2011年12月23日14時07分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(21)正田篠枝『原爆歌人の手記 耳鳴り』短歌を詠む(6)「赤白の きょうちく桃の 咲き盛る 片かげたどり 原爆病院へ行く」  山崎芳彦 

 原爆歌人正田篠枝さんの『耳鳴り』の短歌を読んできているが、この『耳鳴り』が出版されたのが1962年(昭和37年)のことだから、歌集『さんげ』(1947年)も復刻収録されていることを考えると、正田さんが原爆に被爆してからほぼ17年間にわたっての短歌のなかのかなりの作品を読んできたことになる。正田さんが原爆被爆してからの、被爆時と直後の体験は『さんげ』に集約されていて、その悲惨な実態が、示された。正田さんの短歌作品だけではなく、芸術の各分野でも原爆の恐るべき殺戮と破壊のの実相とそれがもたらしたものの更に恐るべき悲惨を明らかにする作品も生まれ始めた。 
 
 その中から、筆者は原爆に関わる短歌作品を読み続け、いまは正田篠枝さんの「原爆体験」を人間まるごと、肉体・精神・生活・人とのかかわりなどを、その作品によって、時の経過とともに、追ってきている。 
 
 正田篠枝さんは、原爆被爆の体験を強制された一人の人間・女性である。そのなかで、懸命に、のがれることのできない条件にあらがいながら、その生を生きている体験を、短歌・詩作・文章で書き遺していった。原爆の投下時に即死した圧倒的に多くの人びとが為しえなかったことも記憶、追憶から呼び起こし、数日、数十日、数年しか生きられなかった原爆被爆者は、限られた時間しか与えられなかったが、それぞれのやり方でそれぞれの体験の確認と記録をし、それをあとからくる者に遺したであろう。私たちは、その貴重な遺産を少しでも多く、現在に生かし次の世代につないでいかなければならないだろう。科学も、芸術も。 
 
 正田さんは自分の方法で、彼女の原爆体験を私たちに遺してくれた。大切にしたい。 
 
 原爆という破壊と大量無差別殺戮を目的とした、人間の歴史上初めての核兵器の広島・長崎への投下は、その後の所謂「大国」間の核兵器開発競争、原水爆実験、原水爆保持への幕を開いた。 
 さらに原子核分裂によってもたらされるエネルギーを利用する「原子力の平和利用」―原子力発電技術を、人類の未来を開くものとして、軍事利用との裏表であることや、その原発の持つ種々の危険を押し隠して推進してきたのが現在の、核放射能の危機の社会なのであった。正田さんの体験と外形は同じではないが、本質的には同じ原子力による放射能被害体験を、今度はこの日本という国の政治や経済の仕組みによって形成された原発システムに強制されつつある現状を、先ず認識していかなければならないと思う。 
 
 その際、事実の正確な認識と、それに基く理性的で、視野狭窄に陥らない対応を、「加害者」に操られない、道理ある道を選択していきたいと思う。何よりも、被害者のなかで被害者を作り差別を生み出すことがあってはならないことに心しなければならないだろう。原爆体験の中では、非被爆者と被爆者の間だけでなく、被爆者のなかでもさまざまな差別問題があったといわれ、なによりも国や諸組織が差別の制度をつくり思想をつくり、さらにそれがさまざまに働いて、被爆者の苦悩が増幅された。この問題については、さらに考えを深めたい。 
 
 正田さんの短歌を読んでくると、原爆被爆による健康破壊の深刻さが数多く詠われている。さまざまな症状に苛まれる様子が、自身だけでなく周囲の人びとも含めて作品化されているので、かなりの期間の入院生活を送ったかと考えてしまいそうだが、実際の長期の入院経験は、昭和30年12月から翌年3月(広島市民病院)、昭和31年12月から翌年3月(原爆病院)、昭和32年12月から翌年4月まで(同)と3回の入退院を繰り返している。3年連続しての入院だったが、蛾の兆候の指摘を受けてからの病苦は続き、懸命に生きるためのたたかいの日々だった。 
 
 原爆病院を退院してからの作品を読んでいく。 
 
 
通院 
隔日に 原爆病院へ 注射しに ゆくをたのしむ ごとく着がえす 
 
原爆病院の 主治医にすがる 生命かも グラスかざしみ 薬服みこむ 
 
あの時に すでに死したる 生命をば 守り続けられ 長く来しよと 
 
屋根にはう ぶどうの新芽 柔き葉が 風にゆるるを 見つつ通りぬ 
 
通院に こうもりさして ゆく日なり 垣根の上に ちゃんちゃんこ乾さる 
 
にこやかに ほほえみのなき 原爆病院へ 通うは寂し 足も重たし 
 
にわとりが ここここと鳴く 裏道を 注射を受けに 今日も通りぬ 
 
片かげの できたころをば みきわめて 注射をうちに 原爆病院へ 
 
弱き身を 守りて生きる はがゆさを 投げつけたくも 目的(あて)なき身なり 
 
赤白の きょうちく桃の 咲き盛る 片かげたどり 原爆病院へ通う 
 
何時迄も お世話になって 済みませんと すっきりしない われ主治医に詫びる 
 
気兼ねして 詫びるわれに 主治医は 笑いながらも 深刻な顔 
 
見上げたる 原爆病院の 窓に立つ 患者が口大きく あくびしている 
 
三年前 入院のとき 一緒のひと 顔ひどく腫れ 原爆病院の窓に立つ 
 
嬉しげに 懐かしきらし 言(こと)掛けぬ 耳遠きわれ なにも聞こえず 
 
つんぼのわれ 蒼ぶくれの女 見上げたり 原爆病院の 石段の前 
 
気分のいい ときに見舞いに あがらんと それまで死ぬな 祈る思いす 
 
五年前 入院のとき 焼芋を ベッドのわれに くれし祖父(じじ)いるよ 
 
癒ゆるという ことがわが身に ありとせば 一千万円 貰いし如し 
 
ただひとり ひとにわからぬ 苦しみを いとしみかばい 薬いただく 
 
原爆症のため 夫に捨てられ ましたよと わびしきまなこ うるむをみつむ 
 
よそおえば 楽しげに 見ゆるらし 注射受けに 原爆病院へ われはゆくのに 
 
注射受くる われさえ飽きし きょうこの日 看護婦の 無あいそう あたりまえなり 
 
あんたさん どこで原爆 すいんさった 老婆が問いぬ 待ち合う椅子に 
 
ケロイドの おみな子供を ひとり連れ 逃げた夫は 浮気したんよと 
 
蒼き顔だと いうひとや 元気そうだと いうひとがありて 両方を聞く 
 
原爆病院へ あまり長いで 気兼ねだと われつぶやけば ばば深くうなづく 
 
原爆病院は 政府がしとる じゃけんの 機嫌が悪うても 気兼ねをすまいやあという 
 
幾度も 入院したる 原爆病院の 窓に笑みなき顔が 空を見ている 
 
 
  新興宗教 
知らぬ女(ひと) 通院のわれに 誘いかけぬ ほがらかになる 話聞きに来いという 
 
歩むわれを 離れず誘う 肩凝らず 身体丈夫になる ええ話しあると 
 
だれさまも 恨む気持の 無いわれは ありがたく生き 迷ってはいない 
 
歩くとき 醜い顔が しかめつらに 見えたる故に 誘いしならん 
 
ご親切 ありがとうよと 深謝して わが信念は 披瀝せざりき 
 
カンナ咲く 道のほとりを 日傘さし あの日の暑さ 思いつつ通う 
 
 
 正田さんの原爆病院通院の短歌が続いたが、あの『さんげ』の作品とは違った詠いぶりで、生き延びて原爆を背負わされた彼女の生活、心象を、独特で、自在な表現によって作品化し、この時期の被爆者の置かれた状況と実態を描いている。 
 
 「原爆被害の持つ物理的・医学的特質は、大量の放射線を人間に浴びせたことにある。放射線は身体に永続的な障害を残し、労働能力を喪失・減退させ、就職・結婚の差別等社会生活上の支障をひきおこした。また、原爆は無差別大量殺傷兵器であり、大量の欠損家庭を作り出した。更に、原爆は市民の家庭・財産・職業労働の場を破壊し、これら原爆被害の持つ諸特質は、相互に絡みあって、被爆者を《原爆症と貧困の悪循環》におとしいれた。投下直後、被爆者は不意に破壊と死の世界に遭遇し、深刻な精神的影響をこうむった。・・・アメリカと日本の政府は、被害(加害結果)を隠蔽・過小評価し、政治的に利用し、被爆者を放置し続けてきた。」と、前回にも紹介した一橋大学の濱谷正晴教授は述べ「原爆被害者の問題は原爆被害と戦後の政治被害の両面から統一的に把握されなければならないのである.」(原爆被害者問題調査研究の歴史と方法)と論述しているが、このような観点から正田さんの短歌作品を読むとき、そこに詠われている内容が、深く、分厚い姿を見せてくる。 
 
 『耳鳴り』の第七章は「広島を蝕む原爆」と題されて、詩、短歌によって原爆被害に苦悩する実態を浮き彫りにしている。 
 
 「川は生きている」という印象的な長い詩がある。全部を記録しておきたいが、抄録する。 
 
 「昭和三十年の ことであります 世界平和大会が/広島で 第一回目に開かれました 平和公園の あたりでは 花火の音がしています わたしの うちも 平和大会出席者の 宿舎に/あてられ 満員で ありました 全部 お客様は 出掛けられ 静かな 午後でありました 背の高い 白髪の 見知らぬ 老人が 川畔の 庭の方から 座敷へ はいって 来ました わたしは 怖ろしく 『どなた様 ですか』と 問いました 
 
 『誰でもない』 
 『ここは 商売屋 だろう 酒を 出せっ』と 
 
わたしは ブルブル ふるえて なりません 
 『どなた様 ですか』と 問いました 
 
 『俺の 顔を 知らん かっ/世間 知らずじゃ のう』と言いました 
 
 はい 何にも わからない わたし なのです 
 
  『何にも わからん 者は バカじゃっ/おい バカッ 酒を 出せっ/金を 出しさえ すれば ええんだろぅ ほらっ』 
  (中略) 
 
 突然 川の方に 向って 大きな 声で 叫びだしました 
 
  『おお川よ 川よ わが 愛する 川よ お前は/俺の 家内じゃっ/俺の 家内は あの ピカの時 川で 死んだ/家内が 死んでから 俺も 死んだ/川は 俺と 家内じゃっ 俺も 家内も 死んだのに/川は 動いとる 流れとる 川は 生きている/おい 川よっ』と/涙を 流して おります 
 
  『世界大会が なんじゃっ よそから 多勢/来やぁがって 俺の 心を 知りゃあ すまい』 
 
 この時 外から 多勢 お客様が 大会が 済んで/お帰りに なりました 
 
幹事の方が 私に そおっと/『気が 狂って いるんです のう』と/ささやかれました 
 
わたしには 狂人とは 思えませんでした/広島の 下積の 者の 
声だ と 思えました 
 
白髪の 老人は 始めて 気が ついた と 見えて/『ご免なさ 
い』と/靴を はいて 帰り かけよう と しました 
 
ひょろ ひょろっ と いまにも 川へ/落っこち そうです 
  (中略) 
  『俺は あの ピカ以来 ずうっと 酒びたりっ/酒を 服まずに 酒に酔わずに おれんのじゃっ』と/つぶやきながら よろ よろ よろめき/歩く ので ありました 
 
  『けがを しないように 気をつけて/川へ 落ちないように 用心して下さいよっ』と 言いながら 体をささえます と 
 
  『あんたは やさしいのう(と目を すえてみつめ)/これじゃあ 商売にゃあ ならんわい』と/言うて 去(い)にました」 
 
 ひとり来し 駅のベンチに 古新聞 被爆孤老の 自決記事のる 
 
 
  遊覧地ひろしま 
名勝と かわりて来たり 灯を入れて 遊覧バスが 並びて走る 
 
カメラ持ち 観光客が 原爆の ドーム見ている 青き目をして 
 
 
  慰霊祭 
酷熱の 夏ともなれば 広島は 慰霊祭事で ごたごたするよ 
 
あのときに 逝き去りしひと いづこにや 悲しきほどに 音沙汰 
もなく 
 
はなやかな 水浴道具 もてあそび 十五年後の川に 子等はにぎ 
わう 
 
眼にみえねど 仏や神が おわすかや この暁の すがしきけはい 
 
 
 ケロイド 
川辺にて スケッチなせる 青年は 夏でも長き カッターの袖 
 
何時見ても 帽子をかむる 青年の 心を誰か 慰めやらむ 
 
帽ぬがぬ ケロイドのある 青年は 家業をつぎて スサきざみお 
る 
 
 
 『耳鳴り』の短歌も残り少なくなったが、次回も読んでいきたい。 
 
                        (つづく) 


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