2012年01月07日12時02分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(24)正田篠枝遺稿抄『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(1)「みなさんの心にふれて役にたつものであれかし祈りて止まず」  山崎芳彦

 原爆被爆歌人の正田篠枝さんの短歌作品を読み継いできたが、彼女が原爆症癌とのたたかいの果てに1965年(昭和40年6月)に広島市平野町の自宅で死去して1年後、一周忌に彼女の遺稿集が出版された。広島詩人会、広島歌話会の有志が遺稿編集委員会を設け、正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』を編んだのであった。 
 
 編集委員は、栗原貞子、深川宗俊、浜野千鶴子、小久保均、藤井ゆり、大原三八雄、荏原肆夫の各氏が名を連ねている。歌人、詩人、作家の顔ぶれからも、正田さんの表現活動の多彩さがうかがわれる。「『百日紅』編集のあとに」の日付は昭和四十一年六月と記され、前年六月に逝去した正田さんの一周忌に捧げる一巻であることが明らかにされている。(出版は昭和41年7月20日、文化評論出版社刊) 
 
 同書は、短歌作品三百八首と詩作品十三篇で構成されている。書名に「耳鳴り以後」とされていることから、彼女の命が尽きるぎりぎりまでの、原爆によって強制された死に抗い、よく生きようとする意志、その生の記録を刻み付けるように表現活動に励んだ果実の少なからぬ部分を、編集委員会は九十頁の本書に掲げたのであったろう。 
 
 同書の短歌作品を読んでいくに先立って、順序は逆になるかもしれないが、筆者は「編集のあとに」を読みたい。その全文を読むことで、正田篠枝さんの人間像が浮かび上がってくると思うからである。関係者に失礼があれば、お許しを乞うのみである。 
 
 「正田篠枝さんの歌や詩には自然のたたずまいや、樹や花の美しさに溶け込んで、それをそのまま感動をこめて歌った作品は多くはない。けれども若いころから繊細な感受性を育ててきたこの人の優しい資質を思えば、そうしたものの美しさが見えなかったはずはない。そしてまたそれを見まい、としたのでもなかったであろう。ただ眼にうつるものを柔らかい感情に移しかえて歌い、はかない美しさに溺れるのではなく、もっと深いところにいつも呻いているわたくしたち人間の宿業というものの真実にいっそうこころをひかれてきたのである。 
 美しく生きてありたいねがいと、それゆえの悲しい現実のありかた、このふたつの中で正田さんは自分がつまづき、傷つきながら歩いてきたことを人びとに語ろうとして、死が訪れる日まで身をけずるように作品を書き綴っていたのであった。だからその短歌は整った完成などよりも飾らない対話のような形で、ときには歪んだまま、この人の訛りをもって強い衝撃をわれわれにあたえるのである。また詩の作品は散文のような直説法で訴えてくることによって一層感動深いものがあるのだとおもう。 
 正田さんが亡くなってちょうど一年になる。原爆による被害の後遺症が進んで、もうあと六ヵ月の生命だと医師から宣告されたのは死の二年ほどまえである。自分はどうあがいてもまもなく死ぬのだから、人生へできるだけのお返しをし、見苦しくない用意をしておかなければならない、というおもいはそれからの正田さんの日々のすべてを生甲斐あるものにしていたにちがいない。『わたしは原爆の生き証人なのだから滅多には死なない。』そういう固い意志があれだけ生きながらえさせたといえよう。 
 癌が躯ぜんたいに転移して苦痛がはげしくなってきても、病床に仰むけになったままでカマボコ板にとめた紙片に、忘れてはならぬことどもの数々をいつも書きとめているのであった。よくこそ、死の日まであのように生きてくれたものだとわたくしたちはおもわずにはいられない。 
 正田篠枝さんの友だち、知己はずいぶん広い範囲にわたっている。四年前『耳鳴り―原爆歌人の手記』が平凡社から出版され、つづいて昨年、NHKテレビが人生記録としてのその病床生活を放送してからは、未知の人たちとの新しい交わりがいっそうひろがっていったようである。そして最後にこれだけはと念願している文筆の仕事の時間がすっかり奪われてしまうのも気にかけないで、ほとんど毎日の生活はそれらの人にささげられるのであった。 
 『幸福でいる人はわたしなんかのところへ訪ねてきたりはしません』そういってどんな見知らぬ人間でも部屋に招きいれ、もう不自由になってしまった痩せおとろえた手で、ハッサクの皮をむきながら、しみじみと語りあい、一緒に涙をながすのがつねであった。正田さんが下宿業を営み、棲んでいた広島御幸橋のたもと、河畔荘の扉はいつでも開かれていて人を拒むということがなかった。医師のすすめで『面会謝絶』と書いた色紙を部屋の入り口に掲げてはみたものの、人が来れば自分のほうからそれをいつも撤回しているみたいだった。それだから訪れるものは自分こそ正田さんのいちばん大切な友達であるとおもわずにはいられなくさせられるのである。わたくしたちもそういう恵まれた訪問者のひとりであったようだ。 
 正田さんの作品はこのような日常の苦しいたたかいのなかからうまれた。原爆による多くの死者たちへの切ない憐憫と、それゆえに地上に生きてあるものすべてと手をとりあおうとして喘いできたその詩と歌はながくこの人の記憶とともにわたくしたちの慰めとなり、やさしい励ましとなるであろう。 
 この遺稿抄は、短歌、詩、手記、そして書翰など故人が書き遺した夥だしい量の作品のなかから撰んだ。もちろん遺稿はこのほかに故人と交遊のあった人びと、あるいはわたくしたちの思いもかけぬところにも残されているはずである。たくさんの人びとによってそれぞれの正田篠枝さんがあるように、それぞれの人の手許に遺された作品を収集することによってはじめてほんとうの姿が浮かびあがってくるのだとおもう。だから洩らさずにそれらを集めて目を通しておきたいのはわたくしたちの願いであったが、正田さんの一周忌にと思いたった、この編集にとっては、とうてい望みえないことであった。それで後日、より立派な遺稿集を編みたいということを願いとして、ひとまずこのようなささやかな形をとることになった。 
 故人にゆかりのあった方々、そしてまたこの遺稿抄を読んでくださる方々の今後のご協力をお願いしておきたい。なお、この遺稿抄の出版を進んで引き受けてくださった文化評論出版株式会社社長荒木栄之助氏に深い感謝の意を表するものである。」 
 
 正田篠枝遺稿抄『百日紅―耳鳴り以後』の編集委員の氏名が列記(前述)されているが、その思いと意図が込められていて、これまで正田さんの短歌作品を読んできた筆者としては胸を打たれた。この後、正田篠枝さんにかかわる研究や作品の収録が行なわれ、紙誌への発表、書籍の出版もかなり多くなされたが、短歌作品の収集と正田篠枝さんの足跡をまとめたものとしては、広島文学資料保全の会が編集した『さんげ―原爆歌人正田篠枝の愛と孤独―』(社会思想社・現代教養文庫 1995年7月発行)が充実していると、筆者は読んだ。 
 
 1991年に広島文学資料保全の会が広島市立中央図書館に協力して、正田篠枝文学資料展「女ひとり『さんげ』を生きて」を開催したが、同展は保存の会のメンバーである作家の古浦(旧姓浜野)千穂子氏が正田さんの死後、短歌、詩、童話、手記などの遺稿を預かり保管していたものを中心に整理、分類、選別して、正田さんの創作と生き方をひろく市民に知ってもらうことを目的に企画され、短期間の開催にもかかわらず2500人を越える入場者を迎える盛会となったという。 
 
 この展示会を機にして、正田篠枝の歌集出版が計画されたが、未発表の作品を中心に、「その歌をして篠枝自身を語らすように」編むことになり、生前の彼女を深く知る古浦氏がテーマごとにまとめて伝記的な解説をつける構成で、『さんげ』の復刻をはじめ、『耳鳴り』『百日紅』の作品のほか、『ひろしまの河』、歌誌『晩鐘』『短歌至上』などへの発表作品、さらに未発表作品も数多く収録して、おそらく正田篠枝歌集としてはもっとも多くの作品が採録されているものとなっていると思う。(以上は広島文学資料保全の会代表幹事であった好村冨士彦氏による同書の「まえがき」の要約と筆者の感想。)この編集には『百日紅』の編集委員であった人も多くかかわっており、前記の「あとがき」の意志が生きたといえよう。 
 
 同書のほかに、水田九八二郎著『目をあけば修羅 被爆歌人正田篠枝の生涯』(未来社刊)、月尾菅子著『正田篠枝さんの三十万名号』(藤浪短歌会刊)などの単行本、石川逸子氏の『ヒロシマ・ナガサキを考える』(会報に連載した「正田篠枝ノート」)その他多くの労作があるが、短歌作品を読むということになると、いまでは単行本は絶版になっていて困難な状況である。残念なことである。 
 
 『百日紅』の作品を読んでいきたい。 
 
 
 耳鳴り 
夜の更けをたぎつ湯釜よ被爆後のわれの耳鳴る耳のごとくに 
 
じんじんとこころの奥は暗くしてさびし耳鳴りただわれのもの 
 
きのこ雲のぼりしかの日も暑かりきその日よりつづくわが耳鳴りは 
 
貧血で耳鳴りひどく夜のまなかかつて聞こえし汽車の音聞かず 
 
原爆後遺症貧血のための耳鳴りは孤独のこころにひとしおひびく 
 
耳の奥に鳴りて止まざるこのリズムわがものとしていとしみ久し 
 
耳鳴りも聞えずなりしときこそ死そのさみしさをひとり思いぬ 
 
わが病医師は直接告げ給わず家族より聞く癌が骨おかし始めしと 
 
これの世に何の望みもなけれども弟の帰国待たれてならぬ 
 
附添婦やとう話よこのわれがかくも弱りてたのむ気になる 
 
死ぬまでに言うて聞かさにゃならぬことある心地しぬ子等よ集まれ 
 
サロンパス背の骨上に貼りてみるうめきつつひとりの夜が長し 
 
ただ人にあらざる医師にめぐり会いみとられ逝くはわがさきはいよ 
 
ABCCでわが体重三十九キロと聞き原爆病院入院時の五十五キロを思う 
 
比治山の上より見ゆる広島の家々かわゆし担架(たんか)車窓より 
 
みなさんの心にふれて役にたつものであれかし祈りて止まず 
 
散る桜残る桜も散る桜ひとあしお先にごめんください 
 
 
 前回まで読んだ『耳鳴り』のなかにも耳鳴りの歌が九首あったが、ここで読んでいるものとの重複はない。 
 正田さんにとって、耳鳴りは苦痛であるとともに、生きている証でもあった。「耳の奥に鳴りて・・・わがものとしていとしみ久し」、「耳鳴りも聞えずなりしときこそ死」と詠う。 
 
 死を意識した歌が多いなかで「みなさんの心にふれて役にたつものであれかし祈りて止まず」の一首に、「死ぬまでに言うて聞かさにゃならぬこと・・・子等集まれ」が重なり、次の歌にとつながる。 
 
 
 あの日から二十年 
あれから二十年あのお方もこの方も逝きて暁ひそと虫の音沁みぬ 
 
見せたやなさるすべりの花なよなよと薄もも色が風にゆるるを 
 
ふた昔前のこととはなりけるに夫(つま)と娘(こ)を逝かせし被爆女(おんな)涙はかれず 
 
あやまちは繰り返さじと誓いしに再軍備とは不思議なことよ 
 
ナパーム弾使用するアメリカいけません絶対にいまベトナムを去れ 
 
わが心思いのままにならぬゆえ真の平和を望むが無理か 
 
人類の真の平和は爐海海蹲瓩ら生まれいずるとわれは思うも 
 
人類の滅亡は原水爆にあらずして爐海海蹲瓩隼廚ζ盍僂硫未董
 
 
 正田篠枝さんの、自らが体験し、家族、知人、多くの人びとを殺し、生き延びてもその後遺症による痛苦と、死を強制される犠牲者が多かった原子爆弾への怒りは、日本の再軍備に対する批判、原爆を投下したアメリカがベトナムを侵略しナパーム弾を使用することを許せない思いを詠わせている。そして、真の平和を望む彼女は爐海海蹲瓩鯀覆┐襦 
 当時の正田さんは、原水爆禁止運動の中に生まれ始めた政党間の対立による混乱、彼女をも巻き込む原水爆禁止母の会の内部の紛糾などに苦悩し、安保条約の改定、日本の軍備増強への動きに対する哀しみにも似た怒りのなかにあって、仏教徒(彼女は浄土真宗派の私立安芸高等女学校に学び、1954年には得度し涙珠の法名を持ち、有髪の尼になって信仰心を持っていた)としてのこころが強まったのであろうか。それはやがて、原爆によって爆死した人の冥福を祈る三十万名号書写(南無阿弥陀仏の六字の名号を三十万書写する。)につながっていく。この経緯については月尾菅子氏の著書『正田篠枝さんの三十万名号』に詳しい。 
 
 この正田さんの信仰は、もちろん原爆に怒り、戦争を憎み、平和を願う心と矛盾するものであるはずがない。 
                         (つづく) 


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