2011年12月15日00時48分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201112150048204

文化

【核を詠う】(20)正田篠枝『原爆歌人の手記 耳鳴り』短歌を読む�ァ 崟依�して 旅するごとく 身仕舞いす わが行く先は 原爆病院」 山崎芳彦

 冒頭から、誠に申し訳ないことですが、この連載の(16)、(17)の表題及び文中の一部に、筆者の不注意による誤りがありましたことを、お詫びして訂正させていただくことをお許し下さい。それは『被爆歌人の手記 耳鳴り』を『原爆歌人・・・』と誤記したことです。ここまで書いて、改めて手持ちの同書(昭和37年11月25日初版印刷、同11月30日初版発行)を見直しところ、奇妙なことに気付いた。カバーの表紙には 「耳鳴り 正田篠枝」 と印刷され 背表紙には「耳鳴り 被爆歌人の手記 正田篠枝」の印刷があり さらに目次の前ページの扉では「原爆歌人の手記 耳鳴り 正田篠枝 平凡社版」となっている。このことから、筆者の混乱が起きたのであった。 
 
 水田九八二郎氏の『目をあけば修羅』は表紙に「被爆歌人正田篠枝の生涯」としているが、『耳鳴り』については文中で『耳鳴り―原爆歌人の手記』としており、堀場清子氏の『禁じられた原爆体験』(1995年6月 岩波書店刊)の中の「『不死鳥』における杉浦翠子と正田篠枝」の項で『耳鳴り』について触れた部分で「『原爆歌人の手記』と表題にうたった」と記述している。これらを考えるとやはり、カバーの背表紙の記載より、扉に記されている表題を用いるのが妥当であるかと考え、『原爆歌人の手記 耳鳴り』と本稿では統一したい。そうなるとこの連載の(18)、(19)の表題を訂正させていただくことになる。同時に今回の冒頭4行も削除すべきだが、つづく記述との関係でお読みいただきたい。 
 
 以上の記述と直接関連するものではないが、一橋大学大学院教授の濱谷正晴氏は、著書『原爆体験 六七四四人・死と生の証言』(2005年6月刊 岩波書店)の「はじめに」のなかで、次のように書いている。 
 
 「あなたは、<原爆体験>という言葉を聞かれたことがあるだろうか?広島・長崎のことといえばむしろ『被爆体験』という呼び方のほうが、よく知られているかもしれない。だが、被爆体験という四文字にはそもそも、人びとが何に被爆したのかを指し示す言葉が欠けている。また、<原爆体験>とは、被爆当時の『あの日』の体験のみによって形づくられているわけではない。一九四五年八月六日の広島と九日の長崎は起点だったのであり、原爆は、『それから』のときを人びとの心身の奥深く刻印しながら、徐々にその本性を顕わにしていった。<原爆>は人間になにをしたか、何をなしつづけてきたか。原爆に遭遇したことによる苦しみは、戦後過程においてむしろ積み重なっていったのである。それゆえ<原爆体験>には、あの日から現在まで、原爆に被爆した人びとの身に起こったすべてのことが包み込まれなくてはならない。さらに、体験とは決して受動的なものではない。被爆者たちがたどらされた惨苦の生は、原爆に押しつぶされまいとするたたかいの日々にほかならなかった。 <原爆>は人間としてとうてい受忍できるものではない。この地球にくらす何者にも、二度と再び受忍させるようなことがあってはならない。被爆者における<反原爆>の思想は、おのれを苦しめてやまない<原爆>と対峙することによって形成されてきたのである。 
 これらすべての意味と課題意識とをこめて、わたしたちは、<原爆体験>と呼ぶ。」 
 
 同書は一九八五年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が行なった「原爆被害者調査」データ(濱谷教授はこのデータについて「一万三一六八人に及ぶ原爆生存者の<生>の記録であると同時に、その身内の一万二〇〇〇人を超える原爆死没者の<死>の記録でもあり、<原爆体験>を綴ったドキュメントとして他に比類なき『証言』資料となった。実施後二〇年の歳月が過ぎた今もなお、この記録は資料的価値をまったく失っていない。おそらくこのような調査はもう二度とないであろう。」としている。)から六七四四人の分析対象を「原爆が人間にもたらした被害を<生きる意欲の喪失>過程として再構成し、それに抗って生き抜く<反原爆>思想(生きる支え)の人間的必然性を明らかにする」課題に考察の焦点を絞って分析した労作であると言える。 
 
 一橋大学<原爆と人間>研究会のバックアップのもとに企画・構想から十年をかけて実現した、濱谷教授とその協力者による貴重な本書を、いま、原発による放射能被害の深刻化が、たとえば、原子炉等規制法が定める海水での濃度の基準値の100万倍のストロンチウムを含む放射能汚染水の漏出、海洋汚染の危険がつい最近明らかになっているような現実の中で、改めて精読したいと筆者は考える。 
原発が放出し、空気や水や土を核放射能によって汚染することを受忍することはできないし、してはならない。その原発を海外に輸出し経済的利益を得ようとすることは、日本が核加害者として自国民のみならず、この地球にくらす人々にたいする犯罪的行為であろう。 
 
 正田篠枝さんの『耳鳴り』の短歌・詩は、一九四五年八月六日の原爆被爆を起点として、「それから」の「とき」を正田さんの心身の奥深くに原爆が刻印し本性を顕わにしていった真実の表現であった。その短歌を、さらに読み続けよう。正田さんの原爆症の苦しみはさらに深刻化していく。 
 
  歯ぐき出血 
背を向けて まっ赤なものを はきて包む 側の吾子には 知らすまいとし 
 
どしたんと こゆき鮮血 目にしたる 吾子は驚き 目をみはりたり 
 
年齢か また体質か 全部の歯 がたがた動き ものが噛めない 
 
全部の歯 金で助けて あるものを 綺麗な色で 丈夫そうだとひとの言う 
 
あっさりと 全部を抜いて しまったら よかろうものと 婢(おうな)は言いぬ 
 
歯抜けばばに ならずにあれば 愛されて 愛するひとが あらわるとでも 
 
思うかの ごとく熱心に 治療受く 費用の工面 やりくりさんだん 
 
痛む歯ぶ 舌でなでつつ 鬱血を 吸いてちりしの 血の筋みつむ 
 
 
  貧血症 
かりそめの 貧血症 なればよし 原爆症と 呼ばれたくなし 
 
貧血のわれ 暑き夏盛り 風邪を引き 久さに治らず 咳もしきりに 
 
下宿の青年 咳によく効く 注射あると 教えてくれぬ 夏の夕べに 
 
欲を出し 少し動くと 貧血し 倒れては起き あがりてはまた 
 
 
 指先がしびれ 
指しびれ ころりとペンが 落ちるたび ペン持つ指の せいと思わず 
 
父在りし ときにしびれる 指示すを 思い出したり 鉛筆落とし 
 
指先が しびれて冷たく やりきれぬ なかに包みて にぎりこぼしす 
 
 
 視力失せ 
老眼鏡 かけて見直し 電話かく ひとにあまえる としならぬわれ 
 
目が見えず 電話まちがえば 損害の 心地こそすれ 見えぬは苦にせず 
 
盲目の 知らない娘 電話かけ 歌集『さんげ』が 読みたいと言う 
 
盲目の 娘にくらべ われはまだ ましな方だと 目明きの心地 
 
ちらちらと 火の虫が飛ぶ 視野のなか 隣りベッドの 女(ひと)も同じこという 
 
老眼鏡 はめてあるのに 筆先が おぼろにかすむ 習字かなしも 
 
 
 原爆被爆者の心身の苦痛は、たとえば原爆後障害研究会シンポジウムでの報告などによると、1956年から1974年までの広島原爆病院入院患者の疾患状況は、悪性腫瘍(がん)が年平均19.7パーセントでもっとも多く、血液疾患(貧血、白血球減少など)、高血圧、心臓病、消化器疾患、関節炎、リウマチ、全身性疲労、原爆白内障その他さまざまな障害が報告され、そのうち幾つもの疾患を発症する被爆者が少なくないことが示されているが、正田さんによる短歌表現は、原爆被爆による被害の深刻さを、具体的に伝えている。それぞれの症状は、人間としてのまるごとを痛めめつけている。病苦と生活苦はつながっている。 
 
 
  主治医 
原爆病院の 医師はカルテに ため息す 白血球の減りたるを われは感じぬ 
 
原爆病院で たまわりし薬 嘔吐すと 告ぐれば医師は 顔くもらせぬ 
 
入院を うながす医師に 環境を 告くれば黙し ため息されぬ 
病む身 
 
弱くなり 久に墓参を なし得ぬを 朝の目ざめに 詫びる思いす 
 
病めばまた 心弱まり 比治山に 登り見下ろす ひろしま哀(かな)し 
 
漢方の 薬の匂ひに 嘔吐する 露台にゆきひら 出して臥床す 
 
どこまでも つきまとうこの くるしみが すっきりとなく なることがあるや 
 
目が覚めた まだ生きてると 思うなり 肌着ぬぐごと 病気ぬけたし 
 
 
  入院 
生きたくば 静養なさい 死にたくば 入院するなと 言うを聞きたり 
 
整理して 旅するごとく 身仕舞いす わが行く先きは 原爆病院 
 
一回二回三回と 入院の数 重ぬれど すっきりしゃんと どうしてもならん 
 
仏壇の とびらを閉じて ひとり居の 部屋ふりかえる 入院の日に 
 
三度目の 入院なれば 婢(ひ)らにのみ ひそかに頼み 告げて門出る 
 
聞こえくる 死に近きひとの うめき声 真夜更(まよふ)けの廊下 歩みておれば 
 
夜の更けに 聞いたうめきの あるじの名札 今朝はなし ひそと音せず 
 
息引けたら ここへは置いて 貰えんのと 朝洗面所で ささやくを聞く 
 
ひそやかに 遺体安置所を 見にゆきぬ 廻り廻りて 渡り廊下長し 
 
体じゅう お灸もぶれの 老婆いる 白きタイルの 風呂場のなかに 
 
いつになく 今日の回診 ねんごろで カルテにながく 何か書かるる 
 
看護婦の 置き忘れたる わがカルテ むさぼるおもいで 見てて叱らる 
 
見舞う人 あてはあらねど 靴の音 長き廊下に 近づくを聞く 
 
身よりなき 病む身のわれは あたたかき こころを聞けば 涙ぐまるる 
 
むりやりに 生きたい世とは 思わねど 借金返して 死にたいと思う 
 
ソ連には 原爆症の 治療薬 あると言いたり 今日の見舞い客 
 
土地売りて 旅費としソ連へ 治療しに ゆかんと病院のベッドで思う 
 
原水爆禁止の 寄せ書きの色紙 廻り来ぬ 隅の端っこに 力を入れて 
 
原爆病院の ベッドのわれに 学者の弟 金貸しくれと 責める速達 
 
癒ゆる日の なきといわれし 原爆症 なんとかしてと 枇杷の葉煎ず 
 
人工衛星は 必ず何時か 落ちるよと 思うはわれの 浅知恵なるか 
 
生きたくて 死にたくなくて 今日もまた 針つきたてるを 耐え忍ぶなり 
 
病棟の わたり廊下に 乙女子が からだくるりと まわりまりつく 
 
ようなって こまめになって 銭(ぜに)もうけ せんにゃつまらん 言い合いたりき 
 
ひとさまに 邪魔をすまじと 人けなき 時を選びて 湯たんぽ沸かす 
 
夜もすがら もだえもだえて 明け近み ほとほと疲れ 果ててまどろむ 
 
そそうして 原爆病院の 看護婦に 叱らる夢を うたたねにみる 
 
人形を 落せしままに 掃除婦は 隣室にゆく 音の聞こゆる 
 
配(くば)られし お膳の前に 坐せしとき 婢にはたのまぬ お仏飯(はち)思いぬ 
 
乙女子が 頬のケロイド 手術して 紫色の肌を 鏡にみてる 
 
ええ薬 あるよと今日も 教えらる なめくじ服めと 言うを聞きたり 
 
ソ連には 人工衛星が 飛んだとか 原爆病院のベッドの身 なんのかかわりもなし 
 
生命あれば 原爆病院は 賜われり 薬いただき 長く苦しむ 
 
いたわられ 薬いただき いたわりて 生きる生命に 今日は泣きたり 
 
病院に クリスマスツリー 飾られぬ ねんごろに見る ねまきのわれは 
 
軽症の 患者の人ら 集まりて 千羽鶴をば 糸通しおり 
 
入院の われに帰れと 吾子は言う 遊びごととは 思わざらぬに 
 
ピカのとき ごきっとまがって しまいましたよと 二重になった婆(ばば)は語りぬ 
 
朝々の 洗面のあと ふる香水 われのおごりよ 許させ給まえ 
 
サイレンが 鳴るその音よ なにかあり 誰かわざわい 起こりたるらむ 
 
 
 正田さんは広島市民病院に一度、原爆病院に二度入院したが、癌による苦しみ、そして精神的な苦痛に耐えて詠い続けた。その苦しみに対して、国の被爆者援護策は酷薄とも言えるものであったし、被曝直後から自らも被爆した多くの医師たちを含む広島医師会、原爆病院など医療機関の懸命の努力によっても原爆症に対する有効な治療法はなかった。自らの苦痛と、税務署が差し押さえ品を取りに来たと知らせ「帰って来てくれ」と訴える息子・・・、原爆被爆による苦しみは尽きることがない。その中にあって正田さんの作歌や詩作も、さらにつづく。 
                         (つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。