2011年12月06日23時15分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(18)正田篠枝『被爆歌人の手記 耳鳴り』短歌を読む 「妻死にて あまたの遺子と 泣き暮らすと のらせし人が 今日は酒酔」  山崎芳彦

 父・逸蔵が原爆後遺症による胃癌で死亡したあと、少なからぬ借金を抱え、再婚した夫に裏切られて離婚した正田篠枝さんは、早世した最初の夫との間に授かった長男の槇一郎と共に生活するために、原爆の被害で壊れた平野町の自宅を改造して、割烹旅館河畔荘を開業したことは、前回にも書いたし、旅館業に苦闘する生活を詠った短歌作品も読んできた。原爆に襲われるまでは、父の事業も順調で、生母、義母、夫に死なれる不幸はありながらも、恵まれた生活をしていたのから一変して、経験のない割烹旅館の経営は、マダムを雇って営業したとはいえ、容易なことであるはずはなかった。原爆被爆の症状も現われ始めている健康状態であるからなおさらであったろう。客との折衝、使用人との関係、さらに加えて営業資金や税金など経済的な苦労は、彼女の書きつづけた詩、短歌作品に、具体的に表されている。 
 また、被爆地広島での客商売であるから、原爆被爆者の生活の様相もリアルに詠われている。 
 
 彼女が旅館を開業したのは昭和二十七年のことであったが、詩人の峠三吉らが彼女の旅館に集ったこともあったという。その峠三吉の『原爆詩集』の「あとがき」には、原爆が人間にもたらした深刻な真実が記されている。原爆投下による被害をどううけとめるか、その「あとがき」の一部を引用しておきたい。一九五二年五月二日の日付が入っている。奇しくも正田さんが割烹旅館河畔荘を開業した年に書かれたものだ。 
 
 「・・・今はすべての人が広島で三十万近い人間が一発の原子爆弾によって殺されたことを知っている。長崎でも十数万。然しそれは概括的な事実のみであってその出来事が大きければ大きいだけに、直面すれば何人でも慟哭してもしきれぬであろうこの実感を受け取ることは出来ない。当時その渦中にあった私たちでさえこの惨事の全貌を体で知ることは出来なかったし、今ではともすれば回想のかたちでしか思いえぬ時間の距りと社会的環境の変転をもった。 
 だがこの回想は嘆きと諦めの色彩を帯びながらも、浮動してゆく生活のあけくれ、残された者たちの肩に積み重ねられてゆく重荷の中で常に新しい涙を加え、血のしたたりを増してゆく性質をもち、また原爆の極度に残酷な経験による恐怖と、それによって全く改変された戦争の意味するものに対する不安と洞察によって、涸れた涙が、凝りついた血が、ごつごつと肌の裏側につき当たるような特殊なそこぶかさをもつものとなっている。 
 今年もやがてなくなった人たちの八周忌が近づく。・・・その座に坐った人たちの閉ざされた心の底にどのような疼きが鬱積しつつあるかということを果たして誰が知り得るであろうか。それはすでに決して語られることのないことば、決して流されることのない涙となっているゆえに一掃深く心の底に埋没しながら、展開する歴史の中で、意識すると否とに拘らずいまやあたらしいかたちをとりつつあり、この出来事の意味は人類の善意の上に理性的な激しい拡大性をもって徐々に深大な力を加えつつあるのである。(以下略)」(日本ブックエース刊平和文庫『原爆詩集』峠三吉より) 
 
 被爆歌人正田篠枝の、人間としての生活、旅館の女主人としての生活はつづき、短歌も詠われる。詩も書かれた。『耳鳴り』の中の短歌作品を読み続けたい。 
 
 
   飄然と 
二次会に キャバレーに行き 帰り来(こ)ぬ 客待ちをれば 波音聞こゆ 
 
常日頃 音沙汰もない ひと酔えば 飄然と来る なにのためにか 
 
風呂好きの 客死したる如く 湯に入りて 眠りほうけぬ ゆり起すまで 
 
お客様よ 息できなくて 死ぬるよと 言えば ここで死ねば 本望だよっ と 
 
われはみつむ ナムアミダ仏 唱へつつ 済まぬ済まぬと 眼(まなこ)潤(うる)むを 
 
信じうるものは 己れと言いたれば 信じいるひと 強くうなずく 
 
 
  嘘、言わぬ人と信じ 
妻死にて あまたの遺子と 泣き暮らすと のらせし人が 今日は酒酔 
 
嘘言わぬ 人と信じて 愛している われはほとほと 哀れなるかも 
 
これの世は 水に絵を書く 如しとか まことまことと うなずけるわれ 
 
逢い別れ あとの寂しさ やりどなし 水の流れを 黙してみつむ 
 
言葉には 割り切ったこと 言い放ち べつの心を いとしみている 
 
思うまま すがりて甘ゆ 電話終え 些かこころ うきうきなりぬ 
 
束の間の 逢う瀬を求め 悔を重ね ついには死ぬる 時期に近づく 
 
酒酔が 七人子供を 遺されて 死にし妻恋い 死ぬはバカたれっ と言う 
 
 
  四十二となりぬ 
縁なきは いたたまれない 美貌とか 若さの カッポする 水商売や 
 
このわれに 若き日ありや なしとさえ 思うことあり 四十二となり 
 
さみしくも 口説(くど)きて誘う ひとありぬ 叱りてさとし くれるひと欲し 
 
 
 直接接客するマダムを雇って旅館業をしていたが、雇うマダムは幾人か代った。雇われるマダムはさまざまであったが被爆者や、家族に被爆者がいる人が多かった。マダム運が悪かったといわれるが、そのマダム自身がつらく苦しい状況にあることを、正田さんには見えていた。詩や短歌に出てくるさまざまな人々に対するまなざしにそれが現れている。 
 被爆後の時間は過ぎて行くが、その時間は原爆に負わされた耐えがたい苦しみ、健康や生活の苦悩を癒す時間であったとは言えない。時間が過ぎて原爆症の発症がさまざまに現れてくる場合が多かった。これまでにも書いてきたが、核放射能の晩発性障害に苦しむ被爆者はあとを絶たなかった。正田さんも、旅館のマダム、料理人、そして顧客の多くも原爆被害者が多かった。引き続き、『耳鳴り』の短歌作品を読んでいく。 
 
 
 あらびくなりぬ 
さみしとき しょんぼりと やって来る ひとよこのごろ あらびくなりぬ 
 
あわれもよ おとなしいのが あわれもよ 死が近くある ここちするなり 
 
かなしみに たくさん会った わたしゆえ わかるのだけど このひと死ぬよ 
 
厭なのよ 死んでは厭よ ひきとめる すべはあらぬか 死なせたくなし 
 
現実の あり経しことも まぼろしと 同じ心地す 靄(もや)に消えゆく 
 
 
 ひとりを知る 
頼みには ならないものと 知らされて うらむきもちの ないのが哀れ 
 
情けなく ぴちっと切らる 受話器の つめたきを置く 諦めはある 
 
愛したり 憎んだりして 結局 ひとりを知りて 死ぬるわたくし 
 
忘られず なにかにつけて 思い出の あるが人間 生きてるしるし 
 
あまえては ならぬとわれを いましめて 涙にじむを ひとりかみしむ 
 
頓死する こともある世と 思ほえばと 声細りゆく 切ない話題 
 
亡き父母に はさまれ眠る 夢をみぬ あんかこたつの ひとり寝床に 
 
めし炊かぬ 女あるじは 夜の更けに すき腹に水を のみて寝るなり 
 
読みおえて 書(ふみ)とざす吾 ひびく夜 君よこいしも 遠くにおはす 
 
親逝きて 夫逝き子には すがれざる ものと知らされ この世はすがし 
 
すがしさは 寂しきものよ 冬枯れの 野中の木々の いとしまれぬる 
 
しみとほる 冬野の夕べ またたける ひとつのあかり まなうらにうく 
 
父母在りて 楽しかるべき 夢なるに 苦しかりしは わが手を胸に 
 
世のすみに 世のなさけにて 生かさるる われは仕合せ 孤独なれども 
 
 
 これらの短歌作品も、あの『さんげ』の作者の生活詠、心境詠であり懸命に原爆症による苦痛の中で生きる正田さんの作品である。そして、形は違っても、原爆の被害に苦しむ多くの人々、原爆の投下時に辛うじて生き延びた人々の多くはこのように生きたのである。一人の真実は多くの人々の真実と通底する。 
 
 筆者は、前に少しだけ触れたが、ある雑誌の記者として、ルポルタージュを書くために広島を訪れ取材をしたことがあった。調べてみたら1969年(昭和44年)の夏のことであった。数日のことであったが、かなりハードなスケジュールで広島市内を走り回り、少なくない被爆者、原爆病院、福島病院、広島市役所、県庁などを取材した。拙いルポルタージュを書いたが、そのなかで「原爆の持つ残酷さ、残虐はその瞬時の爆発時の破壊力の大きさだけにあるのではない。・・・その深刻な特徴は、辛くも生き延びた被爆者、残留放射能を浴びた二次被爆者、そしてその子どもたちにまで、いつ“爆発”するかもしれぬ“原爆”を背負わせたことにある。・・・その“原爆”はいまもなお“爆発”をつづけている」と記した。多くの被爆者と会って、また病院を訪ねての実感であった。 
 
 「市の失対労働者の約半数が被爆者で、その平均年齢は男61.9歳、女55.8歳であり、単身者は52%であるという。要治療、要静養という重症患者が働かなければ生活できない実状だ。また、働ける人も健康状態から転職率が高く不安定な生活を送る人が少なくない。『合理化』、労働強化に被爆した身体が耐えられないのだ。」 
 
 さらに「もしもわたしのこの腕から/史樹が逝って/しまうなら/史樹が逝って/しまうなら/史樹を抱いて/化石になりたい・・・昨年二月、リンパ性急性白血病で満7歳の短い生涯を終えた名越史樹ちゃんの母親操さんの詩である。・・・昭和二十年の原爆が昭和三十五年生れの生命を奪ったのだ。・・・僕が広島にいた六月十九日、奥野孝子さん(17歳・高校生)が白血病で亡くなった。やはり被爆二世。そして今も白血病とたたかう五歳の被爆二世の生命がある。森井昭夫ちゃん。あまりの苦しさに『死にたい!』という絶叫さえとびださせるという。」とも書いている。10ページほどの、まことに拙い文章であったが、この取材のことは、今も記憶に生々しい。歌人であり詩人の深川宗俊さんとお目にかかったことがいまになって懐かしいが、当時の筆者は短歌に関心を持たなかった。 
 
 この取材の四年前に正田篠枝さんは亡くなっていたのだった。そのことを、私は知らなかったと思う。そんな私が、いま原爆短歌を読み続け、さらに原発にかかわる短歌を探索して収集している。遅すぎるとは思わない。拙くとも詠うものの一人として出来るかもしれないことのひとつとして取り組んでいくつもりだ。 
 
 正田さんの『耳鳴り』の短歌はさらに続く。私も読み続けていく。 
                        (つづく) 


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