2011年11月24日13時09分掲載
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文化
【演歌シリーズ】(21)労働の歌(ワーク・ソング)�掘 祝抄燭龍舛�『ああ上野駅』『リンゴ村から』― 佐藤禀一
究極の望郷歌『ああ上野駅』
どこかに故郷の 香りをのせて
入る列車の なつかしさ
上野は俺らの 心の駅だ
昭和30年から48年、戦後史に記された日本経済の「高度成長時代」である。後に、それが泡沫(うたかた)であることを知るのだが、日本中が“経済繁栄”に浮かれた。『ああ上野駅』(詩・関口義明 曲・荒井英一)が歌われたのは、そのど真ん中、昭和39年のことである。
当時、人出が足りなかった。中でも中学卒業生は、“金の卵”ともてはやされた。都会の中小企業、商店(クリーニング店、酒屋など)が、職業安定所(現ハロー・ワーク)の発案により、東北地方に、先を争って人材を求めた。ここから“集団就職”という言葉も生まれた。“金の卵”に、高等学校通学を約束した企業・商店も少なくなかった。働きながらなので定時制(夜間)高校になる。馴れない仕事で疲れた体にむち打っての通学。さぞしんどかったことであろう。
そんな時、思い出すのは、故郷であり、母であり、“集団就職列車”で一緒に上京した同郷の仲間達であった。そして上野駅であった。
就職列車に ゆられて着いた
遠いあの夜を 思い出す
上野は俺らの 心の駅だ
配達帰りの 自転車を
とめて聞いてる 国なまり
当時、東北からの上り終着駅は、上野である。 仕立てられた“集団就職列車”に乗って詰襟学生服、セーラー服を着た初々しい少年少女を各企業・商店が、目印の社旗などを持って出迎えた。「UiENOー UiENOー Suuchaku UiENOー」と里心が付かないようにと、東北訛のアナウンスを配慮したと伝えられている。
ホームの時計を 見つめていたら
母の笑顔に なってきた
お花見、暑気払い、忘年会、新年会……会社やお店の宴で彼らは、声を張り上げて歌った。『ああ上野駅』は、東北から出て来た少年少女に寄り添った、彼らのワーク・ソングであったのだ。
井沢八郎は、東北出身の若い労働者の思いを込めて、「上野は俺らの 心の駅だ」を身も心も振り絞って表現した。
望郷歌の名手三橋美智也
農村を歌った代表的な歌手は、三橋美智也と春日八郎であろう。青木光一の『早く帰ってコ』(詩・高野公男 曲・船村徹)、千昌夫の『津軽平野』(詩・曲・吉幾三)、吉幾三の『雪国』(詩・曲・吉)、島倉千代子の『逢いたいなァあの人に』(詩・石本美由起 曲・上原げんと)などなど、ほかにもたくさんあるじゃないか、という声が聞こえてくる。でも、三橋と春日の村の景、村人(村人だった人も)の情(こころ)を歌って他のどの歌手より優れているのだ。三橋は、故郷から歌い、春日は、故郷へを歌った。
三橋美智也は、民謡歌手であった。津軽三味線の手練(てだれ)でもあった。彼の歌は、村から離れることがなかった。たまに離れたなと思うと、たかが失恋ぐらいで街を捨ててさすらってしまう。『おさらば東京』(詩・横井弘 曲・中野忠晴)。東京へ東京への時代に、あっさりそこから「あばよ」である。
夕焼空が マッカッカ
とんびがくるりと輪を描(か)いた
ホーイのホイ
夕陽の描写が「マッカッカ」。詩として読んで何のイメージも湧かない、小学生の作文のようだ。だが、三橋美智也のやや寂し気な高音で歌われると、夕陽に染まった村の風景が、鮮やかに浮かびあがってくる。「くるりと」夕陽を浴びながら「輪を描いた」とんびが、収穫を終えた農村ののんびりした雰囲気を伝えて見事だ。「そこから 東京が見えるかい」自然とひとつになった村人がいる。村人が、とんびに消息を尋ねたのは、恋人ではなく「兄(あん)ちゃ」だ。『夕焼けとんび』は、矢野亮の素朴で直截な言葉による詩、吉田矢健治の牧歌的旋律、そして、ちょっと寂し気だが澄みわたった三橋美智也の高音(ハイノート)で表わされた村の情景と都会に出て行った兄ちゃへの思いだ。村人から街人になった人への思いを歌った曲の代表作は、『リンゴ村から』であろう。
「おぼえているかい 故郷の村を」街へ行ってしまった恋人への胸の内での語りかけであろう。リンゴの積み出し作業、遊んだあの山小川、二人での思い出は、尽き無い。見送った夜汽車の「にじんだ汽笛」の記憶が胸を「揺する」そして、「帰っておくれよ/俺らのナ 俺らの胸に」と吐息まじりでつぶやく。しかし、何度か聴いているうち、村の記憶を捨て切れずいる街で働く男のつぶやきではないか、そう思えてきたのである。リンゴ積み出しの、遊んだあの山小川の、「小雨のホーム」を「泣き泣き走っ」て自分の乗った“集団就職列車”を見送った母の記憶、そして故郷の記憶……。村の記憶を頼りに生きる男、都会の片隅の狭いアパートの一室で膝をかかえ、思いにふけっている男の孤影が揺れる。そんな青年をいとおしむように、三橋美智也は、高音で濡らした。そう思えるのである。
山田洋次監督の『男はつらいよ』(1969〜95 48作)シリーズが延々とつづけられたのは、こういう人達に支えられたからではないのか。舞台が、葛飾柴又を除いて、“ふる里原風景”とも言うべき農山漁村であり、村の記憶を捨て切れずいる、都会で働く人々の心にその景が染みた。上映が盆と正月であったことも無縁ではあるまい。
村を離れ、都会の片隅で孤独を抱きしめる人の歌と言えば、『別れの一本杉』を忘れることが出来ない。あの娘(こ)は、別れ際に「必ず東京へついたなら/便りをおくれと言った」頬っぺが赤かった。あれから数年、あの娘は「嫁にもゆかずに」俺の帰りを待っている。いつも思い出す村の風景は、あの娘と別れた一本杉の立った「村はずれ」である。そばに在(おわ)した「石の地蔵さん」も寂しそうだった。高野公男と船村徹の哀切な詩と曲を春日八郎が、暗たんたる高音でむせぶ。
人々を励まし慰めるのは、ふる里の記憶であったり、哀しくも切ない思い出であったりする。「がんばろう」などと言う言葉は、空々しくなんの励ましにもならない。「望郷歌」を労働歌としたのは、それが、例え哀しみの追憶であったとしても、働く心の支えになっていたからである。
しかし、自分の意志からではなく“望郷”を強いることは、許されることではない。
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