思いで、安らぎに、満ち満ちた、日暮しが、したいものだと、思うのでありました。」と付記している。『耳鳴り』の出版は昭和三十七年であった。『さんげ』の幾つかの歌に、思いが付記されているが、その作品を詠ってから十数年後に自分の作品の背景説明や、解説をしているものである。また、作品に手を入れているものもあるが、『さんげ』原文を読んだのだから、これ以上は触れない。『耳鳴り』の中の短歌作品を読むに当たっても、『さんげ』の復刻部分は含めないことにしたい。                 (つづく) 


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