2012年01月01日12時30分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(23)正田篠枝『原爆歌人の手記 耳鳴り』短歌を読む(8)「勤めより 帰りし息子 ひそと怯え 安保反対の 署名をすなと」   山崎芳彦

 正田篠枝さんの『耳鳴り』が平凡社から刊行されたのは、1962年(昭和37年)であった。同書の刊行にいたる経過について、水田九八二郎氏の『目をあけば修羅 被爆歌人正田篠枝の生涯』(未来社刊 1983年)では「『耳鳴り』の原稿四百枚は弟誠一から岩波書店に持ちこまれ、同書店を経て専修大学教授で中国思想家の幼方直吉の手で平凡社の編集者、鈴木均に渡ったもので・・・」と記されている。また正田さんと1962年に出会い、以後、深く親密な交友関係を持った作家の古浦(旧姓浜野)千穂子さんは「原爆歌人正田篠枝とわたし」(『女がヒロシマを語る』 インパクト出版会1996年刊)で次のように書いている。 
 
 「篠枝を知ったばかりの頃は、わたしは篠枝が原爆投下後から、自身の被爆体験や、友人、知人らから見聞きした被爆の悲惨さを短歌に詠み、占領下の検閲があった時代に、処罰を覚悟して、原爆歌集『さんげ』を出した人だとは知らなかった。/わたしが『さんげ』を読んだのは、一九六二年十一月に、平凡社から出版された『耳鳴り―被爆歌人の手記』に収録されたものであった。/一九六二年暮れから、正田宅を訪問するようになったわたしは出版されたばかりの『耳鳴り』を署名入りでもらった。/わたしの記憶では『耳鳴り』は四百部著者買取りの出版で、その本代を出版社に支払わなければならないとのことだった。/売ってあげましょうと、引き受けたものの、わたしにできたのは勤め先の同僚たちに売り、繁華街の会社の近くの古本屋の店頭に置いてもらうことだった。しかし、店主は『この本は置いておけば値打ちが出る。売り急がない方がいい』と忠告して下さった。/『耳鳴り』には、原爆歌集『さんげ』が収録されている。歌には篠枝による説明がつけられ理解しやすくなっている。また被爆後の篠枝の生活や身近な人たちの暮らしが、生き生きと短歌や詩で綴られている。原爆の悲惨さも、それをこえてしたたかに生きようとしている人たちも、けなげに描かれていて被爆した広島の庶民たちの記録になっている。終章には原爆童話『ピカッ子ちゃん』も入っている。この『耳鳴り』の出版でそれまで幻であった歌集『さんげ』が一般に読まれ、被爆者の惨状を生々しく伝えた原爆歌は読者に衝撃を与えた。」 
 
 古浦さんは、正田さんの遺稿抄『百日紅―耳鳴り以後―』(1966年7月 文化評論出版社刊)の編集委員、さらに『さんげ―原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』(広島文学資料保全の会編 社会思想社・現代教養文庫 1995年7月刊)の正田さんの伝記的な解説の執筆者でもある。 
 
 その『耳鳴り』の短歌を引き続いて読んでいく。 
 
 
  浪人 
浪人の 学生いとし 受験日が 近づきたれば いらいらするらし 
 
届きたる 受験番号の はいりたる 状袋らし 急ぎポケットへ 
 
大学へ 合格すれば このままに 部屋を借りても くれるのにと思う 
 
はち巻きを して勉強する 浪人の 学生の影 硝子戸越しに 
 
どの窓も 暗き真夜中 浪人の 学生の窓 あかるくともる 
 
 
  曇り日 
しめりたる たき木をいじり 風呂を焚く 夜も更けたらし どの窓も暗く 
 
しがないと アパート業を 口にして 心に思い 今日も暮れたり 
 
旅館業 廃めてかわりし アパート業 気分が楽(らく)と 思いたりしに 
 
泣き顔を 見られたくなし 灯を消して 暗き食堂に 風呂番をする 
 
髪を洗い 気分転換 しましょうと ひとけなきとき えらび湯に入る 
 
部屋代の 未払いのひと 痩せし顔 そむけて通る 門掃きおれば 
 
ひとさまに 支払いくれと 請求を しないで済ます 仕事がしたい 
 
あの人は 約束どおり 支払いを してくれるから 良いひとと思うが哀れ 
 
アイロンも 電気洗濯機も ミキサーも 誰かがこわし なさけがないよ 
 
人数を かぞえてみたら 大部分 春の三月 部屋が空くらし 
 
がたがたと 北窓の硝子 かまびすし 台風きよると テレビが告げぬ 
 
ぼそぼそと 隣り家より 声漏れて もめごとらしと ひとり思いぬ 
 
 
 おどし文句 
いずわると おどしの文句 言いはじむ 誠実本位に 部屋貸したるに 
 
生みの母 この子にもあると 思ほえば けじめたつこと 言い難きわれ 
 
ごとごとと 言葉かわせど 結論は 金払わぬを 払え言うこと 
 
夜逃げしたり いずわる者も ある世なり 金払わずに 出る俺はよしという 
 
ほとほとに 悲しく泣きて 腫れおると 婢は契約書 作らぬを責む 
 
管理人に なってやろうと にやにやと 笑うひとあり 泣き腫れおれば 
 
 
 1952年に平野町の自宅で割烹旅館の営業を始め苦労した正田さん 
は、1956年には、都市計画法の実施で建物の移動を余儀なくされたため、改装をして学生下宿に転業をした。入退院を繰り返した時期でもあったが、広島市の「復興」建設事業の蚊帳の外に置かれ、原爆被爆者の多くが医療、生活に対する保障もなく苦しんでいた時期であった。 
 
 1954年の米国のビキニ環礁における水爆実験で日本漁船が死の灰の犠牲になったことにより、原水爆に対する関心の高まり、原水爆禁止運動の広がりがあり、改めて広島・長崎の原爆被害への国民的な理解と認識が高まりつつあったが、被爆者に対する国家的な補償、医療・生活支援の施策は大きく立ち遅れていた。その背景には、「戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに対する補償は憲法のまったく予想しないところ」とする国家権力の、まことに許し難い論理があったのである。それは、原爆医療法と原爆特別措置法が1994年に統合され被爆者援護法が制定されてもなお、国家補償の精神に基くものにはならなかったように、現在に到るまで国民の「戦争受忍義務」を強制する国家権力の本質が貫徹しているということである。 
 
 日米安保条約体制の下での沖縄県民に対する米軍基地の押し付けをはじめ、近年、益々強まっている軍事力による自衛力強化論、侵略に対する抑止力と称しての軍事力の強化はとどまることなく、ついには核武装容認にまで行き着く危険性を高めている。 
 「国の存亡にかかわる非常事態」と国民の「受忍義務」を結びつける論理の危険性は、現に、たとえば沖縄県民に米軍基地の存在による犠牲を強いていることと無縁であるはずがない。 
 
 原爆被爆歌人・正田さんの『耳鳴り』の短歌、詩はこのような日本の広島から発信された警報でもあり、その日常生活詠の奥にあるものを読み取りたいものである。 
 
 『耳鳴り』の第九章は「ひろしまの願いは一つ」となっている。「やりきれません」という詩がある。 
 
 
人間の一番 嫌いなことは 死ぬことで あります/一番 嫌いなことが 必ずあります 
 
必ずあると いい切れる 言葉は 死ぬことだけに/ あると 思います 
 
なんとした 困った ことで ありましょう 
 
一番 嫌いなことを あんなに 沢山 やられて/しまう 原爆なんて たまりません 
 
その上に そのために 一番 嫌いな ことが ぽつりぽつり 後を 引いて 起きては やり切れません 
 
たまりません 
 
 という短い詩である。また「はぐゆい」という詩もある。 
 
 
天皇さまも 皇后さまも 皇太子さまも 美智子妃さまも 
スモウや テニスや 野球を ご覧に なるばかりでなく 
原水爆製造禁止の 運動に 力を お入れになり世界中へ 
平和を 愛し 生命を 大切に することの 
日本の 信念の 宣言を してくだされば よいのになあ 
と はぐゆうて はぐゆうて なりません 
 
 
 という詩である。ある人は、正田さんの作品のいくつかをあげて天皇の戦争責任の問題が抜け落ち、天皇に平伏し、膝まずいている趣きがあると指摘しているが、この詩を、私はそうは読まない。 
さらに短歌を読んでいきたい。 
 
 
  気にかかる人達 
まむかいの ケロイドの青年は 原爆(ピカ)以来 無口になりぬ 姿見かけず 
 
母死して 原爆(ピカ)以後父が ひねくれて ぐだまく話 もちくる娘 
 
肉身を うらみ生きいる こころ根を 解決し得ず われ黙し泣く 
 
うちの 風呂 さけて銭湯に ゆくひとは ケロイドもぶれ きにかかるなり 
 
 
  こんな人もあり 
権威もつ 職に坐れる 彼の人が デモに加わるなと 細くつぶやく 
 
デモ隊の キチガイ沙汰の 手振るまねを 権威の座にある 従兄はけなす 
 
勤めより 帰りし息子 ひそと怖え 安保反対の 署名をすなと 
 
大いなる 流れの水に さからうなと言う 安保賛成 する人なるか 
 
 
  こんな者もおる 
デモに出ず 署名せずとも 心底に 戦死せし人 忘れ得ず泣く 
 
デモ隊を 送りいだして 紙屑を 広場に拾い 青芝に坐し泣く 
 
誠実さ あると信じて いる人はみな 安保反対 なさるが不思議 
 
東京駅 下車のわれらに まなこ澄む 駅員ストを詫び 援助乞う整列最敬礼し 
 
東京の 神田の八百屋 デモの為 休業すると 紙張りてある 
 
愚かなる 感にぶきわれを よびさますか 戦死せしひとの どよめき聞こゆ 
 
八月四,五、六、「休業します」紙張りて よろい戸 おろす 広島かなし 
 
 
 正田さんの『耳鳴り』に収録された短歌作品を読み終えたが、同書が出版されたのは正田さんが52歳のときであり、その後、約三年を経ずに、原爆症による乳がんとその転移との闘病の果てに彼女は1965年(昭和四十年)六月に逝去した。原爆によって強制された死であり享年54歳の生涯であった。彼女は、懸命に原爆に強いられた苦しみとたたかい、生き、そしてその命が尽きるまで短歌、詩などの表現活動を行い、原爆被爆者としての生の記録を遺した。 
 
 彼女の死後、広島の歌人、詩人有志により、正田篠枝遺稿編集委員会が『百日紅―<耳鳴り>以後―』を刊行(1966年7月、文化評論出版社)した。同書の帯には「ここに収録された作品の大部分は広島の良心であった故人が病床で書きつづったヒロシマへのひそかな遺書であり、平和希求への永遠につづくアピールである」と、広島県詩人協会、広島県歌話会の連名で記されている。筆者は、同書に収録されている作品を読んでいきたいと思う。『さんげ』、『耳鳴り』『百日紅』と続けて正田篠枝さんの短歌作品を読み継ぐことになるが、正田さんの短歌について、いわゆる「専門歌人」の評価は区々であるが、そこに詠われている原爆歌人の真実を疑うことはできない。作品を読みながら、原爆、原発、現在と未来について、考えていきたい。 (つづく) 


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