2011年12月30日14時40分掲載  無料記事
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文化

[演歌シリーズ](22)日本のブルース 1 ―淡谷のり子『別れのブルース』―  佐藤禀一

  ◆『港町ブルース』被災港の歌と地名ブルース 
 
 流す涙で 割る酒は 
 だました男の 味がする 
 
 あなたの影を ひきずりながら 
 港 宮古 釜石 気仙沼 
 
 気仙沼(けせんぬま)市内にこの歌碑がある。森進一が、昭和44年に歌って大ヒットした『港町ブルース』(詩・深津武志 補作・なかにし礼 曲・猪俣公章)。気仙沼は、この歌が心から歌える日に向かって、「海と生きる」を掲げ復興に向かって歩み出した。 
 気仙沼市の市街地は、湾奥を中心に広がっている。地震そして、津波と火災により壊滅的な被害を受けた。11月末現在、死者1,029人、行方不明者359人、被災世帯9,500、魚市場・水産加工場などほぼ消失、漁船は大小3,566隻のうち約3千隻が損壊……。 
 
 津波を「海が牙を剥(む)いた」と表現した詩人がいたが、海は、山とともに“善”で、海もまた被災者だと思っている。牙を剥いて襲ってきたものには、復讐……? でも、気仙沼の市民は、「海と生きる」を復興のスローガンに掲げた。海に寄り添って生きていた人たちは、海への恨み節など歌わない。海は、共に生きる“心友”なのだ。 
 
 『港町ブルース』は、函館から鹿児島までの港々に相聞(恋)と別離の男と女の物語を滲(にじ)ませた。森進一の虚空に、哀しく響く高音(ハイノート)が、歌を深くした。この歌が、晴れ晴れとして喜びに充ちたものではないのに、気仙沼の漁民、人々は、一刻も早く歌いたいと言うのだ。歌とは不思議なもので、哀しいときに楽しい歌を、楽しいときに哀しい歌を聴いたり歌ったりした方が、何故か心に染みる。 
 
 それにしても地名を付けたブルースが多い。思いつくままに歌った歌手と歌名を挙げてみる。 
 ムード・コーラスによる歌が目立つ。内山田洋とクール・ファイブ『中の島ブルース』『西海ブルース』、高橋勝とコロラティーノ『思案橋ブルース』、平和勝次とダークホース『宗右衛門町ブルース』、黒沢明とロスプリモス『城ヶ崎ブルース』『新潟ブルース』、和田弘とマヒナスターズは、三沢あけみと『島のブルース』松尾和子と『銀座ブルース』。 
 歌手別地名ブルースは、古いところでは、ディック・ミネ『上海ブルース』、田端義夫『玄海ブルース。印象に強く残っているのは、扇ひろ子『新宿ブルース』、西田佐知子『東京ブルース』、美川憲一『柳ヶ瀬ブルース』、青江三奈『長崎ブルース』『伊勢佐木町ブルース』、地名がタイトルにはなっていないが詩にちりばめてある森進一の『港町ブルース』と『盛り場ブルース』がある。 
 
 日本の演歌、歌謡曲におけるブルース・ソングのスタートは、淡谷のり子の『別れのブルース』であり、淡谷はさらに『雨のブルース』『君忘れじのブルース』を歌っている。ディック・ミネ『上海ブルース』と『夜霧のブルース』、高峰三枝子『懐しのブルース』、鶴田浩二『赤と黒のブルース』、そして、青江三奈『恍惚のブルース』などが印象に残っている。 
 
 地名ブルースが多いのは、音楽好きな日本人の心に『セントルイス・ブルース』が深く染み込んでいたからであろう。 
 
 ◆日本のブルース誕生と淡谷のり子 
 
 日本のブルース演歌の源(みなもと)は、昭和12年淡谷のり子が歌った『別れのブルース』である。服部良一が、日本コロムビアの専属作曲家になった時、詩人藤浦洸に出会う。そこで、こう問いかけた。ブルースは、「黒人の専売ではないと思うんだ。日本には日本のブルース、東洋的ブルースが大いにありうると思わないかい」(註)藤浦は、大きくうなずいた。 
 
 そして、服部は、淡谷のり子の歌声と劇的に出会うのである。「ぼくは一軒のバーで洋酒を傾けていたが、ある衝撃を感じてグラスを宙に浮かせた。蓄音機(レコード・プレイヤー)からシャンソンの『暗い日曜日』が流れ出したのだ」(註)「淡谷のり子だ。本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう。もっともっと低いダミアバリの声で……」 
 
 美輪明宏の『暗い日曜日』も好きだ。暗澹(あんたん)たるしわがれた低音でつぶやくように歌う。「愛と苦しみの唄をつぶやき/二人暮した部屋にもどる/腕に花を山と抱えて」(訳・美輪) 
 聞いて自殺者まで出たというダミアの憂鬱なうめきも心にすき間風を吹かせる。でも、「花を部屋に 君を待てど/もはやわれを たずねまさず/ただひとり むなしくまてり」(訳・脇野元春)淡谷のり子の重低音からソプラノに噴き上げ、虚空に消え入る暗鬱な揺らめき、心奪われる。この歌声を聴き、服部良一は、「夢遊病者」のように本牧をさまよった気持がわかる。「ブルーな旋律の断片が見下す港の、沖からよせる黒い波のように悲しく浮び消えた」 
 
 本牧は、横浜の街で、港を見下す小高い丘にある和風バー地帯。外人を相手の私娼窟でもあった。昭和に入ると異国情緒あふれる粋な街に変貌した。藤浦洸が付けたタイトルは、『本牧ブルース』地名ブルースであった。詩は、ブルースの基本型の12小節3行詩。 
 
 窓を開ければ 港が見える 
 メリケン波止場の 灯が見える 
 夜風 汐風 恋風のせて 
 
 今日の出船は どこへ行く 
 むせぶ心よ はかない恋よ 
 踊るブルースの 切なさよ 
 
 このシリーズ(19)でブルースは、アフリカから連れて来られた黒人達が、「厳しい農作業の中で、足を踏みならし、哀愁に満ちた声(ブルー・ノート)で仲間の存在を確認し合い、作業の能率を高めた」アメリカの音楽と書いた。労働歌(ワーク・ソング)であったブルースが、日本では、男と女の切ない別れの歌になった。ブルース演歌の誕生である。 
 
 戦後、日本の各地に雨後(うご)の筍(たけのこ)の如く、ダンス・ホールが出来、日本のブルースは、煽情的なニュアンスを濃厚にし、グランド・キャバレー全盛時代に、客とホステスが頬を付け合うチーク・ダンスに欠かせない旋律となったのである。『広辞苑』がブルースをその二つ目の意味に「社交ダンス用に演奏される4拍子の哀調をおびた曲」と記した所以(ゆえん)である。 
 
淡谷のり子が揺らした哀情(あいじょう)が青江三奈に乗り移り、「あとはおぼろ/ああ 今宵またしのびよる」(『恍惚のブルース』詩・川内康範 曲・浜口庫之助)と気怠い余韻を漂わせた。森進一の『港町ブルース』にも忍び込んだ。 
 
 日本のブルース・ソングには、淡谷のり子から始まった“ブルース演歌”と次回に紹介するソウル・ミュージックやロックと結びついた“心に闇を抱いた”ブルースがある。 
 
(註)『ぼくの音楽人生』服部良一著 日本文芸社 


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