2011年11月27日00時00分掲載  無料記事
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文化

【核を歌う】(16)正田篠枝『原爆歌人の手記・耳鳴り』の短歌を読む①  「耳鳴りの はげしきわれは 耳遠く されど聞こゆる 対岸の蝉」  山崎芳彦

 正田篠枝さんの『原爆歌人の手記 耳鳴り』(昭和三十七年 平凡社刊)は、絶版になり、古書店にもなかなか見つからない稀覯本となってしまっている。正田さんが五十歳のときの出版で、四年後に正田さんは原爆後遺症の乳がんのため、死去する。同書には、篠田さんが、占領下の厳しい検閲下にあった昭和二十二年十月に秘密出版し、原爆短歌の嚆矢とされる歌集『さんげ』を収録するとともに、『さんげ』出版をめぐる経緯についても記していて、貴重な一冊である。 
 
 同書は「手記」とされているように歌集ではなく、短歌作品もあるが多くの詩や手記、童話で構成され、被爆後の正田さんの生活と闘病が記録され、本人が遺した原爆・核放射能に侵された人間の真実を明かすドキュメントといえよう。短歌とともに、詩でその生活を語り継いでいく内容は、率直に自らを語り、思いを述べて読むものをして、原爆の被爆がどのように人間を苦しめ、悲劇的な生活を強いるものであるかに、思い至らせる。 
 
 いまこそ、このような貴重な書籍が再販され、多くの人に読まれることが望まれる。「核を詠う」として原爆短歌を読んできたが、あらためて、原子力発電所の事故による核放射能の脅威にさらされ、困難を極める脱原発を成し遂げることができたとしても、さらに将来わたって原子核物質を抱え込まざるを得ない負の遺産のなかで生きる「宿命」を思えば、ヒロシマ・ナガサキの体験を、ただ原爆被爆者の悲劇として思うのではなく、原子力・核とともに生きてきた現実と、科学や芸術作品のなかから、わがこととする「学び」とそれを生かす「行為」について考えなければならない。 
 
 詠うものは、なぜ詠おうとするのか、何を詠うのか、自ら思わなければなるまい。思うために、私は原発短歌を読む。これは、私が原発・核列島に生きていることについて、3・11福島原発事故を契機にして、この国の過去・現在・未来をつなぐきわめて深刻な「現在」を生きていることを思い知らされたからである。短歌をせまくしようと思うのではなく、現代短歌が、より人間の生に根ざし、ひろく豊かになることを願うということである。 
 
 正田篠枝さんの『耳鳴り』の冒頭には「被爆の系譜―私の場合」と題する文章がある。これは正田さんが発起人のひとりとなって昭和34年9月に結成された「原水爆禁止母の会」の機関誌「ひろしまの河」の4号に掲載されたものを再録したもので、正田さんの原爆体験のなかでも、自身のことよりも、亡夫の長兄が原爆症の肺がんによって死にゆくさまを中心に記している。出来ればその詳細をここに紹介したいが、長文になるので、叶わないが、機会があればとも考えている。 
 
 その最後の部分には「生きのこったことをよろこんだ、広島の人たちは、実は死刑の宣告が少し長引いただけのことだったたように、次々と発病し、次々に死んで行かねばならないのでありました。」と書かれていて、その後間もなく(昭和38年)、正田さんは原爆症乳がんに罹っていて、しかも転移が進み、治療しても数ヶ月の命との診断を、九州大学医学部付属病院で下され、それを実弟の正田誠一氏から知らされたのだった。それでも、正田さんは「生きることの中で、なお生の可能性をさぐりつづけ」(深川宗俊氏)昭和40年6月まで生き抜き、多くの短歌、詩などの作品を残したのであった。その作品は『正田篠枝遺稿抄 百日紅―<耳鳴り以後>』(短歌318首、詩篇13篇)(遺稿編集委員会編、文化評論出版刊、昭和41年7月)として出版された。 
 
 この連載では、『耳鳴り』に所載の短歌作品を読んでいく(歌集『さんげ』の再録部分については、前回までに『さんげ』原文を読んだので省略する。再録されたものは、『さんげ』原文と完全に同じではなく、作品の自註が付記されているものもあり、作品に手を加えたものもある。)が、そのほかに多くの詩が同書のかなりの部分を占めていることを付記しておく。 
 
 今回の表題に記した短歌は、『耳鳴り』の書名になっている作品であることかに記したもので、この連載のかなり後になって読むことになるものであることもお断りしておきたい。 
 
 『耳鳴り』には、原爆に家族、縁者とともに被爆し、敗戦後の厳しい社会状況の中での、原爆症による自らと家族縁者、近しい人たちの病苦、死、生活苦の中での心情や、生活の実態、社会の動きなどが短歌、詩、手記によって表現、記録されている。その中から、短歌のみを読んでいくことに、筆者としては忸怩たるものがあるが、取り組んでいくことにする。 
 
 実父 
老いらくの父の苦しみ 思ひつつ 夏菊を生く 台風あけの朝 
 
ひそやかに あたり前の苦と 言ふ 老父(ちち)の 語尾は掠(かす)れぬ 皺深まりて 
 
若き日の 亡母(はは)が苦労を 老いし父 ねぎらふごとく 酔(よ)へば語りぬ 
 
腰かがめ 寝床にズボン 敷きいます ひとりさびしき 父をわれ泣く 
 
貰ひたる タオルを老父(ちち)は 死に病(や)みの 時には出して 使はむと云ふ 
 
痩せ給ふ 老父(ちち)の背中を 柔かく 黙(もだ)してながす 
それにはふれず 
 
わが弟の 記事ののりたる 新聞が 保存してありぬ 老父(ちち)の文庫に 
 
 
 正田さんの実父逸蔵は篠枝とともに原爆を被爆した。父祖の代からの 
事業家であったが、戦争中には鉄工業などの工場も経営し、従業員300人を越える会社経営を行っていた。長女篠枝、長男誠一の幼い頃、妻のリハを若くして亡くし、さらに再婚したシズエとも5年後に死別するなどの不幸、また、事業の後継者とすることを考えて、篠枝と結婚させた高本末松も一子を遺して37歳で早逝する不幸もあった。篠枝、誠一をよく愛しむ父親であったが、原爆被爆、敗戦により、事業の衰退、原爆症の発症と苦難の晩年であった。篠枝の歌集『さんげ』の秘密出版に当っては資金を出して援助したといわれる。その老父の衰え、病気をかなしみ、篠枝は詠った。その後、父親に自立を促され、再婚をし、一児を得たが、結婚生活は夫が芸者を愛したこともあり、破綻し子とも別れた。 
 一連の父を詠った作品には、老いた父の生活の具体が表現され、愛を受けた父への深い思いがこもる。 
 
  工場閉鎖前 
とるに足らぬ 芥(あくた)のごとき 業(わざ)なれど 幾百人かの命をささゆ 
 
金臭(かねくさ)き 工場の隅に ひそやかに こうろぎ鳴くを 聞きつ通りぬ 
 
何時(いつ)の世も 小さきわれ等は おさえらる おさえられつつ 媚(こ)びて生きいる 
 
納税なれば 旋盤(せんばん)売るも こばまねど せつない胸は その旋盤工よ 
 
工場の 給料にあて 家の具は 売りつくしたり いまは住み家も 
 
月末も 近くなりたり 工員へ 払ふ給料 見当(あて)なきをいたむ 
 
電蓄に 名曲かけて きかせつつ 子には言はざり 明日(あした)売ること 
 
次々と もち物売りて 身軽だと 口に言えども 寂しさのしむ 
 
金になる 形見の品は 売りつくし 亡き母の面 まみとぢて思う 
 
老父(ちち)にかわり 機械部分品の 包(つつみ)もち 蜻蛉(あきつ)とぶ村を 売りに廻れり 
 
断わられ 包みを持ちて いでしとき 甘く有り経し生いたち思う 
 
製品を 包みかけたる あわれさに 買いとりくれし 工場もありき 
 
 
 敗戦後、工場の経営は困難になり、300人の従業員の生活を支えるため、篠枝も父を助けて、安楽な少女時代とは一変した生活に、原爆症の影響もある身体で、労苦のなかで取り組んだことがうかがわれる。私事になるが、敗戦の年に外地で夫をなくした筆者の母親も、それまでの生活とは一変した苦労の中で、私たち3人の幼児を育てるために、周囲の援助はあったとはいえ、苦闘した姿を見てきた筆者にとって感慨深い一連である。生きることの困難な時代を招く社会状況を、厳しく言えば、許してしまったことも、一億総懺悔の立場からではなく、歴史の教訓として学び、現在をどのように把握し生きるかを考えなければならないと思う。いま、まさにその時であろう。何をなすべきか、何ができるか、この「日刊ベリタ」を通じても自らに問い、他に呼びかけたいと思う。 
 
  田舎の学校 
この四月 吾子の鞄に 教科書なく 級長令書とともに 土筆(つくし)こぼれぬ 
 
子の服の ポケット掃(はら)えば 桜花 砂にまじりて こぼれ落ちたり 
 
宿題にあらず 自発的の 勉強なりと ほほえむ吾子は 少年期なり 
 
哀調を おびし豆笛の 音が聞こゆ 吾子帰るらし 時計を見上ぐ 
 
豆さやを 四ッにくくりて 四部奏と 麦畑山に 吹きならす吾子 
 
吹きならす 豆笛の音は かなしみを ひそめて堪え生く 叫びのごとし 
 
わが子の生活を見守りながら詠う母親の思いがしみる。 
 
第一回原爆の祭典 
来賓の 大方のもの 原爆に 会わぬらし 笑みさえみせつ 
 
鐘の音に 原爆のときの まのあたり 記憶うかみて 涙こみあぐ 
 
原爆に 愛(いと)しきものを うばわれし 人が祭典にいて 涙な 
きむせむ 
 
にぎわえる 祭典にきて なずまれず 悲しき思い 抱きて帰る 
 
 
 昭和22年8月6日に、広島市で開かれた平和式典を詠ったものであろう。慰霊祭、平和の鐘除幕が行なわれ、米プロテスタント団体の代表の出席もあった。マッカーサー元帥のメッセージは「二年前、次第に高まりつつある暴虐の暗影が、世界をおおうていた。人々も民族も各大陸も戦いの結着をつけようと必死にもがいていた。そのとき広島の上に今までにない強力な武器が投下された。かくて戦争が、それが致命的であり破壊的である点においてあらたな論理や目的、理想などに対する挑戦である点において、新たな意味を持つことになった。即ちあの運命のもろもろの苦悩は、すべての民族のすべての人々にたいする警告として役立つ。それは戦争の破壊性を助長するために、自然力を使用することはますます進歩して、遂には人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊するような手段が、手近に与えられるまで発達するだろうという警告・・・。」というものであり、原爆の投下とその犠牲についての反省は微塵もなく、核爆弾保有国の核脅威宣伝つまり東西冷戦下における米国の支配キャンペーンといえよう。それに対してソ連(当時)は「原爆は米の独占ではない」として核実験、核爆弾保有に向かっていた。ソ連が既に原爆を保有しているとの説もあった。(中国新聞社編『広島の記録』) 
 
 いずれにせよ、この平和祭は、原爆の被災により塗炭の苦しみに喘ぐ多くの広島の被爆者にとっては言葉が踊り、戦争を終らせた原爆、平和への一里塚のヒロシマ・・・のお祭りさわぎとうけとめられた。 
正田さんの4首は、「にぎわえる祭典」を受け入れることの出来ない被爆者の怒りと、改めての不条理な苦悩の現実への悲しみを詠っている。 
 
 再婚 
世の人に 再婚披露 なさずして 母の墓にきぬ 夫とふたりで 
 
息切らし 段段畠の けわしきを 登り来し視野に 青海ひろら 
 
山高き 母の墓前に 黙祷する 夫の眼(まなこ)の 泪を見たり 
 
おん姑(はは)の 手づくりたもう 弁当の 馳走をはみぬ 墓水わ 
かち 
 
見はるかす かなたの果に 四国路の 海が見え来る 江田島の山 
 
父の亡き 子を見守りて 生き切りぬ 未亡人を羨(とも)しみつつ 
嫁ぐわれはも 
 
おじちゃんと 親しみ和(なご)む 吾子(あこ)や夫(つま) 見 
ればほのぼの 心やすらぐ 
 
真実の 愛の清きを 選びたる この生活に生き抜くべしや 
 
 
 父逸蔵は、原爆後遺症による発熱、下痢、その他の症状に苦しみ、工場の閉鎖、売却、資産の売却などの中で、子の篠枝、誠一に自活を促した。自らの再起を諦めたのだろう。篠枝は再婚した。 (つづく) 


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