2011年12月03日12時45分掲載
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文化
【核を詠う】(17)正田篠枝『原爆歌人の手記・耳鳴り』短歌を読む②「夜は仕事 昼は銀行 税務署と 働くおみな 肌はすさみぬ」 山崎芳彦
「金盥へ いっぱい吐血して 胃癌を宣告されました/ 昭和二十五,六年の当時は 胃癌が原爆と 関係があるとは 誰にも わからないのでありました/ それから後 あの人も この人も と 言うように ぞく ぞく と 死んで逝きました/ 父は 入院して 手術しました 輸血代に 三十万円借金が できた と 聞かされました/ 弟も 私も 間に合わず あわただしく さみしく 父は 生命を 終ってしまいました(以下略)」
正田篠枝さんの『耳鳴り』には多くの詩が収録されているが、この詩は昭和二十六年二月に九大病院で、原爆症胃癌により、手術治療の甲斐なく死去したことを、詩にした作品(「父の死」)である。篠枝さんを慈しみ、被爆後は行く末を案じながらも、原爆症により苦しみ、事業の不振、閉業に苦悩しながらの死であった。
この詩の中で篠枝さんは「昭和二十五,六年の当時は 胃癌が原爆と関係があるとは だれにもわからないのでありました」と書いている。
「原爆の殺傷力は、瞬時の強力な爆風、熱線、初期放射線に加えて、生成された放射性核種つまり『死の灰』の残留放射能も関与した複合的なものであった。・・・初期放射線も、爆心地から1キロメートル以内は致死線量を超え、爆心地では致死線量の四〇倍にも達したとされている。『死の灰』も大量で、広範囲に降ったのである。即死をまぬがれた人々も、爆心地に近かった人ほど強度の急性障害が現れ、ろくに手当を受けないまま、次々と死んでいった。急性障害による死者が出なくなったあとも、やがて白血病やさまざまながんという晩発性障害が現れ始めた。こうした晩発性障害の発生率が、被爆者で高いことかが気づかれたのは、被爆のほぼ二年後であったが、それが明確に認識されたのは、一九五〇年代に入ってからで、かなりまとまった数値が初めて公表されたのは、六五年であった。そして、七一年には、白血病発生率と当時の推定被爆線量との比例関係が示されたのであった。」(市川定夫著『新・環境学 現代の科学技術批判Ⅲ 有害人工化合物/原子力 藤原書店刊)との論述があるが、同書では、このような原爆被害の実態に対する政府の対応の問題点もするどく指摘している。
1957年に「原子爆弾の医療等に関する法律」(「医療法」)、1968年に「原子爆弾被爆者の特別措置に関する法律」(「特別措置法」)を制定したが、「被爆者をさまざまに区分・限定するものであって、原爆による被害の実態とは、とうてい合わないもの」(市川定夫前掲書)であった。法に該当する条件を被爆者の実態に合わない非合理的な、あるいは不当に厳しく限定するもので、被爆者への支援、国の保障としては、制限と区別、差別を被爆者のなかに持ち込むものになった。国家補償の観点に立つ「原爆被爆者援護法」が、なお不十分な面を残しながらも成立したのは、1994年の村山内閣のときであり、なんと、被爆後半世紀後であった。それでも問題点はまだ残る。
このような政府の対応の歴史を、いま原発事故問題でも繰り返させてはならない。
正田さんは、この詩の前に書いた詩で「父は 私と 同じように 高熱と下痢症状となっても 如何に立ち上がるべきか と もがく 思いが強く 少し休んでは 出かけて 行きました/ ちからつきたのでありましょう 父が 私と弟に 独立して 生活するように宣言しました・・・」(「どう生きていったらよいのか」)とも書いて、ともに原爆症に苦しみながら、自活の道を考えなければならなかった。再婚をしたのも、そのためであったろう。一児を得たが、離婚し、その子も夫に渡さなければならない結末とはなったが。さらに、自活への道に踏み出していった。
被爆者正田篠枝さんの生活の歌が作られていく。
こんなことも
高価なる 釣道具求め 夜釣より 帰りし籠に 小指たこ一匹
陰に置く 芸者救へと 言ひ放ち 離別の心 いよいよかためぬ
熱愛を 口にもらして ひるがえる こころ求むる ひとをみつめ
ぬ
離別のあと
離別せし 理由を告げず とき過ぎてお客のひとり わかりました
という
パチンコの 店でポッケをふくらまし 玉の数々みせびらかしたと
静けさの もとの孤独に 落ちつきし ときに聞きたり やつれんさったと言うを
高価なる 釣道具折り 踏みつけて 川に投げ 怒りし心よくわかる
酒をのみ パチンコによく ゆくひとの きもちわたしは よくわかります
台風で おびえているとき 離別した ひとが気にかけ 電話をよこす
うらぶれて 髪をみだして とぼとぼと 歩む姿がウインドに映る
生き別れした、幼な児思い
逢ひに来て 吾子の住家の 窓に見た つぶらなまなこ いとしかりけり
このあたり 吾子歩み来て 遊ぶらん 道の小草よ よろしくたのむ
母ちゃん また来てねえの 幼な声 日暮(ぐる)る道に のこして帰る
逢うために 白の麻服 白き靴 二年坊の好みの姿で われはゆくなり
はにかみて たんすにかくれ 片目出し またたきもせず 母われを見る
百点を もらった算数 出してみいと じじばばこぞり いとあわただし
母われの 原爆後遺症が 治ったら 引取りくれと 小声で云わる
母われの 送りしジャケツ 身につけて 別れ住む子が 逢いに来たりぬ
貧血の 母われに無き 爪白の 細く小さき 指を見せる子
大川に 力まかせに 小石投げ 言ひたいことが あるらしい吾子
病身の 母をいたわり 見送りを こばむ少年の 涙を見たり
訪ね来し 子を見送りて 疲れしか 夢ひとつみず日暮れてめざむ
再婚、出産、父の死、夫の不倫、離婚と子との別れ、正田篠枝さんの被爆、敗戦後の生活は,それまでも生母との死別、義母との死別、初婚の夫の早逝など不幸はありながらも、豊かな慈父の庇護の下にあったのとは一変した。原爆症に苛まれる体で、自活のために不慣れな割烹旅館の開業へと向かう。離婚した夫との間に生まれた子は夫の実家に引取られ、実子の長男の成長はあるものの、幼くして別れた子への思いは深くなっていく。この間短歌作品とともに、詩によっての生活の実態とその中での心情表現も多くなされている。数多い詩作品を読みながら紹介できないのは残念であるが、いまはやむをえない。
ただおろおろと
真弓(まゆみ)の葉 食(は)み尽くしたる 黒き虫 葉の無き枝に 右往左往している
庭隅に 山梔子(くちなし)咲けり くちなしの あるさへ忘る わが生活(たつき)かな
赤き実の 苺に敷きし みどり葉は もくせいなるよ とげの痛さに
麦の青 菜の花の黄 今年(こぞ)の春 悲しきほどに 美しく見ゆ
やみては降る 小ぬか雨なり 庭の木々 もりもり青み 朝光(あさかげ)に映ゆ
旅館業 創めて四とせに なりたれど ただおろおろと 心は寂し
夜は仕事 昼は銀行 税務署と 働くおみな 肌はすさみぬ
むつまじく 暮らしてゆけず 夫あるを 欺ける友に 言いたき辛苦
神経の 弱きわれ故 多弁なる 人のそばには おることできず
たけなはの うたげのなかに 座しながら こみあぐ涙 ほほを流るる
亡き父母の よわいに近き 人みれば かなしくなりぬ みなし児われは
熱涙で 地上が海に なるほどに 泣けどもいえぬ 心のいたで
いとしき婢達(おうなたち)
客のなき ときこそわれは 書(ふみ)読まむ 婢(おうな)はよりて うらないをせり
紙こより 占いをして 遊ぶ婢(ひ)を 見ても涙が にじまなくなりぬ
言いつけを 忘るる婢(おうな) 叱りしを かなしく悔いつ 夕餉ひとりす
和顔愛語 いかなるときも 忘るまじ 叱りてくれる 人なきわれは
硝子戸に つきあたりたる 蝿をとり 紙に包みて つぶす感触
酷使して 済まぬ思いの 婢(おうな)等を いたわりもせぬ わが性格(さが)かなし
なれない旅館業の経営で、働く人たちとの関係、客の応対などに苦労の多い生活の中で、原爆被爆後遺症に苦しみながらも、正田短歌は生まれ、詩が編まれて行く。自分を見つめ、他者を見つめ、世の中を見つめ心のなかを深く見つめ、生命をおののくように見つめる日々が表現されてやむことがない。歌集『さんげ』は、この正田さんが詠うべくして詠い、命がけの思いで編まれたのであったことを改めて思う。伝説にするのではなく、手にとって読むために作られた歌集なのだ。今読んでいる『耳鳴り』もそうだと思う。きこう本として眠らせたくない。正田さんはそのような状況を、どのように詠うだろうか。読むほどに、いろいろなことが思われてならない。 (つづく)
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